40.顔色を変えて

「うん。ビール酵母が大麦の作った糖を食べて、しゅわしゅわの炭酸とアルコールを作るっていう話は、前にしたよね?」

「もちろん、覚えておるとも。お主とともに見えぬ世界に思いを馳せ、神秘を感じたものじゃわい」

「だけどね、ドリン。ビール酵母は、麦の種が持っているデンプンをそのままでは分解出来ないんだよ」

「……ほう? そこに『製麦』の真の目的があると」

「そう。麦が発芽する時に作る酵素が、デンプンを分解するの。その酵素を麦自身に準備してもらうのが、製麦の狙いなんだよ!」

「そうやって、植物は芽や根を伸ばすエネルギーを作るのさ。もっと詳しく言やぁ、糊粉層が――」


 シズクの肩口から、ソダツがぬっと顔を出して語り始める。


「ま、待つのじゃ! ……話は改めて聞くとも。故、今はその辺りにしておいておくれ、兄殿」

「そうか? そいつぁ残念だぜ」


 すかさずドリンは背伸びし、ソダツの肩に手を乗せて、ふるふると首を振った。


 見れば、農業班はほっと胸をなで下ろしている。この数ヶ月で、随分とソダツの扱いにも慣れたらしい。


「本格的に成長が始まると、デンプンを消費しちゃうでしょ?」

「それゆえ早めに止め、ビール酵母が食らう糖を残すというわけじゃな」

「完璧だよ! ドリンっ!」


 シズクは指をはじき、爽快な音を鳴らす。その向かいでは、ドリンが自慢げに胸を張っていた。


「……しかしのぉ。智球人はよく、このような手法を思いついたものじゃ」

「誰が見つけたか分からないけど、不思議だよねー。一万年も前から繰り返されてるんだって。……だよね、ソダツ兄さん?」

「お、おぅよ! その程度の知識、ドイチに三年もいたら誰でも覚えるぜ!」

「兄殿。知らぬ事は、何も恥じるべき事ではないぞ? 学ぼうとするその姿勢が大切なのじゃ」

「うわわ……ドリン様、神様みたい」

「神じゃが?」

「そうだった? 今の今まで忘れてたよ」

「むぅー……」


 拗ねた子どものように口を尖らせ、ドリンは同じ身長のツクリの肩をぽかりぽかりと叩いていた。


「いつまでもじゃれてなーいの!」


 パンと手を打ち、シズクは二人の間に割り入った。


「……と、いうわけで。糖が尽きないように、麦の活動を止めます!」

「ほっほう。次はどのような奇跡をおこすのじゃ?」

「奇跡って神様に言われちゃうと、ハードル上がるなぁ……意外と物理だからねぇ。今度はツクリ! 出番だよ!」

「はいはーい! いつでもいいよ!」

「それじゃあ皆、熱くなるから麦芽から離れておいてね」


 身振りを交えてシズクは、音もなく成長を続ける麦が横たわる網ザル周辺から人払いをした。


「それじゃあツクリ、いっちゃって!」

「りょーかい!!」


『旅は一服、祭りは此方。戯れの舞、この地で踊れ――……【辻風】!』


 両手を網ザルに突き出したツクリが詠唱を終えると、彼女の掌から柔らかな風が、麦芽の一粒一粒を撫でるように吹き出した。


 風下に手を差し伸べ、風量を確認したシズクは小さく頷く。そして、ツクリの両肩に手を載せ目を閉じた――


 普段はおしゃべりな美少女姉妹が口を真一文字に結んでいる様は不気味……否、神秘的な光景だ。


 一同はただ息を呑み、その様子を見守っていた。


「……――」


 無言の時間に堪えかねたドリンが、網ザルの上にそっと手をかざした。張り詰めていた表情は、すぐに安らぎで綻ぶ。


 やがて風に乗って芳醇な香りが辺り一帯を包んだ。


「なるほどのぅ……。シズクの『温度操作』のスキルを使って妹君の魔法の風を温風に代え、麦芽を炙っておるのじゃな」

「しかも、ただの風じゃねぇぜ、こいつぁよ。いわば、小さなつむじ風だ。一粒一粒の麦芽に纏わりついて、全体をまんべんなく焦がしてやがる」


 一粒の麦をつまんで持ち上げたソダツは、まんべんなく日焼けしたその様子にご満悦のようだ。


「よーし……っ! もういいよ、ツクリ」

「ふぅー……。緊張したけど上手くいったね、シズ姉。練習しておいて良かったぁ」


 ツクリは安堵のため息を吐き、額に浮かんだ玉の汗を袖口でぐっと拭った。


「高温で煎ることで、麦芽は生長を完全に止めたということか……」


 ドリンは姿勢を正し、営みを止めた麦芽に、心よりの感謝を込めて頭を小さく下げた。これが種子にとっての死である事を、瞬時に理解したのだ。


 あの傍若無人な駄女神ドリンの行動とは思えない。そんな女神の姿に、自然と一同は倣っていた。


「これが、『焙燥』。麦の成長を止めて、酵素は生かす。この麦芽の色が、最終的なビールの色と近くなるの」


 網ザルの上の麦芽は、全くムラなく一様に黄金色へと顔色を変えていた。昼下がりの陽光に煌めくそれは、さながら大粒の砂金のようだ。


「色……か。ならよぉ、シズク。黒ビールは、もっと高温で焙燥させて造んのか?」

「今の風は80℃にしたけど、黒ビールだと120℃とか……もっと高い温度で、真っ黒になるまで焙燥したものを使うよ。香りと色をつけるために、適量混ぜるの」

「全部じゃねぇのか!?」

「あまり高温で炙ると、肝心の酵素まで失活しちゃう。だから、今作ったような『ベースモルト』と混ぜて使うんだよ」

「なるほどな。糖の生産はあくまで『ベースモルト』頼みってワケか。ビール醸造、奥が深ぇぜ」

「野生酵母で造るのビールには、苦みはあまりマッチしないんだ。だから今回は、浅く煎った淡色の麦芽だけで仕込むよ」

「『焙燥』が終わったら、次はいよいよ水車の出番だね。ミル、うまく動くかな。緊張してきたぁー……」


 粗熱が取れたザルの上の麦芽を、上の空といった様子で元の俵へ戻そうとするツクリ。それを見たシズクは、慌てて手を突き出して制止した。


「待って待ってツクリ! そのまま粉砕しちゃダメ!」

「……えぇっ? どうして!? 『焙燥』終わったんでしょ?」

「麦の芽と根が雑味になっちゃうの。だから――」

「まさか……取るの?」


 驚きに、ツクリはあんぐりと口を開ける。


「そのまさかです! 美味しいビールは、ひと手間の積み重ねなんだよ」

「い、いくら何でも嘘だよね、シズ姉!? 根っこなんて、一粒からも二本も三本も生えてきてるんだよ!? 全部取るなんて……一生かかっちゃう!」

「あーあー……。儂は少し、ホップ園でも見回ってこようかの」


 途方もない作業を想像したのだろう。じわじわ後退りしていったドリンは、ついにくるりと踵を返した。


「何ふざけた事言ってやがるんだぁ、神さん! ホップ園はもう、もぬけの殻だぜ?」

「……やはり変わっておらんな、悪神」

「うぬぬ……! お主らというヤツは! 儂をなんだと思っておるのじゃ!」

「見込みのある農家」「大馬鹿者」

「ぐぬぅうう!!」


 ホップ園へと続く道は、先回りしていたソダツとルーカスによって既に封鎖されている。


「大丈夫だよツクリ、ドリン。焙燥がしっかりできてるからね。こうやって麦同士をすりあわせれば――」


 振り向けば、シズクが不敵な笑みを浮かべ、指先でいくつかの麦芽をこすり合わせていた。


 力はほとんど入れていないようだが、ザルの編み目を通り取れた根や芽が、パラパラと緑の大地に降り注いでいく。


「ほら、簡単に取れるでしょ?」

「面白そうではないか! ほれほれ、皆で力を合わせようぞ!」

「もう、調子いんだから――」


 ころころ変わるドリンの表情は、新しい遊びを見つけた子どもで面白い。シズク達の口元には、自然と柔らかい笑みが浮かんだ。


 製麦、焙燥、根切り……それら一連の工程を終えた麦芽は、水車小屋に運ばれ、修繕を終えたミルでひき割りに。これにて下準備は完了となる。


 誰かがウェルテの麦打ち唄を歌いはじめた。声の輪が広がれば、途方もない作業さえ楽しく、短いものへと変化していく。

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