4時間目  体育・課外授業 後

「……あぁん?」

 タウカン少尉の部下の一人が口を歪めた。「あいつら、何やってんすか?」

 丘の上からルインズの村の人たちを観察していたのだが、急に村人数名が指名手配犯であるイサミとセイマの周りに集まり、そして円を作る。

 顔は外側に向いていて、全員が周囲を険しい顔で伺っている。

「なんでしょうねえ……」

 と部下の一人が言うが、明らかに肩の力を抜いてしまっていた。

「どうみても、あの中に何かを隠していますぬ」

 バレバレの姿に、部下たちは半ば呆れていた。

 しかし、タウカン少尉だけは望遠鏡から外したその眼の力を緩めない。

「ということは、俺たちの存在にも気づかれたということだろう」

 その一言に、部下たちは再び背筋を伸ばした。

「こ、こんなに離れているのにですかぬ?」

「すっかりみすぼらしい姿だったとはいえ、ルミナーラがいるとは思ってなかったから考えもしなかった……くそっ」

 タウカンは舌打ちをする。

「当時ルミナーラと逃げ出したのは王国の重鎮や側近がほとんどだ。あの中にフィーリィがいればそれも可能だ」

「フーリィ?」

「先代の第二師団長様の娘だ。血は争えん、魔術の扱いにはそこら辺の魔術師では対抗できないほど優れているだろう。ミラーロ様よりもな」

「ですがタウカン様も魔術はお得意のはずですぬ」

「そうだ。だから俺の魔力の気配を悟られたんだろう」

 ということは……まさか昨日の?

「タウカン様も相手の気配は悟れないっすか?」

「うむ……あまり得意ではないのだが」

 とタウカンは瞳孔を開いた。同時に瞳の色がブラウンから灰色に変化する。

 タウカンの瞳に映る世界には、魔力の気配が見えているのだろう。

 部下たちが固唾を飲んで見守る。

 ……が。

「ううん、やはりよく見えん」

「まだ朝だから本調子じゃないだけっすよ」

「ヴァーカ、そんなこと関係ないんだよ。まぁいずれにしろ、また隠れられても迷惑だ。が……」

「行きますか?」

「そういきたいところだが……先生は何をやってるんだ……早く来てくれ!」



「その格好になったからなんだというのだ……!」

 シセリーの口調は強気だったが、アイサに槍を構えたまま微動だにできなくなっていた。トリヒスもまた同じ感情だったのか、目や鼻の穴を開いて固まっていた。

「特に何も」

 アイサは涼し気に言う。

 ゴム手袋をはめた右手で、後ろに纏めた髪を払う。「しいて言うなら、私が戦う準備が整っただけ」

 と付け足すが、特に身構えることはなく、ただ立っているだけだった。

「小娘が何を言うか……!」

 シセリーは見定めるように構えは崩さず、眼球だけを上下に動かす。

 即座に間合いを詰めるような気配もないアイサ。

 武器を取り出す様子もない。

 左手を口元に運ぶ。立てた親指を唇に触れさせた。

 何をしたのか、最初はシセリーには分からなかった。

 自分の間合いの外ではあるが、同時に相手の間合いでもないだろうと踏んではいるものの、構えは崩さず静観してしまった。

「魔術師の類か……?」

 仲間であろうはずのトリヒスもまた自分と同じように、彼女の同行を逐一観察していることが、シセリーの行動を鈍らせる。いっそのこと、連携を図るようにトリヒスが退くなり、構え直すなりしてくれればシセリーも体勢を整えやすかった。

「なっ……」

 アイサの左手の親指から、血が滴っている。先程舐めたのではなく、嚙んだのだ。

 滴る血を、彼女は自分の両の瞳に落とした。

「あ、アイサ殿!?」

 トリヒスの動揺もむなしく、アイサは最後に親指の血を舐め、吸う。

 そしてそのまま固まったままのトリヒスの前に出た。

 アイサの体を縁取るように薄く紫色の光が包んでいるように彼には見えた。

「申し訳ないけど、離れていてくれるかしら?」

 アイサの赤い目玉を向けられ、トリヒスは固唾を飲む。かつてエスポフィリア王国を襲った魔族たちと同等か、それ以上の妖しさを放つその眼と、口から滴る血に、魅入ってしまったかのように呆けていたが、やがて我を取り戻すと、こくりと肯き、距離を取った。アイサが第一師団長を破ったこと、そしてこのままでは自分もシセリーに葬られてしまうことを悟り、身を引いた。

「……残念だったわね、騎士さん」

 シセリーに正対する。先ほどまでの立ち姿よりは重心が低い。たったそれだけの変化だったが、相手がいくら自分より細身で、およそ殺気と呼ばれる気配や魔術の気力の流れも体から放っていなくとも、シセリーは油断することなく構えた。

「……何が残念だと申すのだ」

「私を攻撃する機会チャンスをみすみす失ってしまったことが、よ」

「貴様ぁ……死んで後悔するのだな!」

 地面を蹴るブーツの底が小石を擦る音が耳に刺さる。

 動き出したのはシセリーだった。

 アイサは動かない。

 槍を懐の奥に構え、間合いを詰めるや鋭く穂先を伸ばす。

 動かぬ木を射貫くことは容易い。

「アイサ殿!?」

 横から見ていたトリヒスは顔を青褪めさせた。

 朝陽の手前で対立する二人のシルエット。

 セシリーの穂先がアイサの体を貫いたように見えたからだ。

「ぐっ……!!」

 うめき声を漏らしたのは、セシリーだった。

 アイサは、槍を右の脇に挟んでいる。その槍を抜こうにも、びくともしないようだ。

「返してほしいの?」

 アイサは、左手を右わきの裏に回し、穂先の根元を掴むと、力でへし曲げた。

 ステッキの持ち手のように曲がった槍は、アイサの右腕に絡みつく。

 左手で拳を作り、

「き、きさ――まっ!?」

 アイサが右手でつかんだ柄を引くと、槍を必死に掴んでいたセシリーはその体ごと引き寄せられてしまう。

 そして、身構える暇もなかったシセリーの、

「ぐぼぇぁ!?」

 鎧の胸に輝く王家の紋章に、左の拳をめり込ませた。

 鉄の鎧は、まるで紙のように簡単にくしゃりと凹む。

 厚い金属を殴る鈍い音が静かな林の中に響き渡った。

「なっ……」

 トリヒスは声を失った。

 拳の大きさは変わらない、標準的な10代の女の子と同じ細くか弱い手をしている。だのに二周り以上大きな範囲で鎧が凹む。

 セシリーの口から唾液が、胃液が、血が噴き出した。

 至近距離でその飛沫を避けることもしないから、アイサの顔や髪、体に血が噴きかかってしまい、赤く染まった。

 殴り方は歴戦のトリヒスが戦場で見てきたどの流派にも当てはまらない。

 いや、むしろ殴り方を知らないだけ。ただ拳を思い切り突き出しただけ。ねじりながら伸ばした辺り、誰かに何かを聞いたことはあるのかもしれないが、とてもその殴り方ではこの結果を招くことはできないだろう。

 ということは魔術の類だろうか――トリヒスが頭を巡らせている間に、シセリーが膝をつき、倒れる。体が小刻みに震えていた。

 口から溢れる血が泡となり始め、瞳が揺れ動く。

「まだ死んでないわよね」

 アイサはその顔のそばに片膝をついた。

「ぐがが……」

 うめき声なのか、何かを訴えているのか、手を伸ばそうとしているが、震えるだけ。死に際の虫けらのようだった。

「トリヒスさん」

「え、あ、うむ。どうされました?」

 突然呼ばれて、慌ててそのそばに向かおうとする。が、それはアイサの手で制止された。

 錆びた鉄のような生臭さが朝の冷えた風に乗って漂う。

「これから私がすることは二人には秘密にしておいてくださるかしら?」

 特に表情を変えることもなく、アイサは今度は左手の小指を噛み、血を流す。

 ゴム手袋の右手でシセリーの頬を掴む。

 そして強引に開いた口の中に、小指の血を一滴、滴らせたのだった。



「――どこにいるんすか?」

 イサミはできるだけきょろきょろしないように真っすぐ前に体を向けつつ、瞳だけを左に動かして尋ねる。

「恐らくですが、南の山の中腹です」

 フーリィもまた同じように前を向いたまま答える。

 イサミとセイマを含めた六人がルミナーラを囲んでいたのだが、南はちょうどセイマが立つ方角だった。

 村の向こうに山が見えるが、その中腹だという。

 セイマは信じられないと目を丸くしたが、他の村人たちは違ったようだ。

「なるほど、確かにあそこなら木が開けた場所があるな」

 ……ということらしい。

 セイマの右隣にいたイサミもまた、視界の端にうすぼんやりと山肌を確認するが、当然人の影などわからず、気配の類も感じられない。

「どうする? 一旦隠れるか?」

 イサミが言った。

「いえ、あの洞窟が見つかってしまいます。それにあそこ以外にすでに周辺に潜んでいたとしたら危険です」

「あのぉ……私でよければお手伝いしましょうか?」

 控えめに手を挙げたのはセイマだった。

「場所がわかるならどうにかなると思います」

 セイマの体を青白い光が包み始めたのだった。

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