2時間目 理科・課外授業 前②
イサミは言葉を失って、足を止めてしまった。
貴族が探しに来た――レニのその言葉に、体を動かすことを脳が失念したように、先を行くレニの背を呆然と眺めていた。
「私たちもイサミさんがトイレに行って消えてしまったから、不安だったんです。もしかして落っこちて――――って、あれ?」
話に夢中だったレニは、イサミが隣を歩いていないことに気付くと慌てて振り返った。
「イサミさん!?――あ。なーんだ……ビックリさせないでくださいよ」
立ち尽くしたままのイサミの元へレニは駆け寄る。「またいなくなったのかと思いましたよ」
と冗談めかして言っていたが、イサミが反応しないので、レニはその整った顔に不釣り合いな皺を眉間に作った。
「イサミさん? おーい」
文字通り目と鼻の先で手を振られて、ようやくイサミははっと息を飲んだ。
「あ、あぁ……美味しいよな」
「はい?」
白昼夢でも見ていたかのような、脈絡のない返事は上の空だった証拠だろうか。レニは怪訝な顔を解くこともできず、
「お、お疲れのようですね……。あれからずっと旅を続けられていたんですか?」
「え? あ、ううん、そう」
「ど、どっちです!?」
「まぁ嗜む程度だけど……って、そんなことはどうでもよくって」
イサミはかぶりをふって、ようやく目に力を取り戻す。
「き、貴族ってのが来たのか?」
腕に通した数珠が光の明滅を優しく繰り返している。誤訳ではなさそうだ。
「はい。あ、でも、正確には貴族の方の使いの方になりますけど」
「そ、そうなのか……。で、俺を探しに?」
「はい。あ、でも、正確には異国の方を探されていただけですけど」
「……」
「……イサミさん?」
レニが首を傾げた。
そして、イサミは大きなため息を吐きだす。だらりと腕を垂れ下げた勢いに任せてようやく歩き出した。
「……それ、俺関係なくね?」
「あ、そうなんですか。まぁ確かにイサミさんの名前は仰ってませんでしたが」
「ほらな? だからもう気にしない方がいいぜ」
イサミが力なく笑ってみせる。涼しいというには無理を要する冷たい風が吹いた。
一方でレニは、肩を窄めて小さくなった。
「あう……す、すみません。あーでも、どうしましょう、私その方々にてっきりイサミさんを探されてると思って、色々お話してしまいました。前日までいらしたとか、服装のこととか……」
顔を青褪めさせてうろたえるレニに、イサミは自嘲にも似た笑いを放つ。
「へっ、大丈夫だよ。向こうだって人違いだってすぐに気づいてるって」
「そ、そうでしょうか……。すみません」
「謝らなくていいよ。もう過ぎたことだから。そこまで説明して、それ以上は何もなかったんだろ?」
「はい……。すぐにもリーの村に向かわれると。それ以降は特に再びいらっしゃることもありませんでした」
「それよりさ、今回もレニに色々協力してもらいたいんだけど、いいかな?」
「はい……! お任せください」
ようやくレニに笑顔が戻った。つられるようにイサミも微笑む。
「それでしたらイサミさん、ひとまず村の宿にでも向かいますか? もう今からだとどこに向かわれるとしても夜になってしまうと思いますし」
「あぁ、そうしようかな。案内してもらえる?」
「はい! さぁ参りましょう」
再び元気を取り戻したレニに案内を任せて、イサミは歩き始めたが、その眼は笑うこともなく、ただ枯草のひと揺れさえも見逃さなかった。
――レニを安心させようとしてああは、言ったものの……俺を探していた可能性がゼロってわけでもねぇ。
レニのお父さんの言ってたことから俺みたいないわゆる異国の人間がこの村、引いてはこの国? に大なり小なり出入りするんだろうけど。なんていうか、タイミングが良すぎる……気がしないでもない。
貴族……ってのも気になるな。一体何者なんだ。目的は、異国の人間を探していたって話だけど、その理由はなんなんだ。
レニはどこまで俺のことを話したんだ。ていうかその時の反応とかも気になる。
……だけどホントに偶然だとしたら、あんまり意識してるのも痛いヤツだよな……。
イサミはそんなことを逡巡しながら――必死になって雑巾がけをしていた。
袖や裾をまくり、板張りの廊下をだだだだっと往復している。
「イサミさーん? 終わりましたかー?」
階段の下からレニがそう呼びかけてきた。
「あ、あぁ……とりあえず廊下は!」
「ありがとうございまーす! じゃあお次はお風呂の掃除をお願いしまーす! 早くしないともうすぐ夜ですよー」
「……」
しんと冷え込んできた宵の頃に、水仕事はイサミの手に世間の厳しさを教えてくれていた。
村に唯一ある宿屋――民宿はレニの友達であるプレアの家だったのだが、
「今部屋は空いてるけど、お兄さんお金あるの?」
その一言は、イサミの心胆を寒からしめた。
もちろんお金を持っていないイサミは、即刻門前払いとなる。
教師たちからはお金はおろか弁当やおやつさえ渡されていない。
今後のことを考えればその世界の通貨の調達は必要不可欠かもしれないと考える一方で、どの世界に飛ばされるのかもわかっていない以上、徒労に終わってしまいかねないと思うと、やるせない。
セイマとアイサはどうしてんだよ……。ていうか今頃あの二人、もう狩りなんて終えてんのかな? また俺が最下位か?
村を歩きながら己の先行き不安定さにイサミはため息を漏らした。
そんなイサミの姿を見て、レニはいたたまれなくなったのか、
「あの、それでしたら私の家に来ますか?」
白味の強い金色の髪を揺らしながら、彼女はイサミの顔をのぞいた。
「え、いいの!?」
「は、はい……」
レニはほんのり頬を赤く染める。
そして、小さな口でたどたどしく言った。
「あ、でも、父に確認してからになりますけど」
兵士たちの詰所に立ち寄って久しぶりにレニの父とも再会する。いわゆる交番くらいの大きさだなとイサミは改めて感じていた。出入する兵士たちとすれ違うたびに、イサミはその簡素だがそれでも鎧の姿に、顔をこわばらせていた。
慣れているのかレニは父親がやってくる間もにこにこと微笑みを絶やさず、兵士たちとあいさつを交わす。父親の職場でもあり、また小さな村なので、その大多数の兵士と顔見知りなのだろう。
しばらくしてやってきたレニの父である兵士のコナッツ氏は、イサミとの再会に安堵の笑みを浮かべた。
そしてことの経緯について説明を受けると、
「――おお、それはありがたい。私も今夜は当直でね」
業務まで警察のようだ。ともすれば兵士たちは普段武器らしい武器を携えてもいない。いつ敵国が攻めてきてもいい様に――という殺伐とした気配は、コナッツ氏を含め、詰所にいたどの兵士からも発せられていなかったのか、イサミは表情を自然なものに戻していた。
「いくら平和な村とは言え、夜に娘一人だと不安だから、君が居てくれるならありがたいよ」
だが、くれぐれも変な気は起こさないでくれよ。あ、やっぱり私と一緒に兵舎に――。
と去り行く二人の背中にコナッツ氏はすがるような声を出していたが、レニは構わずイサミの背中を押していたので、イサミはその声に気付くことはなかった。
「ぐはぁ……」
イサミはキッチンのテーブルに着き、だらしなく顔をその上にのせて息を吐いた。
結局掃き掃除に床拭き、それに風呂掃除までしっかりとさせられ、挙句にはお湯も沸かすことになった。
「お疲れさまでした」
キッチンに向かうレニは背中を見せたままそう言った。弾むように告げる声は、彼女の機嫌が上々なことをイサミに感じさせるには十分だった。むしろそうでなくては浮かばれないと、彼は望んでいたのかもしれない。
一宿一飯の恩義で――そんな軽い気持ちで「何かすることがあったら手伝うよ」と言ったが最後、数々の仕事を任されたというわけだ。
「ありがとうございました! すっごく助かりました」
レニはくるりと振り返ってイサミに笑顔を見せた。
「あ、あぁ、それならよかったけど……」
もう足がぱんぱんで動く気力もなかった。
「これで、宿一泊分くらいにはなりますねっ」
「……」
実にしっかりした娘さんですね――イサミは次にコナッツに会ったら、そう言おうと心に誓ったのだった。
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