Ⅲ.醸せ、異世界ビール

39.目覚めよ大麦

 季節は進み、秋の入り口。


 刈り取りを終えた大麦畑には豊かな堆肥がすき込まれ、人と土壌生物が手を組む土作りの真っ最中。日に日に柔らかくなっていくチョコレート色の土壌は、来るべき播種の時を待ちわびているかのようだ。


 一時は四メートルの支柱を追い越し、こぶし大の瑞々しい葉が何層もの緑の壁を形作っていたホップ園。蔓を切断して収穫する方法を採用したため、一見すると元の殺風景だが、土の下では、宿根が来年の芽吹きに向けて力を蓄えている。

 一年目から豊作となった親指大の立派な毬花は、麦汁の海で泳ぐ時を心待ちにしていることだろう。


 醸造所の敷地を南北に流れる川のほとりでは、ツクリが主導して制作された真新しい水車が、流れる水の力を借りて機嫌良く回転をしていた。

 水車小屋の中で朽ちかけていた、麦芽を粉砕するためのミルも修復され、準備は万端。水車が仕事を待つ様は、腕まくりをして肩を回す昔気質の職人のようで頼もしい。


  ▽


「みなさーん! 今から、ビール造りを始めまーす!!」


「「「うぉおおぉおお!!」」」


 そんな水車小屋の前には、シズク達はもちろん、ルーカスとエルミナをはじめとするウェルテからの農業班、建設班の二十名も勢揃い。


 シズクのかけ声に呼応して、戦場の鬨の声かと勘違いしてしまうほどに、威勢の良い声が上がっていた。


「いよいよじゃの、シズク。まずは、何から始めるのじゃ?」


 群衆の一番前に立つドリンは、新しい体験への期待に目を輝かせている。


「ビール造りの第一工程は……『製麦』だよ!」

「はえ? 何を惚けた事をのたまっておるのじゃ、シズク。大麦はもう三ヶ月も前に収穫を終えたじゃろう。脱穀もとうに済ませておる」


 ドリンは美しい銀髪をかきむしりながら、あきれ顔で言い放った。


「惚けたって……言い方酷くない!? あのね、ドリン。『製麦』はね、麦を栽培することじゃないの。ビール造りでの『製麦』は、麦を発芽させることを指すんだよ」

「発芽をさせる、とな!? やはり惚けておるではないか! 兄殿に習ったが、種子の発芽は、条件が揃わねばならんはずじゃ。そう簡単にいくものではあるまい」

「そうだねー。智球だと、一度冷蔵庫で冷やしてから温めて……それから麦を水に漬けて、ゆっくり芽を出させるよ」

「相変わらず大麦は地下室の中。準備不足ではないか」

「ふっふーん。忘れたの、ドリン? 私達には、秘密兵器がいるんだよ!」

「秘密兵器……じゃと?」


 人差し指を突き立て、自信満々で言い放つシズク。その真正面では、ドリンがはてなと首を傾げていた。


「と、いうわけで……。ソダツ兄さん、お願いね!」

「なるほどのぅ。兄殿が秘密兵器というわけか」

「おぉよ! 俺のスキル『発芽』の出番ってわけだぜ!」


 水車小屋の前の空き地には、竹を組んで架台を支えに、腰の高さに据え付けられた大きな平型の網ザルが並ぶ。


 ソダツは、あるふぁか車の幌の中から二俵の麦を取り出して網ザルの上にあけ、重ならないように均らす。それが済むと、腕まくりをして満足そうに大きく頷いた。


「……ああ。始めるぜ、シズク。止めるタイミングは任せるぞ!」


 両手を前に突き出して、ゆっくりと目を閉じるソダツ。第二スキル『発芽』の発動だ。


 一同の注目を集める網ざるの上では、大麦の実が微かに揺れ始めた。かと思うと、すぐに大麦からひょろりひょろりと根が伸び始めた。


 数本の根が二センチほどに伸び、固い殻を割った芽の先端が、ほんのわずかに見え始め――


「……すとっぷ! すとーっぷ!!」


 腰をかがめ、大麦の動きを凝視していたシズクがすかさず手を上げ、大声でスキルの停止を呼びかけた。


「よし……っと。お、さすがは俺の妹だぜ。いい頃合いじゃねぇか!」

「兄殿も、見事なスキル捌きじゃわい。……じゃが、本当によいのかえ? 地下室で気持ちよく眠っておった種子を、無理矢理叩き起こすなど……。その、少し気の毒ではないか」


 肩落とすドリンの弱々しい声を聞いた農業班は、揃って腕を組み大きく頷いていた。地下に麦袋を運び込む力仕事に率先して取り組んだルーカスなど、首が千切んばかりである。


 その様子を見たソダツの顔は、喜びに綻んだ。


「……気持ちはよーく分かるぜ。農家ってのは、どうしても植物に情が移っちまうもんさ。だが、どんな作物も行き着く先は誰かの腹か土の中。美味いビールに化けて人の笑顔を生むってんなんら、こいつらにとってそう悪い話でもねぇだろ?」

「それは、そうじゃが……」

「はっは! 植物は喋んねぇから、こればっかは想像するしかねぇが。それによ、ビールに造りに使う分まで種蒔きに回してちゃあ、農地がどんだけあっても足りねぇって事情もある。だったらその命、ありがたく頂戴しようってな!」

「うむ、うむ。心得たぞ、兄殿。これもまた一つの共生の姿なのじゃな」

「いいじゃねぇか、神さん! やっぱりあんた、農家として見込みがあるぜ!」

「くっく。そうかえ? 今の儂には、最高の褒め言葉じゃ!」


 上機嫌に笑いながら、ソダツは女神の背中をバシバシと遠慮無く叩いている。ドリンもまた、満更でもない微笑みを浮かべていた。


「……ところで、シズクや。其方、『製麦』とは麦を発芽させること、と申しておったはずじゃ。これでは芽を出したと言うよりは、根を出しただけではないかえ?」


 ドリンは、両手を合わせて器を作り、網ザルの上から麦をすくい取った。


 どの麦の実からも、二センチほどの白く弱々しい根が数本出ているのみ。芽も見えはするが、淡い黄緑が、わずかに顔を覗かせている程度だ。


「これ位がちょうどいいんだよ。麦の芽をビール造りに使うわけじゃないからね」

「……んん? 言っておる意味がよく分からんが」


 自信満々に親指を立てるシズクの正面で、ドリンは、眉間にしわを寄せていた。

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