35.酵母がない!
ホップ園でのドリンとルーカスの小競り合いから、ひと月が経過した。
燦々と降り注ぐ夏の太陽の下で登熟を終え、幻の黄金の絨毯を敷き詰めた大麦達は、次なるステージへの旅立ちの時を迎えていた。
適期を見極めたソダツたちは、収穫した大麦を急いで乾燥させ、発芽を抑制するため、光の届かない地下室へそれを次々と運び込んでいる。
▽
「うぅぅ……。どうしよ、どうしよぉ……――」
ウェルテ醸造所の誰もが、ビール造りの準備は着々と進んでいると思っていた。そんな中、シズクは一人、書斎の机に突っ伏し、苦悩の呻き声を上げていた。
「ん? どうしたのじゃ、シズク」
日の光を遮る物がない炎天下の収穫は、過酷な労働である。ホップの栽培も正念場を迎え、農業班の疲労の色は日に日に濃くなっていた。
今や農業班のエースとして活躍し、昼寝とは思えないほどに深く眠っていたドリンだが、シズクの苦しみに満ちた声を聞いて飛び起き、慌てて彼女の側に駆け寄った。
「……ごめん、ドリン。起こしちゃったよね? 体、疲れてるのに」
「よい、よいのじゃよ。儂のことなどよりもシズク、変な声を出しておるお主の方が、よほど心配じゃて。かように思い悩むとは、らしくないのぉ」
椅子に腰掛けるシズクの肩口から、ぬっと顔のぞかせるドリン。浅黒く日焼けした顔に、アクアマリンの瞳と銀髪が生き生きとして輝いている。
「……それは?」
ドリンの目線の先。シズクが突っ伏していた机の上には、茶褐色の液体が入ったガラス瓶が、ずらりと並んでいた。
「兄さんに分けてもらった大麦で、早速麦汁を作ってみたんだよ」
「すまぬ、シズク。麦汁とは何じゃったかの?」
「麦汁はね、ドリン。発芽させた大麦の種を砕いて、お湯と混ぜて小さい糖を抽出した液だよ。甘くて濃ーい液体なんだ」
「ふむ。今収穫しておる大麦は、その麦汁を得るためのもの、というわけじゃな。して、酵母とは? お主の口ぶり、生物のように聞こえるが?」
「ビール酵母は、その糖を分解する微生物。その活動が、しゅわしゅわの炭酸ガスと、アルコールを生み出すんだよ」
「ほぉ……まるで見えんというのに、あっぱれな仕事をしおるのじゃな」
シズクは瓶を一つ持ち上げ、白く輝くの太陽の光に透かしてドリンに見せた。茶褐色の液体の中にわずかに気泡は見えるが、炭酸、というにはほど遠い。
「砂糖水で培養してきた酵母を入れて、私の『微生物活性化』を試してみたんだけど……発酵が途中で止まっちゃうの。どれも、ビール造りには向いていないみたい」
「酵母無くして、びぃるはびぃるたり得ん……というわけじゃな」
「そ。麦汁はどこまでいっても甘い汁のまま。ノンアルコール」
シズクは、瓶の中のとろりとした液体を小指で掬い、舌の上にのせた。その甘さは、覚悟していても思わず目を閉じてしまう程である。
「それは困るのぉ。酵母、酵母……――そうじゃ! 酵母と言えば確かお主、カイエンを救った折には、星の数ほどあるといっておったではないか!?」
「そうなんだけど……ビール造りに使える酵母に限定すると話は別だよ。麦芽糖、マルトースを機嫌良く食べてくれるかとか、ホップの殺菌力に耐えられるかとか……活動適温とか、色々条件を満たさないといけなくて」
「奥が深いのじゃなぁ。目に見えんものを探し出すなど、至難ではないか。神業とも言えるほどじゃわい」
「もちろん、闇雲にやってたんじゃなくてね、当たりは付けてたんだよ。地下室に残ってた樽に、煮沸釜や排気筒の内側でしょー。他には、貯蔵庫の床に落ちてたホップや麦芽のくずなんかも。いくつか候補が見つかったから、安心してたんだけど……」
「ふむ。適合しなかったと言うわけじゃな」
「ぜーんぶだめ! はぁ……。ウェルテ醸造所のビール酵母、必ずどこかで生きているとはずなんだけどなぁ――」
「シズ姉ー、シズ姉ぇぇえ!! ……急いで! 急いでこっち来てー!!」
シズクが再び頭を抱えたその時、ツクリの叫声が醸造所中に響き渡った。
「ツクリっ!?」
兄妹の中で、唯一クールな性格のツクリが声を張り上げるとは珍しい。
シズクは驚きと心配に一瞬固まるが、すぐに机に手を突き、腰掛けていた椅子をひっくり返しながら、勢いよく立ち上がった。
上手くいっていない時は、悪いことが重なってしまうのではないかと不安になってしまう。
「どこ!? どこに居るの、ツクリ!! 無事なのッ!?」
慌ててシズクは書斎を飛び出し、吹き抜け回廊の手すりを掴んで身を乗り出した。
ツクリが今朝、煮沸釜の排気筒を修理すると言っていた事を思い出す。長いはしごを担ぐ妹の姿が頭を過り、シズクの中で不安が増大していく。
「あ! ごめんごめん。驚かせてごめーん! 大丈夫! ボクは大丈夫だよー、シズ姉!!」
声色から、シズクがパニック状態にある事を悟ったのだろう。どこからか聞こえるツクリの声は、すっかり普段の調子を取り戻していた。
「ツクリ。良かった、良かったよぅ……」
どうやら事故ではなさそうだ。安心に、シズクはほっと胸をなで下ろす。
落ち着きを取り戻したシズクは、煮沸釜の排気筒を根元から、高天井を貫く部分まで目で辿って確認してみた。しかし、ツクリの姿は見当たらない。
「ほよよ。どこにもいない?」
「そこじゃないよー! ……上、ボクは上にいるよ。シズ姉!!」
「上っ!?」「上じゃと??」
シズクとドリンは素っ頓狂な声を上げ、驚きに目を見開いた。無理もない。ウェルテ醸造所は二階建てであり、今二人が立っている場所こそが最上階なのだから。
しかし、注意を向ければツクリの声は、確かに上から降ってきている。シズク達は戸惑いながらも、声のする方向へと進んだ。
「こっちこっちー! そこに、はしごがあるでしょ? 登ってきてー!」
二人は、醸造所最奥の細い回廊へと導かれていた。そこには部屋もなく、普段は誰も立ち入らない場所である。
よくよく見れば、巨大な排気筒の陰に隠れて、天井から小さな縄ばしごが下がっていた。
「あった! はしごだ!! ツクリ、この上にいるんだ!」
「そのようじゃの。確かに声が聞こえるわい」
シズクは声を弾ませ、ドリンと顔を見合わせた。
「早く上ってきてー。屋根裏に、変な部屋があるんだよ」
見上げれば、天井板が何枚か外されており、人一人ギリギリ通れるくらいの穴がぽっかり空いている。シズクは決意固め、ゆらゆら揺れる縄ばしごを手に掴んだ。
五メートルはあるだろうか。屋根裏部屋への道のりは長く、行き着く先は影で何も見えない。
まず一歩。ロープの軋む音が恐怖心を煽ると、縄ばしごを掴む手に力がこもった。
小さな、小さな冒険だ。けれど間違いなく、シズクにとってはじめての冒険である。
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