エピローグ

51.積もる時間

「お父さん! ただいまっ!」


 シズクは声を張り上げ、和本南の離れ小島、卜島にある実家の玄関扉を元気いっぱいに開く。


 ネクタリアの奇跡の夜から三年。大晦日の夜が訪れていた。


「遅かったねー、シズ姉! 先にはじめてるよー」


 ツクリの声が、奥の居間から聞こえた。

 ぐでっとした声から、朝から何杯も飲んで、こたつに埋もれている姿までもが容易に想像できる。


「えー! 今年は待ってるって言ってたのにー!」

「だってシズ姉、いつまで経っても帰ってこないんだもん」

「うぅう……。フェリーがなかなか動いてくれなかったんだよぅ」

「この季節は海が荒れてて、三日に一回は止まるからなぁ。ま、年越しに間に合っただけ良かっただろ。ほら、お前も駆けつけ三杯、いっとけよ」


 シズクが洗面所で手を洗い終えて振り返ると、そこには缶ビールを掲げる持つ父の姿があった。

 随分と増えた頭髪の白の面積に目が行くが、目鼻立ちはシズクとツクリに、輪郭と体格はソダツにそっくりである。


「もう。アルハラ限界突破だよ、お父さん。京東だったら訴えられてもおかしくないんだから!」

「……そうかぁ? ったく、堅っ苦しい世の中だぜ」

「ま、私はありがたくいただくけどね。……居間で待ってて。先に荷物、仕舞ってくるから――」


 言いながらてってけと階段を上り、シズクは、今も住んでいた頃のままにしてある自室に旅行鞄を放り込んだ。さらに上着を脱ぎ捨て、再び階下へ。


 父とツクリが待つ居間の引き戸を開けると、真正面には、現代の住宅には似つかわしくない巨大な樽。神棚の下にでんと鎮座していた。


 ぱんぱんと手を打ち、年末のお参りを済ませて目を開ければ、目の前には薄張りのグラス。

 「ありがと」と言ってツクリの手からグラスを受け取ると、シズクは樽に取り付けられたタップにグラスを添え、ゆっくりとコックを開く。


 「しゅっ」と小さな音がした。


 タップからとくとくと、透明のグラスに注がれていくのは、見覚えのある、少し濁った黄金色――


「ん? この樽も、もう空か?」


 流れ出る勢いが弱くなった事に気づいた父が、ゆっくりと樽を傾ける。


 最後の一滴まで注ぎきったと同時に、シズクのグラスは何とか満たされた。


「全部なくなっちゃったねー……」

「だな。もう、逆立ちしても出てこないだろ」

「えぇっ! もう最後なの? 『天上の揺り籠』、三樽もあったんだよ!?」

「一年、一樽。ま、そんなもんだろ? お前達が年末年始に、三日三晩飲み続けたのが一番の原因だとは思うけどな」


 腹を抱えて父は、けらけらと笑う。


「むぅー……。これでも私は遠慮してたんだよ」

「いつかは無くなるもんさ。ほらほらシズク。残り福だ、ぐいっと飲っちまえよ!」


 黄金の液体に満たされたグラスを目線の高さに掲げ、シズクは生唾を飲み込んだ。が、誘惑を振り払うように高速で首を振り、口を開いた。


「ううん。これはお父さんの。私達、三人からのお土産だから」

「……だね。最後の一杯は、お父に飲んでもらわないと」

「そうか? それじゃあ、遠慮無く。泡がなくなる前に飲んじまわないとな」


 シズクからグラスを受け取ると父は、一気にジョッキを傾けて空に。


 口元に残った泡を袖口でぐっと拭うと――


「かぁぁああー!! 生き返るぜぇ!!」


 心の底からの唸り声を上げた。


「ほんとーに良かったね。シズ姉」


 こたつから這い出してきたツクリが、背伸びしてシズクの肩を抱き、微笑む。


「うん!」


 シズクは満面の笑みを浮かべ、力一杯頷いた。


「な、なんだよお前ら。俺の顔に何かついてんのか?」

「……ううん、何でもないの」

「こっちの話だよー。ね、シズ姉?」


 二人の娘にじっと見つめられていた父は、堪らず目線を逸らせ、頬を掻いていた。


「親父、帰ったぞー!! ……ん? シズクの奴、もどってんのか?」


 声が聞こえ、シズクはぱたぱたと玄関へと走る。

 玄関で靴を脱ぐ青年の浅黒い顔は、少しも変わっていない。


「お帰りっ! ソダツ兄さん」

「おぉ! シズク。一年振りだなぁ!」


 ソダツは、すっと右手を挙げて再会の喜びを表す。


「ソダツ兄さん、全然連絡取れないんだもん!」


 むくれるシズク。上がり框をまたいだソダツは、ぽんとその肩を叩いた。


「お互い忙しいんだ。仕方ねぇだろ?」

「ソダツ兄さん、海北道で農業してるんだもんねー……」

「携帯なんてもんはいつも手放してるからな。何より、朝早い農家は、寝るのもはぇえんだ」


 ソダツは、けらけらと笑った。会社勤めと農家では、生活サイクルが大きく異なるのだ。


「わかるけど……。ま、会えたからいっか。兄さん、釣りに行ってたの?」

「おぉよ! 大物が釣れたぜ! 刺身にしてやる。今夜のあてだ」

「そうなるかなーと思って、お刺身に合う新作ビール持ってきたんだよ! 皆で飲もっ!」

「はっは! マイスターの慧眼には恐れ入るぜ。刺身とビールとか、最高じゃねぇか!」


 上機嫌に笑い、腕まくりをしたソダツは、獲物の入ったクーラーボックスの蓋を開ける――


  ▽


 一年振りに揃った四人家族は、こたつの一辺にそれぞれ陣取り、刺身を食べながらグラスに注がれたビールをしっぽり飲んでいた。


 年末恒例の歌番組も、とりあえず点いてはいる。けれど、とりとめのない話が盛り上がってがやがやすれば、メロディー一つも頭には入ってこない。


「そうか。『天上の揺り籠』、無くなっちまったんだな」


 空の樽をぼんやり見つめるソダツの、声の調子は低い。


「てめぇが凹むのは、お門違いってもんだろ! 帰ってくる度、バカみたいに飲みやがるんだからなぁ!」

「ばっ!? 誰がって言うなら、毎晩飲んでるツクリが戦犯じゃねぇか!」

「実家に残った特権でーす」


 すぐに始まる三人の小競り合いに、決着などない。


 シズクはそんな光景を「実家だなー」と、微笑みながら眺めていた。


「しっかし、この『天空の揺り籠』ってビール、どこで売ってんだ? いんたーねっとで暇がありゃ探してるんだが……影も形も出てきやしねぇんだ」


 束の間のバトルを終えた父が、小首を傾げる。


「そりゃあ……な」

「……」


 ソダツは眉をひそめ、ツクリは無言で顔を伏せた。


「『天空の揺り籠』は、限定もの。同じものはもう……二度と手に入らないんだ」


 樽の落書きを撫でながら、シズクが寂しげに呟く。


 時が巻き戻り、無事に飛行機事故は回避。シズク達を乗せた飛行機が無事着陸した何日か後、卜島のコガネ家には、差出人不明の三つの大きな樽が届いた。


 艶深い濃茶色の、ずんぐりとした腹は、ドリンを中心とした醸造所メンバーから、三人に宛てた感謝と激励の言葉で埋め尽くされていた。


 エーテリアルの言葉は、智球の言語とは違うものだったようだ。今となっては、どの文字も読めない。が、言いたいことも、誰が書いたものであるかも、不思議と伝わってくる。


 他の誰が見てもただの落書き。けれど、三人にとってはかけがえのない宝であり、ネクタリアでの日々が現実であったという証拠なのだ。


「あー……シズク? どうだ、仕事は?」


 しんみりした三人に、はてなと首を傾げる父。

 そんな、珍妙な空気を破ったのはソダツだった。


「う、うん! とっても充実してるよ! 聞いて聞いて! 私が考えた新作クラフトビールの企画、やっと通ったんだ!」

「ずっと言ってた野生酵母のヤツだ! やったね、シズ姉!」

「ありがと、ツクリっ! 年が明けたら早速ベルジーに渡って、色々勉強してくるんだ。今から楽しみだよ」


 声は元気だが、シズクの笑顔はぎこちない。


「……うまくいってんなら、何よりだぜ。今度、うちの農園で育ててるホップも試してみてくれよ」

「ホップ! 採れたんだね!」

「まぁな。マイスターだなんだ言ってもよ、ところ変われば農業はガラッと変わっちまう。その分、苦労はしちまったが。最近じゃあ、結構いいセンいってんだぜ」

「兄さんのお墨付きなら間違いないよね。サンプル送っておいてよ! 部長に掛け合ってみるから!」


 ネクタリアから戻ったシズクは、大手メーカーのスカウトを断り、和本の首都、京東にある気鋭のマイクロブルワリーで醸造家として活躍している。


 ソダツは北の大地、海北道に渡り、夢を追っている途中だ。ツクリはツクリで、大工のいなくなった卜島で家屋の修繕のなど、地域に欠かせない人材として引っ張りだこである。


 三兄弟はそれぞれ、目標に手をかけている。


 それでも、どこか物足りなさを感じているのも事実で――

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