1時間目 休み時間 後
「イサミさん!」
レニが鋭く叫ぶ。
その時には、魔獣はイサミの足に激突していた。
「ぐあっ!!」
イサミの脛を払った魔獣の、口吻の先に生えた鋭い牙が服を裂き、肌を斬る。
わずかに体を左にずらすことしかできず、足払いされた形となったイサミは、躓くような形で倒れてしまった。
受け身を満足に取ることもできず、強く胸を打つ。構えていた鉄の棒は地面へ落とし、むなしく耳障りの悪い音を立てるだけだった。
息苦しさに胸元をかきむしるイサミへ、走り抜けた魔獣が再度突撃をしかけてくるために、大きな曲線を描いて反転する。
が、その横っ腹がイサミたちへと露になった瞬間だった。
「っ!」
レニの投げたナイフ三本が、その腹部に突き刺さる。
「ブギイイ!」
魔獣は勢いを殺すこともできず、四足を絡ませるようにして横転する。
だが、そのまま転がる勢いを利用して再び立ち上がる。血に塗れたナイフが一本落ちた。
魔獣は二人から逃げるように、赤紫の血を垂れ流しつつ茂みの奥へと隠れ去ってしまったのだった。
「ふぅ……あっ」
レニはひと息つく暇もないと、すぐに倒れたままのイサミに駆け寄る。
呼吸は落ち着いていたが、肩で息をし、胸に手を当てたままだった。
そして右脛に出来た切創からの出血が止まらないのと、丸出しだったおでこに微かな擦過傷ができていた。額からも滲むように血が流れていたので、レニは悲鳴を上げる。
「いやああ! イサミさんが死んじゃう!」
「い、いやそれは大げさ――」
レニはイサミの言葉も聞かず、バスケットから晒や、瓶に入った液体――薬草をすり潰してつなぎと混ぜ合わせたゲル状の傷薬などを取り出す。
「じっとしててくださいね?」
今にも泣き出しそうな表情からは、自分のことを心から心配してくれているのが伝わるのだが、その顔の横で逆手に握ったナイフを構えられては、イサミの血の気も自然と引いた。
「ね?」
「あ、あぁ、うん……」
薬以上に、止血効果はばっちりだった。
二人は向かい合う形で座り、イサミはレニのなすがまま介抱されていく。
「――どうしてその棒、振り下ろさなかったんですか?」
半分泣いたような声のまま、それでもはっきりと意見を述べるところはレニらしかった。
「イサミさん、旅の人ですよね? あの程度の魔獣なら、村娘の私でもどうにか対処できますよ」
「ははっ、流石だな」
イサミは、田舎に住んでる小学4年生だった従妹が蛇だの虫だの平気で捕まえたりそれこそ木の枝でしばき倒したり、登下校中にイノシシが出るなんて話もしていたことを思い出していた。
「笑い事じゃないです。この先大丈夫なんですか? お一人で」
「あー、うんまぁ、石さえ手に入れば……迎えがくるから」
……だよな。今更無理だったとか言うなよデューク先生……。
「そうなんです? お迎えなんて貴族様みたいですね……」
ここまで作業の手を休めなかったレニが、はっと息をのみ目を丸くする。
「え? き、貴族様なんですか?」
「へ?」
「わ、私ったら貴族様のイサミさんになんてはしたない口の利き方を……」
ぽとりと晒がその手から落ちる。入れ替わりにナイフを握り、レニは自分の首元にあてがった。
「も、申し訳ございません……死んでお詫びを――」
「うわあああ! 待て待て! 俺は貴族じゃねえから!」
「あ、そうなのですか?」
レニはけろっと我に返り、「すみません、早とちりだったみたいで……」と、再び晒を手に取った。
「ってことはイサミさん、実際に戦った経験、あまりないのでは?」
「い?」
流れるように核心を突かれて、イサミは言葉を失った。
その無言が返事だったとばかりにレニは一人肯き、そしてため息交じりに、「やっぱり……」と呟くと、頭を左右に振りながら、
「だからさっきの魔獣が、怖かったんですね」
レニは、少し寂しそうな声音で漏らした。「でも、すごい殺気だったのに……お話に聴く勇者様……」
「え? 勇者?」
「ほどではないですけど、兵士さんたちのような迫力はありましたよ」
まぁ、私の父ほどではないですけど――レニは鼻息を鳴らしながらしっかりと付け足した。父を誇りに思っているのだろう。
イサミは持ち上げられてすぐさま落とされてしまい、苦笑を浮かべる。
「い、いや……まぁ、怖かったってのもあるけど、さ」
「なんです?」
「あの時、あの棒を振り下ろしたら、魔獣を殺してしまうんだって思うと……なんか体が動かなくなってさ。はは……」
イサミは乾いた自嘲を漏らす。
「それで満足に回避もできなかったんですね……」
ふん……、とレニは鼻から息を漏らして頬に手を添える。「飛んできた火の粉は払わないと火傷しちゃいますよ」
「うん、そうなんだけどさ……」
「でも……」
と言いかけてレニは言葉を飲むように喉を縦に動かした。頬を赤く染める。
「ん? どうした?」
「あ、いえ……。でもイサミさん、優しいんだなって思って」
「へ?」
「だって、私たちの村だったら、魔獣のことを恨む人はいても、その命を救おうと思う人はいませんでしたから」
レニは慈しむように和らいだ目線をイサミに向ける。
「いや、それは……」
俺が世間知らずなだけだ――とイサミは言葉を続けることができなかった。己の甘さに喉が詰まった感覚を覚え、顔を顰める。
「イサミさん貴族様のご関係の方なのに、そのような慈悲深いお心を持ってるだなんて、私思ってもみなくて。す、素敵だと思います。それなのに私ったら好き勝手なことばかり言ってしまって……ごめんなさい。許してくれま、せんよね……」
正座していた足を崩し、一人しなだれると、レニは顔を赤くしながら地面に字とも記号とも言えない何かを指で描き続ける。
「――ぶはっ!」
イサミは突如息を大きく吐き出し、そして大きく吸い込んだ。
顔中覆い隠された晒にどうにか隙間を作って。
「口と鼻まで隠したら死んじまうっての!」
話に夢中で、気づけばイサミの全身を晒が覆っていた。
「あ、やだ。私ったら……ナイフで切り取りますね」
「ままま、待て待て! いくらなんでも怖すぎるから! もう隙間できたしいいよ!」
「イサミさん、そんな臆病ではこの先困りますよ」
「さっきと種類の違う臆病さだからこれは!」
その後、洞窟に入ってものの1分ほどでヘルメスの涙と呼称される宝石の原石は見つかった。
「はっ? これ?」
最初は石炭でも拾ったのかとイサミは包帯の隙間から精一杯、目を見開いてみせた。
「はい。これが原石です。この中に宝石がありますので。いくつか持って帰りましょう。持ち帰って砕かないと大きさが分からないですから」
レニはそのまま3つ拾ってあのバスケットに入れる。本当に歩けば爪先に当たるほど簡単に沢山落ちていた。
イサミも彼女に任せっぱなしは悪いと原石を拾おうとしたのだが、如何せん巻き付けられた晒が、何かのトレーニングギプスのごとく彼の動きを制限するため、レニが3つ拾う間に1個拾うのが限界だった。
さっさと解けばいいのだが、ちょっとでも解こうとすると、レニはナイフを逆手に構えて、「大丈夫ですか?……」と尋ねてくるのだ。
大丈夫ですか?――の後に続く余韻が一体何なのか。
「もう解いても」という確認の意味ならまだともかく、
「私は目の前にいるんですよ?」という意訳にも似た重圧を感じてしまい、イサミは解くことができなかったのだ。
「大きさって大事なのか?」
「あまりに小さいと周りの不純物を砕いた時に一緒に砕けてしまうので……」
「今ここでは砕けないの?」
「わ、私不器用なので……」
「え、あ、あぁ……」
変な所で素直なイサミだった。この晒の現状を踏まえれば無理もないが。
「村で父に砕いてもらいましょう。多少加工するのなら村に戻れば道具はありますよ。ですが職人さんがいないので、自分でする必要がありますけど」
「そうか……ちょっと面白そうだなそれ」
――その結果、イサミの手に入れた宝石は溶けかけのアーモンドチョコと言われるようなサイズと見栄えになってしまった。
「へぇ~!」
話を聞き終えたセイマはぽんと両手を合わせて微笑んだ。「それじゃあさっきのチョコ――じゃなくて、宝石はイサミさんがご自分で加工されたんですか?」
「加工っていうか、ただ原石を砕いただけだけどな。しかももう……」
とイサミは左手に通した数珠を、腕時計のように構えて眺める。かちゃかちゃと珠同士がぶつかり軽い音を立てた。まだいくつか珠をつなげることもできそうなくらいに隙間があった。
深い緑色の珠が一つあることに、イサミは口元を緩ませてしまう。
何はともあれ、手にした最初の1つだ。今となっては跡形もないが、それでも愛着がわくのだろう。
しかし、ふとイサミの目に悲哀の色が生じる。
仕方のないこととはいえ、半日以上の時間を、そして痛い思いもしたが不思議な冒険を共に過ごしたレニとは恐らく二度と会うことはないという事実は、彼の中から消え去ることはないだろう。
その顔にさす影に気付いてか知らずか、セイマが言った。
「でも、イサミさんは優しいんだなって私も思います!」
「……へ?」
「だって、魔獣を倒さずに見逃してあげたってことですよね!」
セイマは興奮して立ち上がると拳を握った手を上下に動かす。
その反応にイサミはむしろ引いてしまい、顔を引きつらせる。
「い、いや、ただの偶然っていうか、実力不足だよ」
「そうですか? でもなんだか私は、そのお話を聞いてて嬉しくなりました」
胸に手を当ててセイマは、ふふふっと小さくはにかんだ。
大げさだなとイサミは苦笑を浮かべていたが、ふとある考えがよぎる。
「そう言えば、セイマはどうやって手に入れたんだ? ていうか――」
しかし、その言葉の続きは予鈴に遮られた。
相変わらず生徒のいない校舎の中には予鈴がやたらと鳴り響く。
「アイサさん、帰ってきてないですよ?」
「まああいつ予鈴なってもダッシュしそうにないしな……ほっとくしかねえだろ」
「そうですね、シャワー浴びてるかもですし」
シャワー……その単語はイサミに無限の想像を与えた。
アイサの線は細いが凹凸がはっきりした体が、降り注ぐ湯に濡れ、その妖しい姿態を――
「イサミさん?」
セイマがきょとんとした顔を以てイサミを覗き込んだ。
しかも、机と俯くイサミの顔との間にわざわざ割り込んで、だ。
「うわっ! お、驚かすなよ!」
椅子を引いて驚くイサミに、セイマは反対に驚かされてたじろぐ。
「だ、だって、次の授業が何か尋ねても無視するから……」
「ど、どうせわかったって教科書も参考書もないだろ。待っときゃいいんだよ」
その通りだ――とばかりに教室前方の扉が開いた。その姿はもちろん、アイサではなかった。
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