4.涸れた神の水

「嘘……でしょ!? ドリン、ネクタリアはお酒の国って言ってたじゃない! それなのにお酒が無いなんて……意味がわからないよ! 詐欺だよ! ペテンだよ!」


 ドリンの衝撃的な告白に驚き、疲れなど忘れてシズクは立ち上がった。

 木々の間を駆け抜ける夕風に混じりと混ざり合い、彼女の怒りと困惑が森全体に響き渡る。


「……静かにするのじゃ、シズク。まだ追っ手がおるやもしれん」

「いやだよ、もういやだよぅ……。お酒がない上に、生卵を投げつけられる悪神と一緒だなんて。どこが『其方の異世界生活は成功したも同然』なの? 私の異世界転移には、夢も希望もないんだ」


 シズクの目尻から、茜色の光の粒がぽろりぽろりとこぼれ落ちていく。


「落ち着いて聞いておくれ、シズク。儂は何も、酒がまるで存在しないとは言っておらんではないか。試しに……そうじゃな――」


 右腕を持ち上げ、何やらぶつぶつとつぶやくドリン。

 呼応するように、きつつきが空けたであろう木の穴奥から淡い琥珀色の液体が飛び出した。塊を成す液体は、ドリンの指先が導くままふわりと舞い、やがてシズクの手元へとたどり着く。


 夕暮れ時の木漏れ日を受け、それはささやかに煌めいていた。


「お主にプレゼントじゃ。ちぃとそいつを飲んでみるがよい」

「……樹液、だよね? こういう自然の物は危ないって聞いたことがあるけど、飲んじゃって大丈夫? おなか壊さない?」

「心配は無用だとも。お主の体は転移の際、エーテリアル仕様に再構築してあるのじゃ。体も免疫も、数段強くなっておる」


 シズクは転移してからは動きっぱなしで、何も口にしていない。だまされ続けたドリンの言葉ゆえ不安はあるが、意識を向ければ腹は減っているし、喉の渇きは言わずもがなだ。


 自暴自棄な気持ちが、とんと背中を押した。シズクは両手を合わせて作った器から、樹液を一気に飲み干す。


 喉に触れた液体が口中に懐かしい香りを広げると、シズクの瞳には輝きが戻った。


「――……これ、お酒だ。樹皮の香りが若いし、甘さも苦みも素朴だけど……悪く、ないかも」

「さすがじゃの。ネクタリアではそいつを木酒と呼んでおって、天然の何じゃ……ほれ、あれじゃよ」

「酵母! そっか、穴に溜まった雨水に、樹液とか木の実の糖が混ざって……。それが天然の酵母の力で発酵して、アルコールが出来たんだ」

「そうじゃ! 儂はそれが言いたかったのじゃ!」

「ほんとかなぁ?」


 ほどよい酒精は緊張感を和らげる。シズクはくすりと笑った。


「かっか! どぉれ、儂も一献、ご相伴預かろうか!」


 ドリンは、別の穴から色味の違う液体を引き出し、自らの口へ誘導。口の中で少し転がして、ぐいっと飲み下した。


「……うむ。上々じゃ」

「あ! ドリンだけずるい! 私も! 私にもちょうだい!」

「よいとも、よいとも」


 肴は無いが、さながら小さな宴会だ。次々と木の穴から飛び出す木酒は、ドリンの魔法で舞うようにして銘々の口の中へと運ばれていく。


  ▽


 十は飲んだだろうか。


 ほんのり頬を赤らめた二人は、いつしか背中を合わせ、大地に足を投げ出していた。


「……のう、シズクや。この国の酒も、悪くはないじゃろう?」

「うん。天然の物だから当たり外れはあるけどね。だけど、ドリン? どうしてお酒が一滴も無いなんて言ったの? こんなに素敵な木酒が、いつでもタダで飲み放題なんて、最高じゃない?」

「残念なことに、飲み放題……とはいかんのじゃよ。木酒とは、偶然の産物。神たる儂とて、自由に得ることは叶わぬ」

「え!? こんなに沢山あるのに?」

「此度は運が良かった。ネクタリアがお主を歓迎しておるのやも知れぬな」

「また調子いいこと言ってー。もう騙されないんだからね!」


 シズクは頬を膨らませる。


「嘘ではないとも」

「……ま、いっか。その方が楽しいから、そういうことにしておくよ!」

「お前さんの前向きは、儂も見習いたいものじゃ」


 肩を揺らしてけらけらと、ドリンは上機嫌だ。


「偶然の産物……かぁ。皆が好きなら、造っちゃえばいいのにね。例えば、蜂蜜のお酒、ミードとかなら、智球では一万四千年も前から造られているし。木酒に似たものでよければ、少しの知識と技術で簡単に――」

「それじゃ! それなのじゃ! 儂が欲した物は、まさしくそれなのじゃ!」


 勢いよく立ち上がり、ぎゅっと拳を握りしめるドリン。アクアマリンの瞳が、ギラギラと輝いていた。


「わわっ! いきなり本題だ!?」


 支えを失って尻餅をついたシズクは、ズボンについた木の葉を払いながら立ち上がる。


「いやな予感しかしないけど、聞かせて?」

「……怒らんかえ?」

「それは内容次第としか」

「ぐぬぬ……。そう、ほんの出来心だったのじゃ! 旨い酒があれば、誰だって独占したくなる……――ひえっ!!」


 「独占」という言葉に脊髄反射したようだ。電光石火のシズクの拳が再び、傍らの樹木に突き刺さる。


 先ほどより籠められた怒りが大きいことは明白。木は大きく揺れ、冬を生き延びた葉をとうとう絶滅させた。


「……先祖代々の恨み、悪神呼ばわり。存在しないお酒に、独占……ね。だんだん話が見えてきたよ!」

「ほっほ。シズクはさながら名探偵じゃの」

「茶化さないで! つまり、ドリンは千年前、この国のお酒を全部取り上げちゃったってことだよね?」

「お主とて同じではないか! 読んだ記憶によればお主、ちょこれーと菓子を親兄妹に隠れて一人で全部食べてしまったことがあったはずじゃ!」

「……いやいや。さすがにそれとこれでは、次元が違いすぎるでしょ」

「そうかえ?」

「そうだよ! 百人中百人がそう答えるよ!」

「ぐぬぬ……。じゃが! 旨い酒と気安い友がおったなら、知らぬ間に時が過ぎ、酒も尽きるというものでは……ない、か……」


 ただでさえ小さいドリンの体が、語気と一緒にさらに萎んでいく。


「それはわかるよ、わかるんだけど……。物事には限度があるじゃない?」

「当時は夢中での……。気がついたときには、ネクタリア中の酒が涸れておった。規模によらず、出来たそばから根こそぎ吸い上げていったからのぅ……」

「お酒造りには時間も素材も、労力だっていっぱいかかるのに……完成したらすぐに神様が盗みに来るなんて。誰も造らなくなって当然だよ!」

「察しの通りじゃ。もはや人造の酒は皆無。この国の酒は、稀に手に入る先ほどの木酒か、米を噛んで戻し、発酵させる口噛ノ酒。あとは……『あるふぁか』という幻獣の胃の中で醸造される物のみじゃ。儂とて、かように非効率な狩りはせん!」

「お酒を集めること、狩りって言っちゃったよ! 反省の色なんて全く見えないよ! 紛うことなき駄女神ムーブだよ!!」

「しまっ……――! ゆ、許しておくれ! かつての口癖が出てしもうただけなのじゃ」

「それが問題だって言ってるの!」


 すっかり縮んだドリンの小さな額を、シズクは人差し指でぐいっと押した。


「他には……? 隠し事、まだあるんでしょ」


 指をぱきぱきと鳴らすシズク。依然、どす黒いオーラを立ち上らせている。

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