自己採点は厳し目に

 残された生徒3名の間に雑談で盛り上がることができるような距離感はない。

 イサミが顔を向けても、セイマは視線を合わせようともしない。力なく下を向いてるだけだった。

 アイサはというと、腕を組み考え込んでいた様子だったが、やがて立ち上がり、髪をまとめていたクリップを外した。

 癖づいてゆるくウェーブがかかってしまった長い栗毛色の髪とうなじの間に手を滑りこませて払うと、教室を出て行ってしまった。

 それに引っ張られるように、セイマも俯いたまま立ち上がる。

 否応にも伝わってくる彼女の喪失感に、イサミは反射的に手を伸ばすような格好で、

「あ、あの、大丈夫……?」

 声を掛けたが、彼女は何も返事することもなく、教室を出て行く。足を踏み出す、というよりも、前に項垂れた体が倒れ込まないように足が勝手に前に出ているような姿勢だった。


 一人残ったイサミは、教室の静けさに浸る。窓の外はもちろんのこと、廊下の向こうからでさえ生徒の笑い声や教師の説く声、行き交う足音が聞こえることはなかった。

 静まり返る建物内は、厳かな聖堂に踏み入ったようで、かすかな寒気を感じさせた。

 改めて周囲を確認する。

 椅子や机の肌触り、天井から降り注ぐ照明器具の白い光は、異世界を感じさせるには弱い存在――むしろ異世界を遠ざけるようなものだった。

 窓を開けてみる。教室は三階に位置し、景色をそれなりに眺めることができた。

 眼前に広がる校庭には土のグラウンドが広がっている。予備校というものが、どういうものなのか知らずにここへたどり着いたイサミにとって、その正否は不明だったが、学校に近いのではないかと思えた。

 しかし、校庭の向こう――門らしきものの向こうには、道路が走るわけでもなく、住宅街が広がっているわけでもない。

 薄桃色と橙色が混ざったような靄がかかっている。

 その隙間からは無限を意識させる群青が見えた。その中に見える白い点が、陽の光を反射させる波間なのか、それとも無数に瞬く星屑なのか、それはわからない。

 ただいずれにしろ、立地としてはやはり現実的ではなく、異世界なのかと思わせる。

 ふと彼はジャンプすることを思い立ち、間もなく実行してみた。

 天井に頭をぶつけることはなかった。標準的な椅子の座面を飛び越えるかどうかの高さ程度であった。それが低いのか高いのか、イサミはわからないが、重力が異様に低いということはなさそうだ。

 自分の手のひらを見つめて、ぐっと握りしめてみる。力は入るようだ。もう一度開くと、そこには自分の爪の痕が赤らんで残っていた。僅かに痛みも感じる。

「はぁ!」

 イサミは手を突き出し、気合の入った声を出す。

 すると…………。


 何も起きなかった。


「ちぇっ……。なんだ。特殊能力とかなしか。まぁわかってたけど」

 白衣のおばさんとの面談で尋ねられたことを思い出す。


 ――あなたの長所と短所を教えてください。

 ――また、本校に入学した暁にはどんなことに挑戦してみたいですか?


 面接試験で訊かれる定型句らしきことを尋ねられたのだ。その時の自分の答えを踏まえれば、手から火球や雷光が放たれることはない。

 イサミは、はははっと誤魔化すように笑いながら手を払う。

「これが、俺の新しい体、か」

 窓にうすぼんやりとだが自分の体を反射させる。両手両足を広げるとまじまじと眺めた。

「身長は175センチにしてくれって言ったけど……こんなものかな?」

 前髪をかき上げた位置で止めているヘアピンに指を乗せながら爪先立ってみる。なんとなく低く感じていた。

 体重は標準的、身長に見合っていて可もなく不可もないという具合だ。

「まぁまぁってとこかな。……よしっ!」

 ぱちんと自分の手で頬を叩き、気合を入れる。「合格してやろうじゃねえか」

 ぐっと表情を引き締めた。

 最後に残っていたイサミまでが教室を後にし、ただ三つの席だけがそこには鎮座していたのだった。


 誰もいない廊下を勇ましく歩いていく。教室は廊下に三つ並んでいたが他の教室内を窓から覗き込んでも誰もいない。

 校舎内の地図は簡単に白衣のおばさんに教えてもらっている上に、地図まで渡されたので迷うことはない。

 いかにも学校然とした教室とは変わり、青白磁色の壁面や柱で構築された校舎内は、神聖さすら見る者に覚えさせ、校内の清閑さに拍車をかけている。息を吸うたびに森のような緑の薫りがかすかに感じられた。

 澄んだ頭に、ある一つの疑問が浮かび、イサミは足を止めた。

「具体的にどんな試験するんだ?」

 まさか国語や算数ってわけじゃないよな……。

 どうせなら次の試験には受かりたい。というか前は何が足りなくて落ちたのか。そもそも落ちたってなんだ? 未だにそこが腑に落ちない彼は、一先ず寮の自室へと向かうことを止めて、職員室へと向かった。



 職員室にて速水を訪ねたが、彼女はすでに帰宅したらしい。せっかちな彼女らしいと言うべきなのかとイサミは苦笑を浮かべながらもそんなことを考えていた。

 何処に帰ったのかも気になるところだったが、今後の予備校生活のことで質問したいと手近な人物に尋ねたところ、向かうように言われたのはなんと理事長室だった。

「いや、そんな大げさな所にいくのはちょっと……」

 と言ったのだが、理事長から生徒から質問が来た場合は理事長室へ向かわせるようにお達しがあったのか、その教師なのか事務員なのかは不明な人物は、イサミが何度尋ねても「理事長室に行ってみてください」という言葉を機械的に繰り返すだけだった。

 どんな人物だったか、ついさっきのことなのに思い出そうにも思い出せないほど特徴のない人物だった。

 とはいえ、今さら「遠慮します」とは言えず、イサミは教えられた通りに理事長室へ向かう。


「――なんかこう、ワープ装置とか……はぁはぁ……ないのかよ……」

 イサミは舌を出して息を切らせていた。ただでさえ三階にあった教室から、一階の、別棟の職員室へと向かい、さらに今度は階段で五階まで登らされる。

 まだ今一つ体が馴染んでいないからなのか、五階にたどり着いた頃にはすっかりくたびれてしまった。

 死んだ後だってのに、体ってどうなってんのかわかんねぇけど、少なくとも呼吸は苦しくなるんだな……。体力ないな俺……。


 ぐぅ~~……。


 腹も減るし……。忙しいな俺の体! これ盛大な何かのドッキリとかじゃねえよな?

 階段のてっぺんに腰かけて息を整える。が、あまりに疲れたのかそのまま背中を床につけて寝転んでしまった。胸が大きく上下に収縮を繰り返す。

 廊下はふかふかの絨毯が敷き詰められており、寝転んだ心地は悪くないようで、イサミは落ち着くまでそのままの状態でいることにした。

 目を閉じていると、そのまま眠ってしまいそうだ――。

 しかし、イサミの安眠を妨害せん足音が廊下の向こうから聞こえてきた。

 たぱたぱと小刻みな足音が次第に大きくなってくるにつれて、微かに頭に振動が伝わってきた。

「――きゃっ」

 短い悲鳴。イサミは反射的に瞼を開く。

 廊下から階段の降り口へ曲がってきたその二本の脚が見えた。膝より少し上で揃えられたスカートの裾の、そのまた向こうの小宇宙は残念ながら闇に包まれており、イサミには覗けなかったが、セイマの方も、裾を抑えて隠す様子はなかった。

「えっ――」

 その顔を見て、思わず声を漏らしたイサミの横をセイマは無言で通り過ぎていく。階段を降りていく彼女の背中は小さかった。

 踊り場を折り返し、階下へと消えて行く刹那、セイマの目元が何かに僅かだが反射し、ビーズのように小さな光を見せた。

「あ、ちょ――」

 まごついてる間にセイマはそそくさと消えて行く。「……泣いてた?」


 ここに来ていたってことは、セイマも理事長室に来たってことだよな?

 廊下は、左右にはそれぞれ『会議室1』『会議室2』と書かれた部屋が一つずつあるだけの隘路だった。先ほどまでイサミがいた教室の二つ分ほどの長さの廊下に扉が一つずつしかないことからその部屋の広さが伺える。

 そして正面の奥に理事長室があり、そこで行き止まりだった。

 一抹の不安を感じながらも、ひとまず自分の目的を果たすために、『理事長室』と彫られた銀色のプレートの隣の扉をノックした。

 重厚な扉は、特に意識することなく叩いても、それなりの重低音を鳴らした。

「――なんだ!」

 扉の向こうからの返事だった。

 ずいぶんと苛立っていることはその息遣いからも伝わってくる。

 当然中にいるのは理事長だろう。

「ええ!?」

 思わず驚きの声を上げるイサミだったが、それが功を奏す。

「む? その声はセイマじゃないな」

 ふぅ――。理事長と思しき人物は落ち着きを取り戻したようで、深く息を吐くのが聞こえてきた。

「ちゅぎ――」

 えへん。

「つぎはだれだ? いちゃ――」

 えっへん。

「イサミか」

 やたらと咳払いが挟まるのは、何も痰が絡んでいるわけではなさそうだ。

 イサミは声を聞くたびに眉間にしわを一つ、また一つと増やしていった。

「は、はい……」

 彼の頭の中には疑念が渦巻いていた。それは名前を何故知っているのか――そんなことではない。それはある種の消去法でわかるんだろうと彼は大して気にも留めていない。


 なんか……声、幼くね? 舌足りてなくね?

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