3時間目 社会・座学 ②
静かな湖面に銀の月が鏡のように反射していて、そこにあるかのようだったが、時折吹く冷たい夜風が水面を揺らしていた。
「よくみたら満月じゃねえけど大丈夫なのかこれ」
水面の月と空に浮かぶ月を交互に見て、イサミはぼやく。
「ていうか、教えてもらった話だと、笛の他にも何か必要だったんですよね?」
セイマが言った。
「そうだった、なんかタテガミ? みたいなのがいるって……。いやでも、今回は聖獣様が招待してくれてるんだからいいんじゃね?」
と、イサミは羽笛を取り出す。
「イサミさん、吹けるんですか? また昨日みたいに変な音出すんじゃ……」
セイマが白い目を向けた。
「い、いや、だってこれ難しいぜ? セイマやってみろよ」
「えぇ!? わ、私はそんな……」
と戸惑うセイマに追い打ちをかけるようにイサミはその羽笛を彼女へ突きつける。
観念して受け取ったセイマは、苦い表情を浮かべながら羽の生えた角笛を口に運んだ。
イサミの奏でたそれとは、まるっきり違う音色が湖面を揺らす。
空を渡る鳥の鳴き声のようにどこか切なく、大地を駆ける獣のような逞しさもあった。
湖面が静まると同時に、周囲が、世界が息を飲んだように静まり返った。
木々のささやきも消え、あるのは月と青い夜闇だけとなった。
イサミとセイマは自ら息を飲む。喉が縦に動く音さえ騒がしく感じられる。
互いに視線を交わす。
どちらも声を出さず、ただ周囲の変化に目を、耳を、感覚を凝らした。
――せっかく湖があるんだ。出てくるってんなら、やっぱりここからだよな。
――あれだけ立派な翼があるんですよ? 空の彼方から飛んでくるんじゃないですか?
道中で話した予想がそれぞれの頭の中で再生される。
湖、夜空……首を不定期に上下に動かして二人は待っていた。
しかし、一切の変化が生じない。やはり金のたてがみと言われる法具の類が必要だったのだろうか。
そんな一抹の不安を抱えたようにイサミたちが眉根を顰めた頃だった。
『あ、どうも』
「「え?」」
聞き覚えのある声が後ろから届き、二人は咄嗟に振り返る。
がさがさと雑木の枝葉を揺らしながら、聖獣グライフはのっそりと姿を見せたのだった。
『すみません。遅くなりました』
「「えええええええええええええ!?」」
驚き叫ぶ二人は湖面を背にして固まってしまった。
『ど、どうしました?』
グライフはその嘴を薄く開いて引きつったような様子を見せる。
「え、いやだって……ねぇ?」
歯切れの悪い言い方で、セイマはイサミに話を振った。
「そ、その……てっきり湖の中からこう、モーゼの話みたいに割って浮かび上がってくるか、空から颯爽と飛んでくるかと思ってたから……」
イサミも一応気を遣うように慎重に言葉を並べつつそれでも疑問ははっきりと伝えた。
『わ、私は魚類ではないので水の中にはいませんし……空を飛ぶのは疲れるので』
「めちゃくちゃ正論……」
ははは……。イサミの口から乾いた笑い声が漏れる。
「それにしてもそんな待ち合わせに遅れましたみたいな登場なんて……」
「それより、グライフ様はそれじゃあ普段はその林というか森の中に隠れてるんですか?」
ほぼ円形の湖の周りをぐるりと囲む森は確かに身を隠すにはうってつけだ。しかし、いくらミラーロの呪術から解放され、体が小さくなったとはいえ、未だイサミたちの頭身よりもはるかに高い背丈の聖獣が隠れるには不十分だと思われる。
『ええ。と言っても、姿を隠すように結界を張っていますけどね。この湖にはこのメタ山から流れてくる清らかな水が流れてきて、そして魚なども求めてチュートの村の方も訪れてきますから』
グライフは真っすぐに伸ばした首の上に乗る頭部をさらに天を睨むように仰ぐ。
瞳が黄色く光ると、その頭上の空間から淡い光のレースがふわりと被さるように広がった。
イサミとセイマも含めてその結界がすっかり周囲を包む。
「すごい……」
セイマがぽつりとこぼした。と、同時に、まるで肌寒さを感じたかのように両の二の腕をさすった。尊敬の意より畏怖の念がこもっていたのだろうか。
「まぁこれで色々安心してって状況になったわけだけど……」
とイサミは芝の上に腰を下ろした。
「えっと、グライフ様から何かお話してくださるって話だったよな?」
「イサミさん、聖獣様に対してちょっとなれなれしくないです?」
「え、そう!? すんません!」
イサミは慌てて背筋を伸ばして立ち上がった。どうやら悪意はないらしい。
『大丈夫ですよ。聖獣などと祭り上げられているだけで、私自身から名乗ったわけでもありませんし、無駄に長生きをしているだけですから』
「貫禄あるな……」
グライフが先に四肢を器用に折りたたみ、猫の香箱座りの様な姿勢を取ると、二人にも座るように促すので、イサミとセイマはそれぞれ腰を下ろした。
『先に謝りたいことが二つあるのです。昨日は私のせいでたくさんの迷惑をかけてしまいましたね』
「いや、それはグライフ様のせいではないし」
「そ、そうです。私だってつい夢中でグライフ様をあんなふうにしちゃって……村の人たちはともかく、私たちは別に……はっ!」
とそこで、セイマが息を飲む。その音に刺激されたのか、イサミも目を見開いた。
「そうだ、レニ! グライフ様、レニはどうなったんすか?」
『ご安心ください。彼女なら今朝目を覚ましたので彼女の故郷であるアルの村へ連れていきましたよ』
「そ、そうっすか……良かった……」
イサミは胸に手を当てて深い息を吐いた。
『彼女は最後まで、イサミさん、あなたのことを案じてました』
「レニが?」
『あなたが無事であることを伝えると同じように、いえ……その場に崩れて大泣きしてました。「くれぐれも無茶をしないでください」と。そして、「いつかまた必ず、アルの村に戻ってきてください……」』
「レニ……」
イサミはその言葉にむず痒さを感じて、顔を赤くすると笑むというより、ついにやけてしまった。
「イサミさん、よかったですね」
つられるようにセイマもまた、優しい微笑みをイサミに向ける。
『「イサミさんを一人にしておくと心配しすぎて色々口から出そうになるので、次にアルの村に訪れた時には二度と村からは出ずに一生涯添い遂げると誓ってもらいます」……ということでした』
心なしかグライフの声が震えているようだった。
「怖すぎるだろ! あいつ聖獣様になに言わせてんだよ!」
『人間というものは、まだまだ奥が深いですね』
「何よりさりげなくイサミさんの方が懇願する形に仕向けようとしているところにそこはかとない恐怖を感じますね……」
何はともあれ、レニは本調子を取り戻したようだ。その点についてはイサミもセイマも一先ず安心できたことは事実だろう。
『もう一つ謝らなければならないのは、』
場の空気を元通りにするようにグライフは改めて語り始めた。
『それほどお二人に有益なお話はできないかもしれないということです。わざわざ訪ねてくださったところ、悪いのですが……』
「……なーんだ」
イサミはため息のような吐息を漏らしてそう言った。
「い、イサミさん? 失礼じゃないです?」
あわあわとセイマは口を震わせる。
「いや、そうじゃなくて。そんなことグライフ様に気にしてもらわなくていいってことだよ。謝るなんて言うからさ、俺てっきり『ここまで来てもらって恐縮だけどお前たちのこと食べちゃうから』みたいなどんでん返しが来るのかと思ったもん」
「イサミさん、失礼ですよ」
訂正した結果、輪をかけて失礼になったイサミだった。
『いえ、いいんですよ。そう言ってもらえると私も少し気が晴れます』
「え、そう言ってって前半ですよね? 後半の方じゃないですよね?」
とかくセイマは怯えっぱなしだった。
「セイマ……、それが一番失礼だろ」
『レニさんから少しはお話を聞いているということでしたけど……』
と聖獣グライフは物語を読み聞かせるように穏やかな口調で語り始めた。
――かつて、このエスポフィリア国は、邪神官イルサリアと共に突如として現れた闇の眷族たちに支配されてしまいそうになりました。
この王国全土が襲われる中、私の元へも奴らは襲撃してきました。
……情けない話ですが、不意を突かれてしまった私は、あっさりと奴らに破れてしまい、いいように操られてしまったのです。
……私は多くの罪のない民たちを襲ってしまいました。
そんな中、王の使命を受けた勇者様が現れ、私を救ってくださいました。
そのお礼として、私は勇者様の冒険に協力したのです。ある時は共に眷族たちと戦い、またある時は背中に彼らを乗せて大空を移動し……。
そして最後には闇の王ジャルファとそれを蘇らせた邪神官イルサリアを打ち倒した……。
長きにわたる争乱という名の闇に囚われていたこのエスポフィリア国は平和を取り戻したのです。
あの時の勇者様を含め、王様に王妃様とお姫様、そして国の民たちの喜びに包まれた笑顔を、私は忘れません。
そう思っていたのですが……。いつの間にか私は再び操られてしまっていたようです。
この国に平和が訪れた後、私が昨日、お二人に救われるまでの間、一体何が起きていたのか、私には記憶がないのです。申し訳ございません……。――
「……そんなことが、この国にあったんだな」
いつの間にか湖の周りには柔らかな夜風が再びそよいでいて、時折湖面を撫でて悪戯に波紋を作っている。
話を聞き終えて、半ば呆然としていたイサミは平坦な口調でそう言った。
レニの言っていた、「聖獣様が救ったとも襲ったとも言われている」という話はあながちどちらも正解だったようだ。
「い、色々訊きたいこともあるんですけど……」
おずおずとセイマが言葉を紡ぐ。「そのお話は、具体的にどれくらい昔のお話なのですか? チュートの村や、イサミさんたちのご様子からアルの村などは平和そうで、争乱などという言葉は想像もつかないみたいですけど……」
すると、グライフは猛禽類に似た頭部をゆっくりと左右に振る。
『申し訳ないですが、私も記憶を失っていた期間がどれほどなのか、まだはっきりとは分かっていないのです。ですが、争乱が始まり、平和を取り戻すまでの期間はおよそ1年……それから私が再び支配されるまで3年近くだったと……』
「少なく見積もっても4年以上は前の話か……レニに訊いとけばよかったぜ」
イサミは反射的に短い舌打ちをしてしまった。
『あまりお役に立てる情報ではなかったかもしれませんね』
「そ、そんなことないっすよ」
イサミは慌てて手を振った。
「俺たちこの世界のことほとんど知らないからめちゃくちゃ助かりますって」
「い、イサミさん!」
「へ?――あっ」
セイマに小突かれ、うら若き乙女の様に口元を手で隠した所で、もはやその不自然な発言が取り消されるわけもなかった。
グライフはその黄金の瞳でまっすぐに二人を見降ろす。
「あ、ははは~……」
取り繕うにしても歪みすぎているその作り笑いに、それでもグライフは気性を荒立てることもなく、落ち着いたまま言う。
『やはりあなたたちは不思議な気配を纏われていますね』
「そ、そうっすか?」
などとイサミがどう誤魔化そうか頭の中でそればかりを考えていると、隣に座っていたセイマが立ち上がる。
「グライフ様、私、もう一つどうしても訊きたかったことがあるんです。どうしてグライフ様は私たちのことをすぐに信じてくださったのですか? その……、仰る通り気配というか服装とかも……、明らかにこの世界の人たちとは違うと思われたと……思うんですけど……」
鋭い嘴と眼光に対峙し、勢いよく立ち上がったセイマも次第にしりすぼみになっていく。
「た、確かに……。笛持ってたからかなって思ってたけど」
と、イサミの方が目を丸くしていると、グライフは反対にそっと頷くように瞼を閉じた。
『それは、あなたたちから、かつての勇者様と同じ気配、同じ匂いを感じたからです』
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