2時間目  休み時間 後

 イサミとセイマは互いに顔を見合わせる余裕もなかった。それぞれに胸騒ぎを覚えて、イサミは顔を険しくし、セイマは眉を垂れ下げる。

 それでも二人は急いでテーブルを離れた。立てかけた木刀も忘れずに掴んだが、倒してしまった椅子は「すんません!」の一言で片づける。

 出入口の扉へと向かったのだが、そこでイサミは気づく。レニがいない。

 しかし、今はそのことを追及する気持ちの余裕はなかった。

 表からの悲鳴は受付嬢たちにも届いていたようで、落ち着きのない様子で扉の向こうへと目線を向けている。

 イサミが勢いよく扉を押し開ける。風の抵抗があるかと思われたが、存外簡単に開いたことで、彼は必要以上に込めていた力の逃げ場を失い、つんのめって店から飛び出してしまった。

「おっとっと……!」

 と、ダサい言葉を漏らしながら、まるで歌舞伎の所作の一つかのように、宿屋のアプローチの階段を片足で弾みながら降りていく。

 そして丁度宿屋から通りに降り立った時だった。

 止んでいた風が再び生じた。強い風に当てられて家屋の壁が鈍い音を立てたり、扉が強く閉められたり、建物と建物の間を鋭く吹き抜ける死霊の呻きのような音がそれを伝えてきた。

「――!?」

 店の出入り口に立っていたセイマから見て右側から、立て看板が強風によって運ばれてきた。

「ぐあ!」

 その看板はイサミと同じくらいの背丈で、何が描かれているかなど二人には分からないが、面にもろに打たれる形となった片足立ちのイサミは、そのまま看板と共に左手の方へ吹き飛んでしまった。

「ぬああああああああぁぁぁぁぁぁ…………!」

「イサミさん!」

 かくいうセイマも、宿屋の出入口そばに立つ二階のテラスを支える柱にしがみついており、身動きが取れない。

 風は一層激しくなっていたのだ。

「きゃああああ!」

 などという悲鳴が背中の扉越しに微かに聞こえてくる。先程開けた窓から風が吹き込み、店の中の物をなぎ倒したのかもしれない。勿論悲鳴は表からも届いてくる。風の為どこから発せられたものかはわからないし、目が痛くてまともに開けてなどいられなかった。

 イサミだけではなく、数名の村人も転がっていた。

 セイマは屈むと床板に虫の如く這って進み、どうにか店先のアプローチにまでたどり着いた。

 同じように向かいの酒場では、中年の男たちが、テーブルにしがみついて――いたのだが今テーブルごと吹き飛んで行った。

 未だ外に残っている人は柱や壁にしがみついたり、地面に伏せたりして強風に耐えている。

 その中で数人が上空を指さして叫んだ。

「あ、あれは!?」

 セイマもつられてついと顔を上げた。風が目に滲みるのでゆっくりと瞼を細く開いたのだが、上空を飛ぶその影につい見開いてしまう。

 そこで気づいた。再び風が、いつの間にか止んでいることに。ともすればこの風は台風などの天候によって生まれたものではなく、誰かが何かをして吹いていることなのかもしれないとセイマは考えた。

 まだ東の山の上に浮かんだばかりだが、それでも満月の光はチュートの村を青白く染めていた。

 しかし、一瞬村が闇に溶ける。

 それは、月の光を遮る巨大な影が通ったからだ。

 広げた翼は遠方に臨む山脈の山頂3つを結んだ直線くらいの長さがある。しかしそれは当然遠近法によるものだろうが、ならば実物が小鳥なのかと言われればそれは違うことくらいは断言できた。

「もしかして、さっきイサミさんが言ってた聖獣……?」

「そう……だと思います」

 いつの間にか隣にやってきていたレニが上空を見上げて囁くように言った。

「……思います?」

 今までどこにいたのだと気にはなったが今そんなことはどうでもいいとセイマは訊き返した。

「だって聖獣様ですもの……私も、もしかしたらチュートの村の人たちだって初めてお会いするかもしれないのですから……」

 見上げる横顔が月明かりに照らされ、銀色に輝いている。畏怖の心が感応しているかのようだったが、セイマには今一つ理解できなかったのか首をかしげてしまう。

「……さっきの風があの翼が生み出したものというのは推測できますけど……そんな貴重な聖獣が、どうして突然姿を見せたんです?」

「それは……わかりませんが……あっ」

 旋回する聖獣グライフ。近づきながら徐々に高度を落としているようだ。

 猛禽類の頭部と翼を持ち、獅子の体を持つ伝説の生き物。

 その巨大な背中の上に、何かが紅く光る。

 レニがそれに気づいて声を漏らすと、セイマもすぐに気づく。

「な、なに……?」

 しかし、すぐに背中は隠れてしまう。

 それは、下降してくる体勢がチュートの村の方へと向けられたからだ。

 再び村人たちは騒めき上空を指さす。

 瞬く間に巨大化してくる聖獣に悲鳴が重なり合う。

「伏せろ!」

 誰かが言った。

 それは、聖獣が村の上空を掠めたからだ。

 あわや墜落かと思われたが、地表すれすれを飛び去って行く。しかし、宿屋の3階部分は翼で打たれて、薙ぎ払われた。

 聖獣が通過後、村を襲う衝撃波じみた強風が時間差で村を襲撃し、宿屋の破砕音や瓦礫ごと攫って行った。

「あっちには――」

「イサミさんが!?」



「いってぇ……」

 村の南端まで吹き飛ばされたイサミは、看板の上で四つん這いになりながら腰をさすっていた。

 周囲にはもう家はなく、このまま南に下れば先の待合所があるだけだった。他には田畑と小さな林があるだけで、ある意味で緑に囲まれている。

 今更ながら本来の夜風が周囲の木々の枝葉を揺らしていく。冷たい風に、土の香りが含まれていて、痛みが和らぐようだった。

 強風に煽られたが、不幸中の幸いで高さはそれほどなかったので、立てないというほどのダメージは受けてはいなかった。多少袖をまくっていた腕に擦り傷ができた程度だ。

 よろよろと立ち上がると、まずは持って出ていた得物の無事を確かめる。

 近くに転がっていたことで、投げ出されたのはこの辺りに到着してからのことだろうことがわかり一安心する。腰に巻いていた制服の上着がからまっていたことはほんの少しだが木刀を保護する役目を果たしたかもしれない。

 しかし、提げていた袋の紐が千切れていたことで、ブレザーを投げ捨てると慌てて中身を取り出した。

「――ふう……曲がったかと思ったぜ。まだまともに使ってねえのに……」

 浮かぶ銀色の月を貫くように立ててみせた。こんな状況下でもその自分の所作を鏡にでも映した気分で脳内に描くと、鼻の穴を膨らませてしまう。

 しかし、すぐに呑気な頭を叩かれるような事実に気づく。

 月見するように空を駆ける巨大な聖獣の姿に。

 そして、大きく旋回したと思えば、こちらに向かって来ていることに。

「おいおいおいおい…………!!」

 翼は鋭く開いて空を切り、四本の脚で空を蹴りながら突進してくる。

 堪らずイサミはその場に伏せる。

「――っぷあ!」

 遅れてきた生温い衝撃波に体を簡単にひっくり返されて、転がってしまう。

 地面できりもみするように転がったイサミは、ようやく体が止まった時、痛みに囚われることはなかった。

「なっ――」

 それは、目の前に現れた聖獣グライフの姿に圧倒されたからだった。

 黄色く鋭い嘴は光を浴びて黄金に輝き、白い頭部には、刀の切り傷のような鋭く黒い瞳が存在していた。

 今はその翼を休めて閉じているが、広げればそれだけでも家三軒分の幅はあった。

 周囲の林の木々よりも高い背丈は、イサミなど一ひねりかもしれない。

 獅子の体は行儀よく、狛犬のようにおとなしく座っていた。

 ブレーキをかけるために立てた爪が地面を抉ってしまい、ただの黄土色の固い地面が田畑を耕したように濃い茶色の土に変化していた。

 「な、なんじゃこりゃああああ!?」

 初めて見たイサミはただ驚くことしかできない。

 だが次第にぼんやりとだがレニから聞いていた情報と、もしかしてという可能性が結びつき、

「ま、まさかこれが……聖獣グライフ?」

 その声に反応するように目玉が動く。

「あ、あいつ、こんなすげーのを俺に倒せって言ってたの?」

 何考えてたんだよ……。


「ほう、それほどのお力をお持ちでザンスか?」

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