43.甘々の夢
鼻の奥にへばりつくような甘い香りに包まれ、シズクは夢の世界にいた。
「むへへへへ……。麦芽糖の香りだぁ」
だらしない顔をしたシズクが寝返りを打つと、頬にはひんやりとした板張りの床の感触が伝わってきた。
いつも寝ているベッドのリネン肌触りとは確実に違っており――
「はっ!? ここは……誰? 私は……どこ!!」
飛び起きたシズクは、いち早く状況を把握しようと、目と首を同時に動かし辺りを見渡した。
抱き合っていたはずのエルミナも、間に挟んでいたドリンの姿も既に無い。ただエルミナがいつも羽織っている薄手のカーディガンが、シズクの肩で優しい余熱を届けてくれていた。
「ありがと」と呟いてそれを丁寧に畳むと、シズクは急いで煮沸釜の前にいるソダツの許へと向かう。
「遅くなってごめん、兄さん! ……麦汁の状態は!?」
「ああ。ちぃとばかし手間取ったが無事、竈に火が入ってな。今ちょうど沸きはじめたところだぜ」
見れば、煮沸釜の温度計の針が、ぷるぷるしながら百度を指そうとしているところだった。
致命的な寝坊ではなかったようだ。シズクは、ほっと胸をなで下ろした。
「良かった……。ねえ、兄さん。私、どれくらい寝てたの?」
「どうだろうな。計っていたわけじゃ訳じゃねぇが……ま、10分ってところか。本当は部屋に運んで、もう少し寝かしてやりたかったんだがよぉ……。すまんな、あと何分かで起こすつもりだったんだ。俺がイキっててもそりゃあ、鳥なき里のこうもりってモンだぜ!」
ソダツはげらげら笑いながら、シズクの背中を力一杯叩いた。その衝撃で、その音で、シズクの寝ぼけた頭は、一気にクリアになる。
「煮沸の温度管理はそこまで難しくないけど、油断大敵だからね!」
煮沸釜はその名の通り、糖化槽から移された麦汁を煮沸する装置だ。
煮沸をすることで、麦汁の殺菌はもちろん、ビールの味や香りを損なう成分を揮発させ、さらには不要なタンパク質を熱で固めて除去する事も出来る。
この工程では、糖化のように緻密な温度操作は必要ない。火力を落とさず、勢いよく煮込むことが何より大切になる。
故障した魔導コンロの代わりに分厚い鋼板の竈が設置され、炉の中では魔法の火がガンガンと燃えさかっていた。
ツクリがその正面で、両手を掲げて真剣な表情で汗を流している。焚き物無くして燃える火が、ツクリの魔法によるものである事は明らかだった。
覗き窓から見える煮沸釜の中では、麦汁の泡立ちが激しさを増していた。立ち上った蒸気は、排気筒へ少しずつ吸い込まれて消える。
熱された銅の余熱と、わずかに漏れ出す蒸気が手を組み、気がつけば醸造所内は、和本の夏と勘違いしてしまうほどに蒸し暑くなっていた。釜の近くにいるシズクとソダツの額にも玉の汗が浮かぶ。
「……それに、お前の事だ。苦労して仕上げたアイツを、その手でぶち込んでやりたかったんだろ?」
ソダツが目線を送る先では、醸造所メンバーの農業班が代わる代わる、地下室に貯蔵してあったホップの麻袋を肩に担いで階段を上ってきていた。
背負い投げのようにして煮沸釜の近くに投げ下ろせば、麻袋は縛り口からぼふりと息を吐く。その度、辺りにはホップ独特の華やかなアロマが香った。
「うんうん! 起きて全部終わってたら、化けて出るところだったよぅ。……ありがとね、兄さん」
「お前がどんだけ根に持つタイプかってこたぁ、俺はよーく知ってんだよ。ガキの頃、親父が作ってくれた唐揚げ一個をパクったこと、十何年責められたことかわかんねぇ」
「むぅー……。だってアレは兄さんが――」
「あー悪ぃ悪ぃ。やぶ蛇だったな!」
誤魔化すようにソダツはがしゃがしゃと、むくれるシズクの黒髪をかき交ぜた。
「ふぅー……。よし。これで全部」
ウェルテの元衛兵長ルーカスが最後の麻袋を下ろし、袖で額の汗を拭った。
「我らが手塩にかけて育てたホップちゃん達も、いよいよ旅立ちの日か。どれ、最後にその顔を拝んで――」
そう言ってルーカスは、麻袋の中に込められたホップを両手に掬って目の前へ。瞬時に顔を引きつらせ、素っ頓狂な声を上げた。
「な、なんだこれはぁああぁああ!!」
硬派なルーカスの、誰も聞いたことがない裏声。醸造所中の視線が一瞬にして集まった。
当のルーカスは、顎が抜けそうなくらいにぱっくりと縦に口を開き、唖然としている。
「何事じゃ!? ……なんじゃ、ルーカスか。突然変な声を出しおって、火を扱う妹君の手元が狂ったらどうするつもりじゃ!」
駆けつけたドリンが、ルーカスを窘めた。これはこれで、妙な光景ではあるのだが……。
「これが叫ばずにいられるかぁああ! 見るがいい、悪神! 我らの育てたホップちゃん達のなれの果てを――」
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