1時間目  国語・課外授業 前

 教室の出入り口に生まれた白い靄の扉を潜ると、そこは、草原の国だった。

「ま、マジか……?」

 イサミは目を丸くするばかりだった。

 だだっ広い草原が広がり、彼方に見える山脈は碧い。

 そよそよと囁くように風に揺れる草たちが、足首をくすぐる。

 草原を割くように一本の黄土色の道がいくつかの丘を越えて伸びているのが分かった。それを手前に辿れば、自分の左手にその道が見えることも。

 そこで気づく。周囲には誰もいない。

 先に入ったはずのセイマの姿はなく、その道へとたどり着く頃に振り返っても、後からアイサがやってくる様子もなかった。

「空気……美味いな……」

 鼻から大きく息を吸い込む。草花の青々とした香りや、土の焼ける匂いが肺だけでなく脳にまでも染み渡る。

 青い空に昇る眩しい太陽は心地よかった。

「セイマ、もう行ったのかな? いや待てよ……もしかしてこれ、一人でどうにかしろってこと?」

 呑気にしていたイサミにようやく焦りが生まれて、辺りを注意深く見渡す。

 山脈とは反対方向に道を目で辿っていくと、小さな集落があることに今になって気が付いた。

 家屋のような建物が、一定の範囲内で点々と存在している。中心部ではそれなりに密になっていた。

  そして村から少し外れた所には、風車が二台、ゆるゆると回転しているのがわかった。

「あれ、村ってやつ……かな?」

 とくんとくんと腹から期待が沸き上がる。自分の頬がだらしなくゆるんでいることを隠そうともしなかった。隠す必要もないが。

「よっしゃ! えっと、なんだっけ、『ヘルメスの涙』? だっけか。それを手に入れてしまえばいいんだろ」

 景気づけに右の拳で左の掌を打った。

「とにかく、行ってみるぜ……!」

 制服姿のまま、イサミは村へと向かった。


 木造や石、煉瓦造りの家屋には煙突が伸び、舗装もされていない土の道は時々窪んでいて、知ってるようで初めて見る服装を身にまとった人たちが談笑をしている。

 牧歌的な雰囲気が漂う名前も知らない村に、イサミは興奮を隠せないでいた。

「おおおおおお!? すげー……本当に異世界だっ!」

 村人たちが幾人かその叫び声に反応してイサミの方を振り返るが、九割は怪訝な顔を浮かべている。残り一割はただ驚いている。ともすれば誰も歓迎するような明るい雰囲気は持ち合わせていなかった。

 ひそひそと村人同士が身を寄せ合って何かを話しているが、イサミには全く理解できない。音量の問題ではない、理解力の問題である。

「やべぇ……何言ってるか全然わかんねぇ……。え、すっげー不安なんだけど」

 好意的ではない視線ばかりが集まり、嫌な汗が背筋を流れるのがわかった。

「あのお……」

 ささっ。

「すみませーん……」

 さささっ。

 イサミが声を掛け、体を向けるだけで村人たちは避け、隠れ、建物の中に入る者までいる始末。

 イサミは、鼻の奥がつんと熱くなるのがわかった。

 それは――幼少期にちょっとした失敗を周りの友人からかわれすぎて、泣きそうになったが泣くと負けを認めてしまうと思い、泣く寸前で我慢したあの夏の日のことを思い出させた。

「ちょっとさっき叫んだから怖がらせたかな? も、もっと奥に行けば大丈夫だろ。あれ、俺こんなに独り言多かったっけ?」

 イサミは、不安に比例して独り言が多くなるタイプだったことに自分自身初めて気が付いたのだった。


『レニ、あの子、なんだか変じゃない?』

『ほ、本当ね。初めて見る顔だね……旅の人かな?』

『うわ、こっちに来たわよ。レニ、あなたのこと見てるわ』

『え? そんな……プレアちゃん、代わってよお……』

『嫌よ。まぁ待ちなさいな、別に鎧を着てるとか武器を持ってるとかではなさそうだし。変な服だけど、そんなに危険じゃないわ。変だけど』

『そ、そうかなぁ……? なんだかすごく焦ってるみたいだよ。すっごい息切らせてるし』

『今も駆け寄って来たくせに何も言わないわね』

「はぁはぁ……あの、えっと……あれ、なんだっけ? はぁはぁ……」

『……え? なに、この人なんて言ったのプレアちゃん』

『さぁ……異国の人みたいね。珍しくはないわ。きっとこの人もヘルメスの涙を求めてきたんじゃない?』

『さすがプレアちゃんだね。私にはさっぱり分からなかったよ』

「あ、そうそう! ヘルメスの涙ってわかりますか? こう……宝石だから、多分これくらいの大きさで……」

『で、結局何を言ってるのかな?』

『わかんないわよ。もう行こっ。早く帰らないと今日は午後から製粉でしょ?』

『あ、そうだった……。ご、ごめんなさい、旅の人。貴方に幸運を……』

「え? あ、ちょっ、待ってくれ……」

 ――イサミは膝から崩れ落ちた。

 ようやく耳を傾けてくれた人を見つけたというのに、全く話が通じない。当然イサミも村娘たちが何を喋っていたのかは理解できなかった。

 そして何より重大なミスを犯していたことに、彼は今になって気がついたのだった。

「ヘルメスの涙の情報、聞いとくの忘れてた……」

 宝石と言われて、ステレオタイプな宝石を思い浮かべて満足していたが、色も形もわからなければ探しようがないことに今更気づいたのだ。

 大きさだって、指輪を飾るような小さい場合もあれば、両手で抱えるほどの大きさの可能性だってある。

『宝石を探しているものがある』と言われて、『どのような宝石ですか?』と訊き返した時に、『さぁ?』と首を傾げるようなものだ。相手からすればたまったものではない。

 ジェスチャーで表現することもできないし、地面に小石でがりがりと絵を描くこともできない。

「――そうだ」

 ぴんと鼻を弾かれたようにイサミは明るい顔を上げた。「装飾品を売ってるような店とかないか? その中にあるかもしれない。触れればそれだけで力を得るって言うなら、ちょっと無理やりにでも触ることができればあとはどうにかなるだろ!」


 イサミはざっと足元の小石を滑らせながら立ち上がった。

 そして村の中心地で賑わいを見せる屋台や商店を覗いてみた。


 それから数時間後――彼は村の外れの柵の向こうで一人膝を抱えていた。

「こんないかにも田舎そうな村に、装飾品屋なんてあるわけないか……」

 山の向こうに夕日が沈む。黄色の強い夕焼け空からさらに視線を上に向ければ、濃い群青の夜空がすでに広がっている。

「夕焼けの綺麗さは同じなんだな……はは……」

 やべぇ……腹減ったなぁ……。はっ。異世界の村で腹減ったなんて少年漫画の主人公かよ……。

 やつれた自嘲しかできない。昨日から今朝まで気を失っていたこともあって、ずっと何も食べていないのだ。

 もたれた柵の向こう側では、村人たちもそれぞれの家に着き、夕飯の準備でもしているのだろう。家々の煙突からは白い煙が立ち上る。

 嗅いだことのあるような匂いもあれば、想像のつかない香りも、夕刻の冷風に混ざって漂ってくる。

 ただ、どちらの匂いにも、腹の虫が期待の歓声を上げるので、間違いなく美味そうだった。

 それが余計に孤独を感じさせた。

 俺……どうなるんだ? さすがに死ぬことはないだろうけど、いつになったら戻れるんだよ。あの先生、こんな程度のことで救いの手を差し伸べてくれるような優しさはなさそうだったしな……。

 膝を抱え、背中を一層丸めた時、背後に足音を感じた。

 だが、どうせ自分を目指してきているものではないだろうと、初めは気にも留めなかったが、臀部に振動が伝わってきたことと、足音が次第に大きくなってきたことを踏まえると、どうやら自分に近づいてきているらしいと分かり、イサミは顔を上げる。

『君、ちょっといいか?』

 現れたのは、槍を片手にくすんだ銀色の鎧を身にまとった兵士のような出で立ちの人物だった。肩には円状に纏めた縄をかけている。

 何を言っているのかはわからないがその低い声から男だと一旦は認識しておいた。

 槍を構える様子はなく、穏やかな調子で声を掛けられたので、なんとなく何かを尋ねられたのだろうと思い、「はい?」と答える。

『いやなに、ちょっと不振な異国の旅人がいると言われてね。特に武器を持っているだとか、魔術を操るだとかは、そんな様子はなさそうだな』

「申し訳ないっすけど、何言ってるのかわかんないんすよ……。あ、これもわかんないか。ははは……」

『とにかく、ちょっと詰所までご同行願おうか』


 イサミは、異世界に来て半日で、兵士の詰め所に連行された。

 石を積んで作られた詰所の中は陽が沈んだ今もまだ、咽るように暑い。それは燈の為の蝋の火がいくつも灯されていることも関係しているのかもしれない。イサミは先行する兵士の背中を見ながらぼんやりとそんなことを考えていた。

 兵士は肩にかけていた縄を使ってイサミの手首や腰を縛るようなことはしなかった。

 促されるまま、個室に入る。そこは机と椅子が二脚あるだけの空間だった。

 天井の四隅にまでは届かない吊るされた蝋の光が、まるで今の心細さを現しているようにイサミには思えた。

 木製の机と椅子は、少し揺れるだけで悲鳴のような軋む音を立てる。

 イサミが出入口から見て奥の椅子に座らされると、手前には件の兵士が着席する。兵士は鍋をひっくり返したような飾り気のない兜を脱いだ。現れたその顔はこの詰所と同じく少しくたびれた中年の男の顔だった。

『君、どこから来たんだい?』

「え? なんすか?」

『っと、何を言ってるかわからないよな。お互いに、このままだと』

 兵士は鎧の隙間から何かを取り出した。

 机の上に置かれたそれは水色の透明な石だった。

「ほ……宝石……!?」

 そうイサミが感じたのはいわゆるブリリアンカットと呼ばれる形状に削られていたからだ。もっともオシャレに疎い彼は、それを見てベーゴマをイメージしてしまう。

 イサミは大きく息を飲んだ。蝋の溶ける甘い匂いが喉に張り付く。

「これ、もしかしてヘルメスの涙か?」

 宝石を指さし、目を見開いて興奮するイサミの様子に、兵士も鏡のように目を開く。

『さすがに知ってるかい? ヘルメスの涙は。この場合は、僕が付けたらいいんだったよな? はっ、なんて君に訊いても仕方ないよな』

 兵士は首飾り用に紐が付けられたそれをさっと首から提げる。

「……どうかな?」

「うお!?」

 イサミの反応が答えだった。

「良かった、聞こえたようだな」

「う……」

 イサミが俯く。兵士は眉間に皺寄せた。

「どうした? どこか痛いのか?」

「うぅぅ……ぉぉおおおおおおおおおお……っ」

 イサミは嗚咽を溢し、ぼろぼろと涙をこぼしたのだった。

「な、なんだなんだ?」

 無精ひげ面の兵士は戸惑うばかりだった。

「ず、ずびばぜん……」

 鼻水をたっぷり啜る。「言葉が通じないって、こんなにきついものだったなんて知らなくて……うう……」

 泣きじゃくるイサミの姿に、兵士は完全に警戒を解いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る