質問は食後にしてくれ
「どうちた? 何か用か?」
理事長の拙い舌使いが続く。
そこにばかり意識が向いていたが、よくよく耳を澄ませば、どこか慌てているようにも聞こえた。
イサミは板チョコのような模様と濃いブラウンの木製の扉を、穴が開くほど眺めつつ、
「いや、あの、ちょっと訊きたいことがあるんすけど……」
「そうか。それは良かったな」
「……」
え?――イサミは目を点にする。「いや、良かったとかじゃなくて、あの、ていうか入ってもいいっすか?」
「いや、少し待て……」
扉の向こうでは、何かが動く気配がする。
と、同時に、理事長の声がどこか籠ったように聞こえた。口の中に何かを詰め込んだよう。
「……もごもご……5分」
「……あの、何か食ってます?」
「んぐ!? な、何を言ってもぐ」
「……食べるか喋るかどっちかにしてくださいよ……」
「もぐもぐもぐもぐ…………」
食っちゃったよ……。イサミは小声でつぶやいた。
かくりと肩を落とした彼の眼前に、突如柔らかな光が現れる。その光の球体は次第にその光量を落としていくと、中から現れたのは砂時計だった。
ふわふわと上下に浮かぶ砂時計が、勝手にさかさまにひっくり返る。
「……5分待てってことかよ……」
――くびれた隘路のような硝子の中を砂が落ちていくのを面白がって観れるのは最初の十秒ほどで、イサミはすぐにも退屈を弄ぶ。
「ていうかもう、中に入れなくていいんで、質問してもいいですか?」
「…………」
理事長から返答はない。その代わりに、かちゃかちゃと高い音が聞こえる。金属と磁器が打ち合うようなあまり品の良くない音だ。
絶対何か食ってるよな……。
イサミの胸の中に小さな苛立ちが生じる。
「あの、俺が何で転生? できなかったのか教えて欲しいんすけど」
人を待たせてまで食うのってどうなんだ?
まぁでも、突然と言えば突然やってきたのは俺の方だし……。
「それで、どうすれば次は合格するのかも教えて欲しいんですけどっ」
「………………………………」
返事はない。ただの食事中のようだ。
「はあ~あ……」
思わずイサミは深いため息を吐いた。わざとらしく大きなため息だった。理事長への嫌味も込めていたのだ。
それは当然、扉越しの理事長にも聞こえたのだろう。
動いている音が、ぴたりと止まった。
ついとイサミは顔を上げたが、一向に扉が開かれる気配はない。
もしかして、とドアノブに手をかける。
がたっ。
開くことはない。
「うん?……――うおっ!?」
左右の扉の隙間から、ゆらりと茜色の煙が漏れ出てきた。
驚いた弾みで跳びはねるように数歩後ずさったイサミは、体勢を整え、改めて煙を凝視する。
いや、違う。煙ではない。
光?
光にしては形が曲線的で広がりも遅い、が、煙にしては咳込むような鼻腔への刺激がない。
だが、それ以上じっくりと観察している猶予もなかった。
その漏れ出た茜色の気配は、不規則に空気中に広がるのではなく、一定の形を成すように集まる。
イサミの右手側の奥。丁字路の廊下の突き当りが理事長室だったのだが、その右手に伸びる僅かな通路の方へ集まった。
瞬く間に形成されたその大まかな形は四足歩行の獣を模していた。
そして、一度強く光り、視界が白む。目が痛くなる光は、咄嗟に難く瞑ったイサミの瞼の裏にその残像が残る。
次第に暗闇を取り戻したイサミは徐々に瞼を開いた。
「「「ガルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルゥゥ」」」
通路には、巨大な犬の頭が三つ並んでいた。
生まれたての仔犬が狭いスペースにぎゅうぎゅうに押し詰められて、小さな頭に愛くるしい瞳が並び、物欲しそうにぺろりと舌をのぞかせる――。
そんな愛おしさは一切ない。
「ケルベロス。……イチャミ、お前の世界ではよく知れ渡っている獣だろ」
一緒なのは廊下を塞ぐほど巨大な頭が詰め込まれている姿だけ。
燃える炎のような茜色の体毛に覆われた頭部は見る者に畏怖を与える。
目は充血を通り越し、鮮血のような赤黒い目をしていて、肉食獣特有の突き出た口吻に備わる牙は、イサミの頭身とほとんど変わらない長さだった。
牙の隙間から漏れる唾液はそれだけで床に水たまりを作った。物欲しそうに舌を伸ばす。
「あ、わわわ……」
イサミは腰をぬかし、間抜けな声を震わせるしかできなかった。
その様子を扉の向こうからでも見えているように、理事長の愉快な声が届く。
「お前、こいつを倒せるか?」
「は、はぁ!? むむむ、無理っすよ」
「「「ガウッ!」」」
「うわぁ! い、いちいち声をそろえるなっての!」
三つの頭は今にもイサミに喰いかかってきそうだが、幸いにも通路が狭い為、互いの頭が互いの自由を奪うので、今のところは吠えることしかできないようだ。押し合いへし合いしている状態で、廊下の壁面が軋む音を立てる。
廊下自体はすごく一般的な大きさで、イサミからすればやや広いくらいのものだった。
そこに押し込まれているのだから、もしこのケルベロスが解き放たれたら、倒すどころか、彼はすぐに『わん●ゅーる』と化すだろう。骨をしゃぶられるどころか骨ごとゴリゴリいかれてしまう。
「まぁ……だから落ちたんだな、うん」
理事長は妙な間を取りながら言った。どこか取ってつけたような、むしろ目の前の食事に夢中なのか、おざなりな、そんな言葉だったので、イサミが納得できるわけもなかった。
「ほ、他の連中は倒せたっていうんすか?」
「ガウッ!」
「バウッ!」
「ガウル!」
「いや順番に吠えられても怖いのは怖いっての!」
つーか、俺の言葉理解してるってこと? だとしたらどこに気を使ってくれてんだよ。
「私のやり方に疑問を感じるというのか?」
理事長の、言葉は凄んでいるが、声がいかんせん幼いので緊張感はない。
その代わりに目の前のケルベロスが声を低く唸らせる。
「私が今、指先を少し動かせば、お前なんてパクリなことを分かっているのか」
「擬音と結果が不釣り合いなんですけど! 怖すぎますってその脅し。……わかりましたから、指は動かさないでくださいよ」
「ならば良い。明日から大人しく授業を受けるんだな」
「明日って、この世界に一日があるんすか?」
「がるう?」
「いや」お前に訊いてないから!――と言いたかったが、その迫力に負けて「き、君には訊いてないよ、うん」
と言葉を窄める。
「ちっ。仕方ない……。イサミ、」
と、扉の方から言った。
誰かが。
扉の向こうにいるのは理事長で、そうと分かってお互いに会話をしていたのだから、『誰』なのかは問うまでもない。
しかし、イサミがそう感じてしまうほど、それまでの理事長の声とは別人のものだった。
一瞬、このケルベロスたちの誰かの声だったのかと疑ったイサミは目線を向けるが、ご丁寧にどの頭も首を左右に振る。
「少しだけ時間をやろう。入れ」
その尊大な口調は理事長のものだったが、声質までがそれに追いついた。
気付けば漂っていた砂時計は砂を落とし終えていた。
ケルベロスたちが一瞬発光したと思うと、その輪郭が溶け、球体へと収縮し、最後には点となり、そして煙のように消えてしまった。
「し、失礼します……」
イサミは背中を丸めながらそっとドアを押し開けた。
広い空間には無駄なものが置かれていなかった。
執務机と椅子が、扉の正面に在る。机の上には物が置かれておらず、丹念に磨かれた板面は清流が流れ着いた先にある湖面のよう。
イサミから見て右手には書棚、左手にはパーティションで区切られた一角と観葉植物が飾られている。
正面は全面硝子張りで、その向こうには宇宙のような星空が広がっていた。窓を縦断する星の河が見える。
中央よりやや左に、窓の向こうを眺める人物の背中が見えた。
背丈は高く、だがそれ以上に長い髪が目を引く。クリーム色の髪は腰や臀部を覆い、大腿部の裏側にまで届いていた。
銀色のドレスは生地の遊びが少なく、体の輪郭をはっきりさせていた。
脚を隠すロングスカートだったが、スリットから覗く足に無駄な筋肉はなく、瑞々しい肌が覗いていた。
イサミが入室したのは分かってるはずなのに、振り向きもしない。
その緊張感も重なり、イサミは後ろ手に音を立てないように扉を閉めた。
「……あの、すみません。理事長は?」
イサミが尋ねる。
ようやくそこでその人物は後ろを振り返った。
脚部から想像させられた通り、上半身もまた無駄な肉のない体つきだった。
細い首の上に乗った顔は整っていて、絵画のようで、ある意味人間味のないものだったが、気品に満ち溢れていた。
鋭く吊り上がった眼つきも相まって、イサミの体に緊張を走らせる。
「ここにいるだろう。どこに目を付けてる」
ほくそ笑む薄い唇から発せられた女性特有の低い声に、イサミは妙な胸の高鳴りを覚えつつ、その物言いにはっとし、背筋を伸ばした。
「え、理事長っすか?」
「そうだ。ホーム=エカリーノ理事長は私のことだ」
どちらかというと無い方の胸に手を当てながら、顎を上げて高い鼻をさらに高く持ち上げる理事長だった。
流暢に告げるその声に、先ほどまでの幼さは微塵もなかった。
特に名前は尋ねていないイサミだったが、わざわざ名乗られたので「イサミです」と返す。
「ていうか、それならさっきまで話してたあの子どもみたいな人は――」
イサミが恐る恐る尋ねるも、ホーム理事長は遮るように言葉を被せる。
「さて、時間がない。お前の質問に答えてやろう」
理事長は執務机に向かうと、背もたれの大きな革張りの椅子にどかりと腰かけ、足を組むように右足を持ちあげて左ひざの上に乗せた。その姿勢ゆえ、スリットからは右の大腿部から下が全て露になってしまう。
「確かにこの世界に明日もくそもなくてよい。だが、お前たちの体はそうもいかない。夜を迎えて寝るという行為により、体は休まるのだからな」
「……俺たちの体って本物ってことっすか?」
「本物?」
右の眉だけ持ち上げると、理事長はぎょろりと眼球をイサミに向ける。
「いやその、なんつーか、こう魂が具現化したとか、そういう感じではないってことっすか?」
「なるほど。あぁ、そういうことだ。お前たちを鍛えるために、体は本物だし、転生先の世界にも朝や夜はある。その為に現実に近づけているのだ。私などは寝なくても問題は無いがな」
ふん――と得意げに笑う理事長だったが、笑顔でももはやイサミには不気味だった。
というより、そんなことで得意げになられても困るというものだ。
「もう良いか? 明日からに備えて今のうちに体を休めておけ」
「え、いや、あの……」
「なんだ? 私は忙しいのだ」
理事長の瞼が揺れる。
「あの、俺って魔法的なのとか使えないんですかね?」
「使えない」
あっさりと告げられた理事長からの言葉に、イサミはショックのあまり固まってしまった。
「ここでは、な」
「……え?」
その一言で瀕死の淵より蘇ったイサミは、溜まらず机に詰め寄った。
「使えるんすか!?」
理事長はイサミを見上げた。そこに上目遣いと言うロマンスは欠片も無く、凄みが増えただけであったが、興奮状態のイサミにはそれが通じなかった。
「魔法や魔術――呼称は違えど、超常現象の類は、その環境によっても左右される。お前がいくら箸を上手に使えても、海外で箸が出てこなければ意味はない」
「な、ナイフが二本あればあるいは……」
「バカタレ。――と言いたいところだが、それくらいの応用力は期待したい。だからこそ、基本的なことは学ぶことになるだろう」
理事長はにたりと口の端を歪ませた。垣間見えた犬歯は白く鋭い。
さぁ、もういいだろう――。理事長の言葉は次第に苛立ちを含み始めていた。
「いや、でもまだ……」
イサミは訊きたいことがまだある。しかし、理事長は睨むだけでは飽き足らず、立ち上がると、右腕を地面と平行になるよう伸ばす。
天井に向いたその手のひらの上に、茜色の球体を生み出した。
「いいいいい!?」
ケルベロスだ!――と、イサミはあの恐怖を思い出し、またしても腰を抜かしてしまった。
「な、何をしている。さっさと立て!」
一方でほくそ笑むかと思われた理事長が、イサミと同程度に慌てふためく。
「だだだ、だってあれ怖いっすよ!」
「貴様、これから異世界に行こうとせんものがケルベロス程度で腰を抜かすな!」
「無茶言うな! 昨日まで地獄にいたんじゃねぇんだぞ!」
「何だと。貴様、誰に向かっ――うあっ」
理事長が突如短い悲鳴を上げる。
イサミは目を丸くした。その声に驚いたからではない。
ホーム理事長の体が発光し始めたことに驚くほかなかったからだった。
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