25.銅の三きょうだい
シズク、ツクリ、ドリンの三人は一階の最奥、高天井となっている区画へと戻ってきた。
信頼できる妹ツクリに手を引かれ、かつての不安を忘れたシズクは新たな冒険に心躍らせている。
「凄い……」
導かれた先には、容量20000リットルはあると思われる巨大な円筒形の糖化槽が、機械仕掛けの巨兵のように堂々と立っていた。
まばらに降り注ぐ光の柱が照らす銅のくすみが、過ぎ去った長い月日を物語っているようだ。
ドーム状の蓋からは、高天井を貫く排気筒が伸びており、その全貌を捉えようとすれば、首を思い切り後ろに反らさなければならない。
その外周を囲むのなら、大人が15人以上手をつなぐ必要があるだろう。
さらにその両脇には、似た形状の煮沸釜が見えた。幼き日の三兄妹のように、仲良く手をつないで並んでいる。
醸造所の入り口からは真正面の位置、本来なら見落としようがない存在。
恐怖はこうも視野を狭くしてしまうのか。
醸造所のシンボルであり心臓部たる釜を、ビールマイスターの自分が見落としていたことに、シズクは驚きを隠せなかった。
「じゃじゃーん! 見せたかったものは、これだよ、シズ姉!」
「『じゃじゃーん!』……ってツクリ。お父さんの古いパソコンじゃないんだからね。……これは、管、だね?」
意外なことに、ツクリが指さしているのは、巨大な糖化槽本体ではなく。床下から生えてそれにつながる、両手で輪を作ったくらいの太さの、金属の筒であった。
「見せたかったものって、こっちなんだ……? 立派な糖化槽とか、煮沸釜じゃなくって?」
糖化槽は、粉砕した麦芽を温水と混ぜて酵素の活動を促し、ビール酵母が利用可能な糖たっぷりの麦汁を得るための装置。
煮沸釜には、麦汁を煮沸することで殺菌、雑味の原因となるタンパク質の除去、さらにはホップの苦みを引き出すといった役割がある。
「うん。ビールマイスターのシズ姉なら、釜の存在にはすぐに気づくと思ったからね。一目りょーぜんだもん」
「う、ウン。モチロンダヨー! ヨユーダヨー!!」
「?」
気取られていないのであれば、今更驚いたとは言えない、言わない。先ほどから、シズクの目はふよふよと泳いでいる。
「どうしたのシズ姉! 『微生物活性化』の疲れが出ちゃった……とか?」
「だ、だだ大丈夫! 大丈夫だから続けて、ツクリ!」
胸に手を当て、大きな深呼吸を一つ。シズクは正気を取り戻した!
「分かったけど、無理しないでね。シズ姉、この管何だと思う?」
「糖化槽につながってるから……温水を送る水道、かな? バイメタルの温度計も付いてるし」
麦芽の酵素が働くには、温度が必要である。そのために、糖化槽では麦芽とともに温水を加えて撹拌を行う。
酵素の活動適温はそれぞれ異なるため、繊細な温度管理が、糖化には重要というわけだ。
「正解! さっすがシズ姉。ドリン様なんて、全くかすりもしなかったんだよー。お酒の神様なのにね」
「かっか! 儂は飲む専門じゃからのぅ!」
呆れた目線を送るツクリの前では、大口を開けてドリンが大笑いしていた。
「ドリンはずっとこんな感じだからねー」
シズクは苦笑して続ける。
「でもさ、ツクリ? ……ウェルテの文明レベルでは、水道とかポンプがあるなんて、とても考えられないよ」
「疑うんだったら、試してみる?」
そう言ってツクリは、煮沸タンクに向かう床面に垂直方向のバルブを右にひねって閉じ、T字の継ぎ手で分かれた、水平側にあるバルブを左にひねって開いた。
「はい。これ持っといてね、シズ姉。絶対に離しちゃ駄目だよ。床が水浸しになっちゃうんだから」
「桶……? うん、わかった。離さない」
首を傾げながらも、シズクはくたびれた水桶を両手でしっかりと持ち、蛇口の近くで水の訪れを待ち構える。口端を上げるとツクリは、金属の管に刻まれた文字に手を添え、何やらブツブツと呪文を唱えた。
見慣れない文字が仄青く輝くと同時に、シズクの足下はわずかに振動。水が動く音が聞こえ始めた。
やがて、蛇口からは空気が抜ける音がはっきりと聞こえ、ごぼごぼという音が加速しながら接近。かと思うと、蛇口から勢いよく水が飛び出した。
「わ、わわ! うそ!?」
かなりの流量だ。こぼしてはならないと、シズクが桶が持つ力にも力が入る。
水で七割くらいに満たされた頃、ツクリは一言、呪文を唱える。
呼応するようにきゅっと小さな音がして、吐水はピタリと止まった。
「……どう? ボクの言ったとおりだったでしょ? シズ姉はそうやって、ボクの事をすぐ疑うんだから」
「えへへ。ごめん、ごめんね、ツクリー」
腕を組み、エルフの耳のように唇まで尖らせて、ぷいっとそっぽを向くツクリ。
小さく舌を出し、てへへと苦笑いすると、シズクは桶を床に置き、両手で一掬い。躊躇うことなく、澄んだ水を口に含んだ。
「……うん、美味しい! ここの水は硬水だね。最高の地下水だよ!」
「ボクにも分かったよ! ドイチと似てるなー……って」
「そう? 私はドイチより、ベルジーの水に近いって感じたけどなぁ」
そう言ってシズクはもう一口、今度は口の中で水を転がし、ゆっくりと飲み下す。
「やっぱり間違いないよ。ベルジーの水とほとんど同じだ!」
「う、うん……? ボクにはさっぱりだ。やっぱりシズ姉には敵わないよ……」
ツクリも同じように掬って飲んでみるが、目を伏せて首を左右に振るばかりだ。
「得手不得手があるだけだよ。私には木材なんて、どれも同じに見えるんだから」
「ええっ! 樹種はもちろんだけど、産地でも全然違うのに!?」
「それ、そういうこと!」
「なるほどね」
「……それで、ツクリ? ポンプも動力も無いのに、どうして地下水が水道から出るの?」
「うん。ボクもまだ、全部を見たわけじゃないけどさ。この醸造所には、あちこち魔導具が仕組んであるみたいなんだ」
「魔導具!? 何だか異世界っぽい!」
「紛うことなき異世界なんだけどね?」
「……えへへ。まだ実感が湧かなくて」
「無理ないよ。ボクだって、はじめの一年くらいは全然適応できなかったから。ゆっくり慣れていこうよ」
「ありがと、ツクリは優しいね」
シズクは、ツクリとつないだ左手に、ぎゅっと力を込めた。
ほんのりと頬を染めるのは、ツクリの方だ。
「そ、それでさ、シズ姉! このポンプは魔導具の一種。管自体に魔法式が刻まれていて、決まった呪文と魔力に反応して起動するんだ。ほら、ここだよ」
当然のように何も起こらないのだが、深く刻まれた得体の知れない「文字」を撫でながら、シズクはぼんやりと思考を巡らせていた。
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