Ⅱ.ウェルテ醸造所

22.ビールと畑

 異世界の中で、別の異世界へと迷い込んでしまった気分だ。


 酩酊状態の女神ドリンと「時の錠前」が作り上げた奇跡――時を歪める結界――によって隔絶されていた世界へと、一歩踏み出すシズク。同じヴァルハ丘陵の中だというのに、まるで止まったエスカレータ乗った時のように、膝がガクッと崩れてしまう。


 ふらつきながらも、氷解した時の流れの中に体を委ねてみれば、挨拶代わりに軽風が頬を撫でていく。閉じ込められていた千年前の空気はやがて疾風となり、自由を得た喜びを表すように、シズクの黒の長髪に悪戯をして去って行った。


 転移してエルフになった妹、ツクリに手を引かれ、奥山の麓にそびえ立つ老木を登れば、そこからは醸造所遺跡の全景が見渡せた。見渡す限りに広がる敷地の中、所々に残る遺構。かつてこの地でビール醸造に関わった人々の営みを想像せずにはいられない。


 一帯は、奥の山から流れ出る一本の川が長い年月をかけ、緩やかに傾斜する平原を作り上げていた。

 川西側の木々は、日の光を和らげるよう適度に間伐されており、そのあたりには、枯れて色を失った木の柱が整然と並んでいる。麦畑として利用されていたのだろうか。東側の木は皆伐されており、今では広大な土地に、様々な草本が繁茂するばかりだ。


 川の畔には、役割を終えた水車小屋がぽつり。川の流れは速いというのに回転を止めてしまっている水車の姿に、長い時の流れを感じる。


 シズクとツクリが登った木の側には、ウェルテ村の伝統建築様式を踏襲する、大きな建物が建っている。木造骨に乳白色の漆喰壁にスレート葺き、この立派な建造物こそ、醸造所の核心部分に違いない。地上三階にもなるその建物は、実質百年の時を超えた今なお、十分な威容を放ち続けていた。


 内部の様子も気にはなるが、設備が整っていたとて、素材を調達できなければビール造りは始まらない。まずは農地の現状を確認するべきだろう。


 農業と言えば、ドイチで農業マイスターの称号を得たソダツの存在が頼もしい。建築の専門家であるツクリと一旦別れてシズクは、謎の棒が林立する川西のエリアで屈みこみ、何かを探るソダツの許へと向かった。


  ▽


「……ここの畑、何を作ってたんだろ。ねえ、ソダツ兄さん?」


 脇目も振らず、耕作が放棄された畑へと向かったソダツは、冒険用に携行した鉈や鎌を巧みに使いこなし、雑木や下草を払っていた。

 その手際は、若くして農業マイスターの資格を得ただけに見事なものだ。


「こうも雑草が繁茂してやがると、まだ特定はできねぇな……。だが、目星は付いてんだ」

「もう!? 凄い!」

「ヒントはこの棒きれだ。なあシズクよ。これが何だか分かるか?」


 ソダツが指を指す先には、ウェルテを囲んでいた竹のような植物が、等間隔に整然と突き立てられていた。


 樹上から俯瞰していた時から、不思議に思っていた物体だ。間近で見ると背丈が意外と高く、朽ちて黒変した棒が連なっている様はおどろおどろしい。


「何だろーって、思ってた……。やっぱりこれ、ウェルテを守る防獣柵と同じ素材だ。高さは……四メートルってところかな?」

「ま、そんなとこだな」

「うーん……何だろ? 兄さんには、もう分かったの?」

「もちろんだぜ、シズク。お前だって設備を見れば、そこでどんな酒が造られていたかは分かるだろ?」

「概要くらいは? ビール以外は私、あんまり詳しくないんだよ」


 シズクは、小さく舌を出してはにかんだ。


「はっは! 悪ぃ悪ぃ、俺だって似たようなもんだぜ! ……なあ、シズク。俺たち三人には夢があったよな? 三人で素材からビールを造って、親父に飲ませてやるって夢がよぉ」

「私はね、兄さん。今でもその夢、追いかけてるよ」

「……強ぇな。俺だって、その夢を叶える為にドイチに渡った。だからよぉ、ホップと大麦、ビアハーブ全般にはめっぽう詳しいんだぜ。ってわけで、次のヒントは、こいつだ――」


 何やら黒い物体を手のひらに載せたソダツは、それをつまんで真上に引き上げた。朽ちて短く千切れているが、もとはひとつなぎだったのだろう。


「紐……かな? わかった、兄さん! ここはホップ園なんだね! ドイチで何度か見学に行ったよ! 鉄の柱が等間隔に立ってて、水平にワイヤー。いっぱい紐が下がってて、ホップがそれに巻き付いてたよ!」

「やるな、シズク。正解だぜ。ホップはつる性の植物だからよ。紐に巻き付けて上へ上へと誘引し、空を目指させてやる。品種にもよるが、高いところに質のいい毬花が出来ることが多いんだ」

「やった! ……だけど兄さん。ここには、もう――」


 言いながら、シズクは足下に目を落とした。


 長年の耕作放棄により、様々な草が生い茂っており、見覚えのある蔓の姿はどこにも見当たらない。単一作物が我が物顔で居続けられるほど自然の競争は甘くなく、百年の時はあまりにも長いのだ。


「ああ。誰かさんのせいで、一面の草畑だな。……だが、ホップは宿根性。根っこが生きてりゃ、何度でも再生しやがる。これだけの広さだ、探せば生き残りは絶対にいるはずさ。新芽が出てさえいれば、早けりゃ今年の夏に収穫できる」

「そっか。だから兄さん、そうやって地面を這いずり回ってたんだね!」

「はっは! 言い方はアレだがよぉ。ま、違いねぇな!」

「ツクリとドリンは建物の中を調査中だから……。私だけでも手伝うよ、兄さん!」

「おぅ! 助かるぜ! 一人より二人だってな!」

「きゅうううぅうう!」


 一匹で置いて行かれたと思い、寂しかったのだろう。

 老木の木陰で寝っていたカイエンが、甘えた声を上げながらシズクの許へと猛進してきた。カイエンはその勢いのまま、大地の草をかき分け何かを探すシズクの頬をペロリとなめた。


「あはっ! くすぐったいよ、カイエン!」

「きゅぅう……。きゅ!」

「ごめんごめん。寂しかったんだね。……そうだ! カイエンもホップ探し、手伝ってよ!」

「きゅ!」


 まるで言葉を理解したかのようにカイエンは、シズクの提案にぶんぶんと長い首を大きく振って応えた。


「おお、そいつぁ助かるぜ。智球のアルパカはグルメだが、エーテリアルのあるふぁかは、草なら何でもござれだからな。……なぁ、カイエンよ。くれぐれもホップの芽を食わないように頼むぜ。この季節だと、まだ新芽の段階だ。俺ほどの上級者でも、なかなか見分けが付かない――」

「きゅきゅ!!」


 ソダツが言い終わらないうちに、カイエンは甲高い声を上げ、スキップするようにその場で何度も飛び跳ねた。


「どうしたの、カイエン? そこに何かあるの??」

「おいおい、まさか……――」


 手にしていた鎌を腰袋に戻したソダツは、カイエンが草を食んでいた場所に突っ伏して目を凝らす。


「おお……こいつぁ! でかしたぞ、カイエン! こっちに来てみろよ、シズク! こいつがホップの新芽だぜ!」

「凄いよ、カイエン! よく知ってたね」


 そう言って首を撫でてやると、カイエンは嬉しそうに目を細めて喜び、お返しにと、もふもふの頭をシズクの頬にこすりつけた。


「カイエンの先祖もここのホップや麦を食って、胃で極上のビールを造って楽しんでたのかも知れねぇな」

「異世界ロマンだねー! 幸せな光景が目に浮かぶよ」

「ご自慢の妄想力の発動か? ……おっ! 来てみろよ、シズク! このあたり、生きてる根が多そうだぜ!」


 その一角で身を寄せ合い、いくつの冬を耐えたのだろうか。


 枯れ枝のようにパリパリになった蔓の根元からは、小さくとも瑞々しい、力の塊たる緑青色の新芽が、ぴょこんぴょこんと顔を覗かせていた。

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