2時間目  理科・課外授業 後②

 メタ山の麓を大きく東へと迂回していくイサミとレニの二人。

 黄土色の踏み固められた道は太く、人の流れの多さを、初めてそこを踏みしめるイサミにさえ感じさせた。

 前髪をかき上げてそのまま頭頂付近で赤いヘアピンで留めている為、額に汗がありありと浮かび、流れて目に入るからか、彼は時々目を固く閉じては擦っていた。

 空気はひんやりとしているが、日差しは決して弱くない。初秋のような気候だった。木刀を背負い、はた目には気付かない上り坂や下り坂を歩き続けているので、代謝は上がっている。

 藍色の詰襟は脱いで腰に袖を回して絞って、袴のようにしていた。Yシャツの長袖をまくり上げて気休め程度に肌に風を受けているが、その生地はあまり長時間の運動には適していないようだ。そこは現世にいた時と変らないことに、イサミは「あっちぃ……」と些か不満げに唸る。

 レニから父であるコナッツの服に着替えることを勧められたのだが、とてもあの状況下で借りる勇気はなかったこと、そしてこの服にも何かしらの力が込められているのだとしたら、いざという時困るかもしれないと丁重に断った。

 一方レニは、長袖になったものの、ゆったりとしたスカートの赤いチェックのワンピースにブーツ、そして白いエプロン姿だった。三角巾でミルクが溶けたような金髪を覆っている。相変わらず、お使い途中の村娘のような姿だったが、手に提げた小麦色のバスケットがそれを助長していた。

 相応しい服装かどうかはわからないイサミだったが、少なくとも自分より軽々とした足取りをみせるあたり、心配はいらないようだと彼は目の前の代わり映えの少ない風景に視線を戻したのだった。


 やがて一つ目の岐路にたどり着く。そのまま山脈の麓を東に進む道と、山と山の間に切り開かれた北へと続く道。

 何も知らないイサミが首を振って見比べるようにしていたら、

「こっちです」

 とレニが北へと足を向けた。

 そのまま東に進むと大きな川にたどり着くらしいが、そこまでは田園風景が広がる農道となっているそうだ。レニが先に歩きながらそう教えてくれたので、イサミはその言葉を追いかけた。


 一方、北への道――山間部を開拓して作られた道――は先ほどよりもはっきりとした傾斜が、上ったり下ったりを繰り返す。膝や大腿の前部に自然と力が入り、息が切れる上り道。勢いはつくがその分湿った石や岩、腐敗の進んだ枯葉に足を滑らせそうになる下り道。

 修験者が進むような細く険しい道ではなく、また直線距離で見れば大した距離ではないものの、歩き慣れていない人間には辛い道のりだった。登山の経験もないイサミにはなおのこと辛いものであろうことは、すっかり肩で息を始めているその姿から誰が見ても否応にもわかるものだった。

 そのまま二人はしばらく歩き続けていたが、やがて途中で馬のような長い前後の脚を持った獣に車を引かせる人と数名すれ違う。最初はイサミもその脚部と面長い頭部を見て、馬に似てると思い浮かべたが、疲れて思考を深化することもできず、もう馬で良いと諦めた。

「こんにちは。お気をつけてー」

 隣にいたレニが誰かとすれ違うたびに明るい挨拶を向ける。

「あぁ。ご安全に」

 そして相手も挨拶を返す。時には先に声を掛けられ、彼女が「ご安全にー」と返していた。

 言い方に多少の違いはあるが、要旨は同じだった。

 イサミも途中から真似をして声を出す。最初は照れてもごもごしているだけだったが、次第に相手にも届く声量となった。

 すると、心に余裕ができてきたのか、イサミは相手の顔を見て挨拶するようになった。

 レニの父親よりも年齢を感じさせる高齢男性、中年女性、はたまた小さな子どもたちを連れた妙齢の女……色んな人とすれ違うが、妙な違和感も覚えていた。しかし、疲れた彼にそのことを言語化する余裕はなかった。

「――結構、人と……すれ、違うのなっ」

 人の流れがひと段落した時、イサミが乱れる呼吸を整えるように言った。

「アルの村の南に港がありますから。時期によっては人がいっぱいになる時もあるんですよー」

 歩き慣れているレニは呼吸の乱れらしきものはほとんどなかった。


 いつの間にか平坦な道にたどり着いていて、しばらくすると再び岐路に立つことになった。

 右手――東の方へと伸びる道を行くと『リーの町』へとたどり着くようだ。先程山肌を歩いていた時に、レニが指さして教えてくれた。

 広がる裾野に家々が集まって並ぶ。道沿いに増えていくそれらは、明らかにアルの村よりも多かった。

 しかし、目指しているシルク湖は更に北へと向かった後、西へ向かうことになるとのことで、リーの町へイサミが向かうことはなかった。


 ――道中では、獣、魔獣の類に遭遇したのは一度だけだった。ただ、レニだけでなく、イサミも構えると、その気配に圧倒されたのか、獣の方が尻尾を巻いて逃げ出してしまったので戦闘をすることはなかった。

「まぁ本来人通りの多い道なので、わざわざ獣がやってくることはありませんね。山の中でエサは食べられるでしょうし。基本的には獣は怖がりですから」

 とのレニの言葉に、イサミは肯く。かつていた世界に複雑な感情を抱いた。食べる物がなくなり、人里に現れ、哀しい結末を迎えてしまう。その原因を作ったのははるか遠くの他人だというのに。

 北へと向かった二人は最後の岐路へとたどり着いたのだが、その時にはイサミはすっかり肩で息をしていた。

 見かねたレニが「少し休憩しますか?」と言ってくれたので、イサミは声も出さず肯いた。

 いつの間にかメタ山の麓を半周まわったらしく、アルの村から見れば、ここはメタ山を挟んでちょうど真北の位置になるのだとレニが教えてくれた。

 山がすっかり太陽を隠してしまい、北側はすっかり日陰になっている。

 ちょうど岐路となる道の脇に木製のベンチが置かれていた。

「こりゃ……都合がいいぜ」

 イサミはふらふらとそこへ向かっていくと、提げていた木刀の袋を脇に置いて、腰を遠慮なく落とす。

「乗合馬車の待合所ですよ」

 ベンチのそばに小さな道標のような、墓標のような質素な杭が立てられていた。その杭には板が打ちつけられており、いわゆる看板として存在している。

 文字のような記号が書かれているが、そこまではヘルメスの涙の力を以てしても読み解くことはできない。数珠の一つの珠に、光が灯ることもなかった。

 ただ、聞こえてきたレニの言葉に『馬車』とあったので、やはり馬という認識でよいのだろうとよくわからない得心をして、イサミは一人鼻で笑った。

 イサミの隣に座ったレニは、バスケットから皮革で作られた袋状の水筒を取り出した。先程昼食の際に初めて見た時は一体今度は何をする気だと疑ったが、綺麗な水が注がれたのでそれが水筒だと分かった。

「もう冷たくはないですけど」

 とレニは言葉を添えながらイサミに水を注いだコップを差し出した。

「いやマジで助かる。ありがと」

 イサミはそう言い終えるが早いか、コップをすぐに口に当てると垂直に立てて、一気に水を流し込む。

 喉が固い音を立てて水を飲みこんだ。

 たった一杯の水だったが、全身が潤うようだった。喉の奥、そして胃へと続く食道の肉壁に水が染み渡っていくのが手に取るようにわかる。「っはぁ……」とまさに一息ついた。

 レニは自分の水を注いで同じようにすぐに飲み干していた。平気そうに見えて、喉は乾いていたのだろう、そのことに気付きイサミは少し心が痛んだ。無理させていたのか、と。

 そして自分の世話を当然のようにする彼女に甘えていた己自身にも今更ながら微かに苛立った。

「レニ、」

「え? は、はい」

 イサミの怒りにも似た光を帯びた視線に、レニは気づくと、緊張してか背筋を伸ばす。

 逸らすことさえ恐ろしいとレニはイサミを真っすぐに見返していたのだが、次の瞬間には、

「ごめん、なんか色々世話になってて……」

 と、彼が頼りなく眉尻を下げたので、レニは大きな瞳を何度も瞬かせてしまった。

「へ? あ、いいえ! いいんですよ」

 まるで取り繕うように慌ててレニは言った。彼女は一切の嫌味のない笑顔を向ける。

「お世話なんて思ってませんし。ピクニックみたいで、私も楽しいんです」

「……。なんかあれば言ってくれよ。俺なんでもするからさ」

 イサミの力ない微笑に、レニは息を飲むと、きゅっと小さく自分の手を握って胸に当てる。

「え、そ、それは……求婚ですか?」

「なんでだよ……」


 それから、待合所の前を通り行く人たちを、青い空の下でしばらく見送っていた。

 メタ山の影は時を追うごとに色を濃くしていく。汗で濡れた体が、いつのまにか涼しさを覚え、拭き下ろす微風でさえ寒さを感じるようになっていた。

「ここから更に北に向かえば、」

 とレニはベンチから真っすぐ正面に伸びていく道を指さす。道は小高い丘にアーチをかけるように伸びていた。

 遥か彼方に空の青さに混ざってけぶるように見える山脈があった。

「チュートの村です。で、こっちに向かえば」

 とレニは左手を指さした。すぐに森が構えていて、道の先は文字通り林立する木々たちに覆い隠されてしまう。

「シルク湖です。聖獣グライフ様が……いる、と言われていた……」

 レニは言葉尻をすぼめる。その瞳は憂いを帯びており、少しの弾みで涙をこぼしてしまいそうなほど潤んでいた。

「まぁ伝説だもんな」

 先程から人々を眺めていたが、チュートの村が近いからか、人の行き交う量が増えたような気がしていたのは間違いなかったようだとイサミは肯いた。

 と、同時に、シルク湖がある左手の方へと向かった馬車は一組しかいなかった。

 鬱蒼と茂る森は、不気味さを心に植え付け、そしてそれは不安を呼びよせる。

「ていうか、そんなすぐに会えるものなの? 聖獣様って」

 イサミは、何より自分の不安を誤魔化すように冗談めかして尋ねた。


「…………あっ!」


 レニの碧い瞳が小さな点になった。

 口元を指先で隠す品の良さもかき消えるほど大きな声を出す。

「あっ!?」

 イサミは間抜けにおうむ返しすることしかできなかった。「え、なになに、怖いんだけど……」

 レニは頭を抱えて、衣服が翻るほど素早く立ち上がる。

「そうでした……聖獣様にお会いするには『グライフの羽笛』がないとダメなんです!」

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