字句の海に沈む

 行きつけのカフェで文庫本を開きながらブレンドコーヒーを啜っていた夢月むづきに、店員が話しかけてきた。

「おい」

店員が客に向けるとは思えない言葉遣いである。

「なに?」

こちらも客が店員にむけるとは思えない視線である。

「今日はなんかあんの?随分遅くまでいるじゃん」

カウンター席の向こうでコップをふきながらそう尋ねた彼は、高校一年生の夢月のクラスメイト、熊谷くまがいさとるという名の少年。基本無口だが、夢月が彼のバイトするカフェに訪れるようになってからはぽつりぽつりと会話するようになった。

「今日は塾ないからねー」

「じゃあなんで来たんだよ」

にひひ、と嬉しそうに笑った夢月に悟が辛辣な声で返す。店長が「お客様にそんなこと言うんじゃない」と肩を小突いた。

 夢月は毎週土曜日のお昼ごろ、午後からの塾が始まる前の30分だけコーヒーを飲む。それ以外何も買わないから、初めは店員スマイルだった悟も最近は渋い顔を隠さずに見せるようになってきた。

「お店の売り上げに貢献しようかなーって。いつも買えって言うし」

いたずらっぽくそう笑った彼女の机の上には食べ終わった後のカフェの器がある。

「おい、誤解されるような言い方するなよ」

「熊谷お前そんなこと言ってたのか」

「言ってないっすよ。おまえいつもコーヒーしか頼まねぇな、くらいしか」

「言ってんじゃねぇか」

店長の鬼面に悟はわざとらしく顔を背けた。

 夢月が通い始めたころの店長のイメージは人の好さそうな上品なおじさんだったが、常連になっていくにつれ、客が夢月だけの時はかなり打ち解けて話すようになった。今では悟と祖父と孫のようなやり取りを見せている。

 店長と悟の掛け合いを楽しそうに眺めていた夢月にふと目を向けた店長は、そうだ、と呟いて悟のほうを見た。

「熊谷、もう上がっていいぞ。せっかくだからお嬢ちゃん送ってあげなさい」

「え、でも…」

悟は壁にかかったやけに古めかしい時計を見ながら、困ったように眉根を寄せた。彼のシフトが終わるまでまだ30分ある。

雇い主わたしが言ってるんだ。給料はちゃんと出すから、大人しく帰れ」

「…はいはい、わかりましたよ」

肩をあげてわかりやすくため息を吐いた悟は、くるりと振り返って夢月の目を見た。

「じゃあ安沼やすぬまさんちょっと待ってて。着替えてくるから」

「あ、うん」

奥のスタッフルーム入っていった悟の背中を見送り、夢月はコーヒーを一気に流し込んだ。

「じゃあ、お会計で」

店長を見る。彼は優しい笑みを浮かべて、レジへと移動した。

「ホイップチョコレートパフェとブレンドコーヒーで合計1220円になります」

夢月は小さく頷き、くたびれた水色の財布から千円札を一枚と、小銭をぴったり取り出した。

「美味しかったです。いつもありがとう」

「こちらこそ、いつもありがとうねぇ」

目尻に寄るシワがその優しい笑顔に拍車をかける。やはり彼は愛されるひとの顔をしている。

「安沼さん」

店の奥からした声に顔を向ける。若干肩で息をしながら、よれたシャツに黒いパーカーを片腕だけ通した状態で飛び出してきた悟が駆けてくる。

「待った?」

問いつつ、もう片方の腕をパーカーに通す。

「ううん。今お会計終わったとこ。それじゃあ、店長さん、さようなら」

「はい、さよならぁ。また来てね」

はい!と夢月は満面の笑みで答えた。


「最近じわじわ暑くなってきたね」

「そうだな」

日が沈むのもめっきり遅くなった。まだ明るい空の下、二人並んで駅に向かう。

「なぁ、あんたって、本読むの好きなん?」

「好きだよー」

カフェで読んでる小難しい文庫本はちょっと背伸びしているけど。

「ふーん。文芸部?」

「え、違う。てかうちの学校、文芸部とかあるの」

「あるよ。詳しくは知らないけど、一般書庫で活動してるっていうポスター見たことある」

悟はくるっと顔を夢月に向けて、「入らんの?」と首を傾げた。彼はたまにこうして目をまっすぐ見て話してくるから、すべてを見透かされているような若干こっ恥ずかしい気分になる。

「んー…なんか私なんかが行くには敷居が高いっていうか、おまえみたいな半端モンはいらないよっ!とか言われそうで…」

「文芸部にどんなイメージ持ってんだよ…あ、他に何か部活入ってんの?」

夢月の学校はいくつでも兼部できるシステムだが、大会とかに出場しないといけない活気のある運動部や吹奏楽部等々は部単位で兼部が禁止されている。悟はその可能性を鑑みたのだろう。

 しかし夢月は首を横に振る。

「入ってないよ。色々悩んで結局決めきれなくてさ…熊谷くんは?」

「俺も入ってない。バイトあるし」

「…そっか」

夢月、そして悟の通う高校は原則バイト禁止である。それでも悟がバイトをしているということは、特別な事情で学校から許可されているということだろう。

 夢月はここ最近でぐっと悟との距離が近づいたと思っている。ただ、家庭の問題に踏み込めるほどの関係性は築けていない。

 なんだか心がもやつくのを感じながら、誤魔化すようにたははーっと笑った。

「私けっこう暇だし、文芸部、見てみようかなぁ」

「いいじゃん」

悟は歩道のタイルを眺めながら、抑揚のない声でそう返した。


 しばしの沈黙がふたりを包む。通り過ぎていく人々の表情のない顔がやけに目に付いた。

 ぱりっと静寂を破り、夢月は悟に問いかける。

「熊谷くんは?本とか好き?」

「…好き、ではあるけど苦手だな」

ぼそりと返した。夢月は静かに眉をひそめる。

「え、好きなのに苦手?」

「うん」

小さく頷いた悟は顔をこちらに向けて、無表情のまま話し出した。

「本っていうか、物語自体に、なんていうか…引っ張られやすいんだよね。だから話の内容には熱中するし楽しめるんだけど、別の人生生きてるみたいで疲れる」

「…へえ、確かにそれは疲れそう」

夢月は「物語は物語」と心の中でしっかり線を引いているので、良くも悪くもその世界観に入り込むことがあまりない。ゆえにその話に熱中したり、いわゆる推しをつくったりすることもなかった。しかし悟はむしろ反対に、その話の世界観に入り込みすぎて必要以上に影響を受けてしまうのだろう。あまり読書が得意でないというその瞳はまっすぐだった。

「でも好きなのは好きなんだよね。なんつーかさ、海に引きずり込まれてるような気分になる。俺は海も魚も好きなんだけど、自由が利かなくてしんどい、みたいな」

悟は前を向き―――少しだけ空を見上げながら、小さく息を吐いた。

「……熊谷くん」

「なんだよ」

悟が夢月のほうを見ると、彼女はにひひ、と嫌な笑みを浮かべていた。

「意外とポエマーだね」

「…おまえ、その顔へこませてやろうか」


***


(熊谷くんのうそつき…)

ふぅふぅ肩で息をしながら、夢月が見上げる部屋の名称は【一般書庫】。第二校舎の三階、日の当たらない北向きに位置する場所だった。ちなみに【一般書庫】は第一校舎一階、資料室と図書室に挟まれる形にある。

 夢月ははじめ、悟が言っていた【一般書庫】に向かった。しかし活動日と言われる日に訪れたはずが電気がついておらず、もちろん鍵も開いていない。まだ部員が来ていないのかと思い、一般書庫の前で待つこと約30分。流石におかしいと思い、活動日かどうか再確認しに職員室へ向かった。職員室は二階にあり、その廊下はやる気満ち溢るる生徒とそれに付き合う先生でごった返している。その人々をかき分けて一番奥の廊下の突き当りまで行くと、大きなホワイトボードが置いてあり、新入生向けの"部活動のいろは"が書いてあるわけである。

 【文化部】の列の一番下、半分消えかかった【文芸部】の欄、活動日を見る。

「…週に一度、水曜日」

呟きつつ、スマホを見る。間違いなく今日は水曜日だ。

 不安に駆られつつ、一応、と活動場所を確認した。そこには悟の言っていた【一般書庫】の文字―――の頭に何かついている。

「―――、一般書庫……って、どこ…」

なんだかドッと疲れが押し寄せる。もうなんか今日は諦めちゃおうかなー、みたいな気分になってきた。

(…でも、ここで諦めたら、次熊谷くんと会ったとき気まずいよなー……)

仮に入らないにせよ一応見学くらいはせねば、と夢月は根の真面目さを覗かせ、深い深いため息を吐いた。


 夢月は意外と人見知りである。よって、まだ顔を覚えきれていない教師、ましてや先輩に道案内を頼む勇気がない。都合よく仲のいいクラスメイトとかが来てくれたらいいが、そもそも準一般書庫とかいうメジャーじゃない場所を一年生が知っているとは思えない。

 仕方がないので夢月は第一校舎一階から【準一般書庫】を求めて歩き出した。


 それからまた約30分後、夢月はやっと【準一般書庫】にたどり着いたのである。

 引き戸の向こうは電気がついており、かすかながら人の気配もする。

 ぎりりと緊張で痛む胸を押さえつつ、彼女はその戸に手をかけた。


 若干重い戸を開け、まず流れ込んできたのは古本独特の甘い匂い、とホコリ。

「はい…っておぉ!?」

凛々しいよく通る声が、やや大仰に驚いた。

「生徒!?新入部員!?」

とりあえずここが文芸部の部室で間違いはなさそうだ。

 相手の顔を見るより先に、夢月はぺこりと頭を下げる。

「あ、あのっ、文芸部でしょうか…?」

「そうだ!」

どんっと胸を叩く音がして顔を上げると、にぃっと笑う背の高い女の人が立っていた。度の強い黒縁眼鏡をかけているが、それでも爛々と輝く瞳がしかと夢月を捉えている。

「君は?新入部員かい!?」

(なんか暑苦しいな…)

苦笑いしつつ中学校のテニス部時代を思い出しながら、「見学です」と呟いた。

「そうか!」

ぐっと目元に力のこもった明るい笑顔が上から夢月を照らす。きらりと光る歯がまぶしい。

「ではよく吟味していってくれ!」

そういって彼女は右手を部屋の真ん中の机に向けた。


 準一般書庫、と呼ばれるその部屋には意外とそれほど本はなかった。一応四方の壁には大きな本棚があり、びっちりと名前も知らない本で埋まっていたが、あくまでその程度で書庫と言うには冊数が少なすぎるような気がした。大体六畳ぐらいの広さで、もはや壁と化した本棚のせいでいっそう狭く見える。

 その真ん中には長机を三つ並べて大きな長方形型にした机があり、その周りを一般的な学校椅子が八つ並べてある。しかし使われているのは四つで、つまり部員は四人なのだろう。ちなみに椅子は部屋の隅にまだ何個か重ねてあり、隣に机も積み上げられていたので、いわゆる倉庫的な役割も果たしているのであろう。

 また、部屋に窓はなく、天井のど真ん中にある丸い蛍光灯が唯一の光源だった。そのせいでまだ16時を過ぎてまもないというのに、部屋の隅はぼんやりと暗い。

 夢月が書庫の扉を開けた時、部員はそれぞれ入口から見て奥の席に一人、左側に二人、右側に一人座っていた。先ほど出迎えてくれた女子も先ほど座っていた席――奥側の席――に戻った。夢月は色々部員同士の関係性を見計らいながら、一番手前に置いてある席ふたつのうち、入口に近いほうにちょこんと座る。

 夢月が席に着いたのを確認した例の女子生徒は、ふんっと気合を込めて自分の大きな胸を叩いた。

「自己紹介しようか!私は久板ひさいた結沙ゆうさ!好きな食べ物はシイタケとスイカ!よろしく!」

結沙の癖も圧も強い自己紹介を受けて苦笑いの夢月を見かねたのか、夢月の左手の席、二つあるうちの奥のほうに座っている少女が口を開いた。

「この部長、暑苦しいよね~」

夢月がハッと目を向けると、彼女は目をぎゅっと細めて微笑んだ。

「あたしは幹目みきめ鹿乃子かのこ、よろしくね~」

頬杖をつきながら夢月にひらひらと手を振る。真っ黒で美しいショートボブと垂れ目のせいで多少童顔に見えるが、結沙とは対照的な覇気のない大人びた笑みだった。

「私は部長ではないぞ」

鹿乃子の発言を結沙が呆れ顔で訂正する。

「え、違うんですか?」

夢月からすると、出迎えてくれた時も、座席の位置も、どこをとっても部長的立ち位置に見えた。また間違いなくこの部活のムードメーカーも結沙だった。

「…部長、私」

ぽつりとした声がこぼれる。鹿乃子の隣に座っている、体の小さな女の子が手を上げた。前髪は長く伸ばして後ろ髪とまとめて括っているようで、綺麗な富士額があらわになっていた。

「背、小さいけど…一応三年。靴辺くつべ亜希あきっていいます」

亜希が頭を下げたのにつられて、夢月も頭を下げる。

「私は副部長だ」

結沙がニッと笑う。彼女の笑みは自信に満ちているような、まっすぐで眩しいものだった。

「もうすぐ引退しちゃうから、実質動かしてるのは久板さんなんだけどね」

亜希が肩を上げて笑う。鹿乃子もそれに合わせて「ゆーちゃん、もう根がリーダー気質なんだよね~」と茶化し口調で言った。

 それに無意識ながら呼応するように、結沙は最後のひとりへと自己紹介のバトンを渡す。

「さ、灰野はいのさんも挨拶するといい」

バトンを受け、最後の一人、夢月の右手側の席に座っていた少女が口を開く。

「…灰野、瑠咲るさき。一年、です。よろしくおねがいします…」

まだ部活に入って日が浅いのであろう、もともと小さかった声が尻つぼみになっていった。また雰囲気もどこかおどおどしていて、艶やかなセミロングの黒髪の乗った肩が震えていた。

 結沙のアイコンタクトを受け、夢月が口を開く。若干緊張はしたが、四月にクラスで行ったものよりは落ち着いて話せた。

「一年、安沼夢月です。えぇっと…友達に勧められて、見学に来ました」

「そうか!安沼さん、よろしく頼む!」

結沙は明るく、そして礼儀正しく頭を下げた。

「こ、ちらこそ…よろしくお願いします」

こうして夢月は、本日三度目のお辞儀をした。


「ちなみに今あたしたちがしてるのはねぇ」

自己紹介と部紹介を一通り終わらせると、鹿乃子がゆったりとした声音で現在進行形の活動内容について話し始めた。

「月一の読み合い大会に向けての短編づくりだよ~」

「大会って言っても、別に私たちが部員だけで読むだけだけどね」

鹿乃子の言葉に亜希が付け足す。

 執筆活動というものを目の当たりにした夢月はおもわず身構えた。本は好きだし、たくさん読んできた自負はあるが、自分で書いたことは一度もない。しかもひと月でひとつの小説をつくりあげるなんて、途方もないことのように感じられた。

 なんとなく夢月のその様子を感じ取ったのか、結沙が柔らかい笑顔を浮かべて説明をさらに付け足した。

「とはいっても、筆の速さには個人差があるからな。別に出せなくたっていいし、出さなくたっていい。年に一作品くらいは書いてほしいがな。それから、短編小説である必要もない。詩でも漫画でも、なんならイラストだけでもいい。あくまで文部だからな。もちろん長編もいいぞ!」

「ゆーちゃんは長編だよー。多いときは10万文字近い奴持ってくるから、マジで困る」

「内容はちゃんと面白いから、余計に困ったりしてね」

ふんと大きな胸を反らした結沙に、鹿乃子、亜希がそれぞれの反応を返す。

「るさちゃんは漫画描いてんだよー」

鹿乃子は頬杖をついたまま、ちろっと対面の席に座っている瑠咲の手元に視線を送った。確かに彼女の手元に在るのはノートパソコンでもスマホでも、また原稿用紙なんていうものでもなく、比較的大きめのタブレットとタッチペンだった。

「へ、へたくそなんで…!見ないでください!」

かぁぁと顔を赤らめ、タブレットを自分の腕で覆って隠す。それを見て鹿乃子がニヤァと笑ってつんつんして腕を外そうとした。

「こんなこと言ってるけどね、るさちゃんはほんとに上手いよ~」

それを聞いて、夢月は瑠咲のほうを見て尋ねる。瑠咲もかなりの人見知りなのか、目が合っただけでか弱い小動物のようにぷるぷる震えていた。

「灰野さんは、美術部には入っていないんですか?」

「は、入ってます。一応、イラスト単体はあっちで描いて、漫画はこっちで、みたいな感じです…」

「ちなみに漫画も小説もイラストも、月一の読み合いで出してくれたやつを一冊にまとめて文化祭で配るよー」

「この部活基本ゆるいし暇だけど、その時期だけぐっと忙しくなるからね」

「ちなみに私の分はまとまりきらないだろうから別冊になりそうだ!」

それぞれがリレーのバトンのようにつなげて話す。しゃべり下手な瑠咲をカバーして沈黙をつくらない鹿乃子、その話題をさらに広げる亜希と結沙。

 見ているだけで、いいひとたちなのだろうということがひしひしと伝わってきた。


 初めはちょっと見学するだけのつもりで、入部する気はそれほどなかった。

 ただ、彼女らと接してみて、初心者ながらここで切磋琢磨するのも楽しいだろうな、と容易に思えた。

 この出会いのきっかけをくれた悟にひそかに感謝しつつ、夢月はゆっくり彼女らに馴染んでいった。


 いつのまにか見学と言うことも忘れ、五人で楽しく世間話をしていた時、ふと亜希が腕時計を見て「あ、」とこぼした。

「そろそろ下校時間だね」

亜希が言ったすぐ後、引き戸ががらり、と開く。

 一斉に皆がそちらを向いた。そこには全体的にこぢんまりとした年配男性が立っていた。

「おろ?なんかひとり増えてるね、新入部員?」

その発言で夢月にも彼が文芸部の顧問なのだろうと察せられる。

「見学に来てくれた子です!」

結沙がはきはきと答える。夢月もぺこりと頭をさげた。

「ああそうなの。今日見学したの?」

なんだか眠くなるしゃべり方で教師は夢月に問う。夢月は「はい」と静かに答えた。

「それで、どうだった?入る?」

「せんせぇ焦りすぎだよ~見学ちゃん困っちゃうよ~」

鹿乃子が適格に助け船を出したが、夢月はむしろ教師の目をしっかりと見返し、口を開いた。

「あの、私、入りたいなって、思ってます」

「そうか!」

「ほんと!?」

「助かるなぁ~」

「もうひとり一年生…嬉しいです」

綺麗に被らずに反応する文芸部たち。夢月はこういうところが面白くていいなと思ったのだ。

 顧問はのんびりとした笑顔を浮かべ「そうかそうか」と独り言のような調子で繰り返した。

「じゃあ僕帰るからね。戸締りよろしくね」

凄まじい切り替え能力で踵を返して帰ろうとする教師を慌てて呼び止める。

「ま、待ってください!入部届書きますんで!」

「え、あるの?」と亜希。

「そんなに急ぐ必要はないぞ!」と結沙。

「考えるのも大事だよ~」と鹿乃子。

「後悔はだめですよ」と瑠咲。

 夢月は微笑んで、鞄からファイルを取り出した。四月の初めに配られて、挟みっぱなしにしていた入部届を手に取る。

「後悔はしません。私はもう二時間たっぷり考えましたから」

さらさらと自分の名前を書き、顧問に渡す。

「はい、じゃあもう一枚は担任の先生に渡してね」

彼はにこっと愛嬌のある笑みを浮かべ、ぽてりぽてりと歩き去っていった。

 顧問の背中を見送ってから、亜希がぽかんと開けていた口を動かした。

「ほ、ほんとに大丈夫?焦っちゃだめだよ」

「大丈夫です!」

「ほんとですか…?」

あまりにも早い決断に亜希と瑠咲が心配そうに夢月を見る。しかし結沙はニカッと得意の明るい笑顔を浮かべ「まぁいいじゃないか!」と声を張った。

「本人が後悔していないのなら問題はないさ!そんなことより歓迎しよう!」

ばっと両手を広げる。その手の先には笑顔の部員たちがいた。


「「「「ようこそ、文芸部へ!!」」」」


夢月はふにゃりと笑った。


***


 それから翌週、晴れて夢月が文芸部員として準一般書庫に訪れた。

 がらり、戸を開けると、前回と同じように結沙が立っていた。しかしまだほかの部員は集まっていない。

 結沙は夢月を見るとぱぁっと明るい笑顔を浮かべ、「やぁ!」と手を上げる。

 しかしそのすぐ後にすこし顔を青くした。

「……新入部員、になってくれた子だよね?」

結沙の明るさにつられてがらにもなくとびきり元気な挨拶しかけた夢月がぐっと唇を引き締めた。

(あれ、覚えられて…ない…?)

それは彼女にとって少なからずショックであった。まだ出会って一週間、顔を合わせて話した時間はたったの数時間に満たない。けれどあの時間は夢月にとって特別で大切なものだった。

 おそらく結沙は夢月の感情の機微をとらえ、いっそう顔を青くして、深く頭を下げた。

「気を悪くさせてすまない!実は私は…その、人の名前を覚えるのが特別苦手でな……」

彼女は真っ青な顔で、言葉の端々から後悔と深い懺悔の気持ちをしるしていた。なおかつ、まっすぐな、真剣な瞳で夢月の目を見ていた。それだけで結沙のそれが適当な言い訳でなく、彼女自身もそれに深く悩んでいるのであろうことが夢月にもわかった。

「先週は気が舞い上がって、メモを忘れていたんだ。本当にすまない!」

「い、いいですよ!気にしてませんし、顔上げてください」

夢月がおろおろしつつ両手を振ってなだめると、結沙はゆっくり、ためらいがちに下げた頭を持ち上げる。

「すまない…もう一度名前を聞いてもいいだろうか…」

「もちろん、もちろんです!とりあえず立ち話もなんですし、中入りましょ?」

おそらくそれは訪れた側の夢月が言うセリフではないが、はやく結沙を椅子に座らせないと土下座をしそうな勢いだったので、入室を促して席に着く。

 ふたりはあたかも面接のように長机を挟んで向かい合う形で座った。

 夢月がふっと息をついたのを確認し、結沙は胸ポケットから小さな手帳とボールペンを取り出した。黒い革のカバーがしてあり、一見生徒手帳のようだったが別の、結沙が個人的に使っているであろうものだ。

 かち、とペン先をだして、慣れた様子で左手に手帳を持ちながら、結沙は夢月を見た。

「では…すまない、もう一度名前を頼む」

「安沼、夢月です。安い沼に、夢の月です」

さらさらと手帳にその名をかきこみ、結沙はふわりと笑った。いつもの活気に満ち溢れた強い眼差しではなく、柔らかく暖かな色をしていた。

「綺麗な名前だ」

女性にしては低い、魅力的な声だ。夢月はちょっとどきっとした自分に気づいていた。

「……ありがとうございます」

頬をほんのり赤らめ、うつむきがちに感謝の言葉をこぼしたとき、がらっと扉が開いた。

「お、部長が新入りちゃん口説いてるじゃーん」

顔を覗かせたのはにへーっと笑っている鹿乃子。彼女に続くように瑠咲、亜希と集まってきた。

「夢月さん!いらっしゃったんですね!」

瑠咲が朗らかに笑う。二時間のうちにだいぶ懐かれたらしい。

「安沼ちゃん、一週間ぶり」

ひらりと手を振る亜希。夢月も小さく振り返した。

 こうして、改めて文芸部は、夢月を含めた5人で動き出した。


 結沙、亜希、鹿乃子が文化祭で発行する部誌をせわしなく準備している中、瑠咲と夢月の一年生組は並んで座っていた。

 しかしこの二人には明確な差がある。瑠咲は部活動をしているのだ。つまりこの時間も真面目に漫画を描いている。対して夢月は何もしていない。先輩方の動きを目で追ったり、瑠咲の画面をのぞき込んだり、スマホをいじったりはしているが別になんの創作活動もしていなかった。

 彼女は手持無沙汰だった。しかし暇という理由だけで先輩に仕事を求めることも足手まといになるのではと気にしてしまい、ただ行き先のない手のひらをもう片方の指でなぞっていた。

 それに気づいたのか、もしくは言い忘れていたのを思い出したのか、不意に結沙が夢月の名を呼んだ。

「安沼さん!」

夢月がぱんっと弾けるように面を上げると、結沙がこちらを向いてニカっと笑っている。右手には手帳が握られていた。

「そうだ、安沼さんにしてほしいことがあったんだ」

言いつつ、ごそごそとそこらの段ボールを漁った彼女は、すぐに何枚かの紙を取り出して夢月に歩み寄った。夢月が結沙の漁っていた段ボールに目を向けると、黒色の油性ペンで大きく【文芸部】と手書きされていた。

「せっかく文芸部に入ってもらったんだから、何かそれっぽいことをしよう!」

そう言って、彼女は机に優しく手に持っていた紙を置く。

 原稿用紙だった。

「もちろんデジタル派だったらスマホでもパソコンでもいいぞ。書く媒体はなんでもいい」

そして彼女はそのらんとしたまっすぐな瞳に夢月を映す。

「何か、書きたいものはあるか?」

夢月はしばらく黙り込んで、小さく「…小説は、ちょっと」と拒んだ。

「ただ…その、短いやつでよければ…」

「詩か?もしくは短歌とか?」

「ショートショートのお話でもいいよね~」

鹿乃子が助け舟を出す。

「絵本みたいなのもおすすめです…!」

瑠咲が隣で微笑んだ。

「ま、安沼ちゃんがヤじゃないやつが一番だよ」

最後に亜希がまとめた。

 夢月はそのたびに頷いて、自分の鞄からペンケースを取り出した。

「とりあえず……書いてみます」

「わかった!ゆっくりやってみるといい!」

結沙が得意の眩しい笑顔を見せ、作業を続ける亜希と鹿乃子に合流した。


 手元を覗き込んできた瑠咲をぐいっと押し返した後、中学校の読書感想文を思い出しつつ、夢月はくるりとシャーペンを回した。

 夢月にとって読書感想文は苦ではなかった。もともと読書は好きだし、感想文自体も苦手じゃない。

 ただ、創作となると話は別である。授業を除くと、今までそんなものを書いたどころか考えたこともない。

 物語なんて想像したこともないし、短歌や俳句は国語の授業で書いたがむしろその字制限がかなり苦痛だった気がする。

(とりあえず、書くなら詩…になると思うけど)

そもそもテーマも思いつかない。どういう書き出しがいいのかわからない。段々詩がなんなのかさえ分からなくなってきた。

「むぅ………」

ペンを握りしめたまま突っ伏した夢月の隣で、瑠咲は真剣な眼で漫画を描き続けている。

「瑠咲ちゃん、すごいね…」

夢月の消えかけたつぶやきにパッとこっちを見た瑠咲は、嬉しそうにはにかんだ。

「たくさん描きましたから」

「………その言葉の強者感すげぇ…」

「わ、私もたくさん書いたぞ!去年だけで100万文字書いたからな!」

「一年生相手に張り合っちゃってー。部長は短編書けないくせに~」

「私は部長じゃない!」

「あ、別に久板さんが部長でいいよ」

「先輩!!!あなたは諦めちゃだめ!!!」

おそらく夢月に褒めてほしかったのであろう結沙を鹿乃子が茶化し、いわゆる「いつもの流れ」をこなす。先週の二時間でその流れもなんとなくわかっていた夢月は楽しそうに笑った。

 この「いつもの流れ」、本当の部長である亜希は気を悪くしそうなものだが、実のところ亜希も結沙が部長であるかのように接することが多かった。からかって「部長」と呼ぶことも多々あるので、亜希自身は別に気にしていないのであろう。

 また、鹿乃子もはじめは夢月を混乱させないように名前で呼んでいたものの、段々打ち解けてきてすっかり結沙を「部長」と呼ぶようになり、瑠咲のことも名前ではなく「後輩ちゃん」と呼ぶことが多くなった。(ちなみに先週夢月は「見学ちゃん」と呼ばれていた。)しかし普通に名前で呼ぶこともあるので、結沙のように名前を覚えるのが苦手と言うわけではない。ただ単にそういうクセなのだろう。

 先輩陣がきゃあきゃあ言い合っているのを聞きつつ、瑠咲はペンを握る手を止めて夢月を見た。

「どうしても思いつかなかったら、色々見てみるのがいいですよ。アウトプットの前にインプットです!」

そういいながら元気に親指を突き立てる。

「お、アドバイスありがとう~!やってみる!」

瑠咲は「はい」と柔らかな笑みを浮かべ、また自分の作業に戻った。


***


 その後も夢月は筆が進まず、途中からは瑠咲と共に先輩方を手伝って部誌の製本作業をしていたのもあって、一文字も書かないまま部活が終わってしまった。

 帰り際、結沙は夢月をなぐさめるに「あまり気負うなよ」と笑った。

「ゆっくりでいいんだから。これはノルマでも課題でもない」

結沙の後ろからぴょこっと出てきた鹿乃子も続く。

「そうだよ~遊びみたいな気分でやってほしい~あたしも楽だしぃ」

「幹目さんはこれから頑張りなさいね?久板さんと一緒に支えていってよ」

にひ、と笑った鹿乃子を亜希がいたずらな笑顔を浮かべてたしなめる。それから夢月のほうへ向き直って、

「ただ、楽にしてほしいっていうのはほんと。楽しいのが一番だからね」

と微笑んだ。

 夢月は瑠咲含む文芸部の先輩陣の優しさに心が解けるような温かみを感じていた。


 心が解けるのはいいとして、問題はそこではない。書けないことである。

 部活後、家に帰って持ち帰った原稿用紙を机の上に置いて、そこから何も進んでいない。やっぱり頭の中には一文字も浮かばない。

 結局、原稿用紙を広げたまま次の日学校に向かった。


 そんな一日を数回繰り返したところで、夢月はハッと天啓のように瑠咲の言葉を思い出した。

『どうしても思いつかなかったら、色々見てみるのがいいですよ。アウトプットの前にインプットです!』

彼女はすぐさま近所の本屋に走り、人気そうな詩集をいくつか選んで購入した。


 家に帰り、ベッドに寝ころびながら詩集のページをぺらぺらめくる。詩集なんて買ったのも読んだのも初めてだった。

 その少ない活字を眺めているだけで、すこし人生が豊かになっているような気がした。


***


 そして土曜日、例のごとく塾の前のひとときのカフェにて。

「なに、読んでるの。いつものやつじゃないじゃん」

真剣な顔をして詩集に見入っている夢月に悟が話しかけた。夢月がぱっと顔をあげると、すでに店内に自分以外の客はなく、悟も店長も完全にオフモードだった。

「これ?詩集だよ。最近人気の詩人のやつだって」

夢月が背表紙を見せつつ悟を見上げる。すると悟がにやーっと―――珍しく笑顔を見せていた。

「もしかして、ポエマーデビュー狙ってますか???」

やり返してきやがった、と口の中でつぶやく。そう、おそらくこういうカウンターを喰らうだろうから、あまり悟には言いたくなかった。

「…なに、ポエマーさんは熊谷くんでしょ?ていうか!普通に詩って素敵だから!もう一冊別の詩集もってるから貸してあげようか!?」

「じゃあこの間俺を馬鹿にしたことを謝れ。全国の詩人と俺に」

「ごめんなさい。全国の詩人のみなさま」

「おい俺は」

「こらこら、馬鹿な喧嘩はやめなさい。君たちもう高校生でしょうが」

夢月と悟の言い合いを店長が呆れた顔で止める。ふたりとも押し黙ったが、夢月はむぅっと頬を膨らました。

 店長はそれを眺めつつ、孫に話しかけるような優しい声音で尋ねる。

「ところでお嬢ちゃんはなんでまた詩に興味が出てきたんだい?前は夏目漱石とか太宰治とか読んでただろ」

それはカッコつけてたんだけどね、と夢月は心の中で苦笑する。

「実は文芸部入って…それの、なんていうか、活動?みたいな感じです」

「あ、入ったんだ」

悟がへぇと目を見開く。夢月は店長から視線を悟に移し、小さく頷いた。

「そうなの。言い忘れてたね。見学してみて、いいなーって思ったから」

「そうなんだ、いいじゃん」

「うん、紹介してくれてありがと」

夢月の感謝の言葉を聞いて、店長が悟のほうを向く。

「え、熊谷文芸部なのか?」

「ちがいますよ、俺は部活入ってないです。安沼さんは紹介って言ったけど、別にそういうのあるらしいって言っただけだし」

そこで夢月はハッと、ちょっとした恨みを思い出した。

「そうだ!思い出した!文芸部活動してるの、一般書庫じゃないじゃん!」

悟に食って掛かる勢いで夢月が声を荒らげる。対して悟は飄々とした顔で「そう」と言った。

「あの第二校舎の三階のとこ、一般書庫じゃないっけ?」

「一般書庫は第一の一階!図書室のとなり!」

「じゃああの部屋なんなの」

一般書庫」

「…変わんねーじゃん」

「変わるんだよ!校舎中探し回ったよ!」

「教師とかに訊けばいいのに」

「それができたら苦労しないよ」

悟はふっ、と鼻で笑い、大仰に肩を上げて夢月を見下ろした。

「コミュ障?」

「く、熊谷くんには言われたくないっ」

「…あ?」

「はい、喧嘩しない。ったく、ほっといたらすぐにバチバチし始めるんだから」

店長が大げさにため息を吐く。それに悟はケッと吐き捨て、夢月はびくりと肩を震わした。

 また店長が話をそらそうと、新たな話題を提供する。―――が、この話題が意外と引っかかったりして。

「そういえば熊谷は結構文学的な表現をすることあるよな?それこそ詩みたいな」

「は!?!?」

「やっぱり!?」

嬉しそうにニマニマ笑う夢月とは対照的な悟の歪んだ表情。見たことがないほど感情をありありと示していた。

「お嬢ちゃんも部活で詩とか書くことあったらこいつの言動とかも参考になるかもしれんな。はっはっは」

店長はつるつるした自分の広いおでこをなでて大笑いした。彼を悟が鬼の形相で睨みつける。

「なっ…ちょ、マジで!なに、何言ってんの!?はっはっはじゃねぇし!」

「照れんな照れんな」

「ちょっとマジ安沼黙れ」

「……ハーイ」

それから店長をガン詰めする悟を眺めながら、コーヒーをすする。そしてのんびり考えていた。

(熊谷くんを参考に、か…)

「……ありじゃね?」

「は?なんか言った?」

「や、なんでもない」

夢月の中で何か新たな、初めての衝動が生まれた。


***


 塾が終わった後、彼女はまっすぐ自室の机に向かった。

 頭の中では、ある日の少年の言葉が繰り返されていた。


 原稿用紙を前に、シャーペンを握る。


 少しずつではあるものの、頭の中に言葉が流れ込んできていた。



―――――――

ことのはが散るころは


さわやかな風がふきます


あなたはその風がすきですが


あなたはその風がにがてです


風は ことのはをさそって


海へと行くのです


海は さかながはねて


ひかりがはねて


あなたを 底へと


ひきずりこむ


わたしは水面から


沈むあなたをみています

―――――――


 原稿用紙から離れたペン先から、視線を冒頭に移す。

 何度も何度も繰り返し読んで、言葉が変じゃないか確かめる。そうしているうちにゲシュタルト崩壊してきて、自分の字が暗号みたいに見えてきたころ、夢月はやっと目を原稿用紙から離して、ふぅっと息をついた。

「ぅぅ……はっ…ず、いなー…これ」

誰もいない部屋で小さく呻き、耳にカカカと這い上がる熱にぼんやり視線を泳がした。

(これでいいかな…だめかな……そもそも熊谷くんのパクリだしなぁ)

著作権うんぬんまで気にしつつ、夢月はいそいそと書きあがった詩を鞄にしまう。

(熊谷くんに許可とればいいか。いや待って、そしたらこれ見せないといけないのか)

また熱が這い上がる。想像だけで心臓がバクバク言い始めた。

(見せたら馬鹿にされるか、いや怒られるかも…パクリだし…)

しかし、頭では悩んでいたが心は決まっていた。

 夢月は、他人からインスパイア受けた作品を我が物顔で提出することができない程度にはマジメな小心者だった。


 悟から許可を取るべく、恥を忍んで手書きの詩をカフェに持っていくと、悟はそれを見るなり噴き出した。まだ店内に別の客もおり、若干気まずい空気が漂う。

 店長がたしなめると、彼は口元を覆いながらくつくつと肩を震わせてこらえるように笑い、そっと原稿用紙を返す。受け取った夢月の顔は猿のように真っ赤で、眉間に深い深い溝が刻まれている。

「ごちゅっ…ご注文は、何にいたしましょう」

からかうように震える語尾が随分小さめに夢月に届く。ほかのお客の邪魔をしないようにする配慮なのだろう。

「……ブレンドコーヒーで」

むっと拗ねた声で返す。それに煽られてまた悟の細い肩が小さく震えた。

「…ガムシロップかなんか、いれようか」

店長が苦笑いで夢月に問う。彼女は苦々しげな表情で深く頷いた。


「んはっ!やべえ、ツボに入るわ!なんだろうな、笑ってやらねぇといけない義務さえ感じる」

客足が途切れたところで悟は夢月に話を振り、彼女の隣の席に腰かける。基本このカフェの店員は店長を除いて二人だが、もうひとりのひとが帰ったことで幾分悟も気を緩めていた。表情も柔らかい。

「うるさいなー!さっきは言えなかったけど、これ、モデルあんただから!!」

夢月も負けじと噛みつく。悟ははたと笑い声をやめ、少し目を瞠った。

「はあ?」

「…思い出さないわけ?」

真面目な表情をつくっているものの赤い顔で夢月は先ほど鞄にしまった原稿用紙を引っ張り出して悟に突きつける。

 悟は―――今度は真面目な顔で―――原稿用紙に目を通す。それからすこし眉間にしわを寄せて、数秒後にはハッと息を呑んだ。

「おっ、まえ…!」

その反応で彼がモデルであることを理解した店長が首を伸ばして原稿用紙を覗き込もうとするが、悟は瞬時にそれを裏向けた。

「思い出した?あの日熊谷くんが話してくれたやつ」

「っ無許可!」

「なので許可を取りに来ました」

形勢逆転、落ち着いた様子で夢月が頭を下げる。

「これ、文芸部で見せたいんだけど、嫌?嫌なら別のやつ考える」

夢月のまっすぐな視線に悟がぐぐぐっと押し黙る。正直さっき自分でも笑ってしまった手前、今更作品の内容について取り繕えないし、また夢月の願いを拒むのもモデルが自分と認めるようで癪である。

 しばらく葛藤に苦しんだのち、彼はもごもごと口を開いた。

「……いぶで」

「え?」

「文芸部で、俺の名前出さないって約束する?」

「する。むしろ正直なところ、おおもとの素材は熊谷くんだけど、形作ったのはほとんど私だしね」

「笑われても俺を言い訳にしない?」

「しない。絶対、しない」

悟は大きくため息をつき、頭を抱える。耳先の赤みで彼の複雑な気持ちが見て取れた。

「………っ、わかった。マジで約束だからなっ!」

赤い顔を大きな手で覆い、もう片方の手のひらを夢月の前で振る。その手の動きがこれでもうこの話は終わりだよと言うように、しっしっと夢月を突き放した。

 夢月は丁寧にお礼を言い、悟から返された詩をしまおうと鞄を取る。するとカウンタ―の向こうから不貞腐れた声がした。

「えー、見たいー。熊谷モデルのお嬢ちゃん作の詩ぃー」

「「それは嫌です」」

「えぇーそんな同時で拒否しなくてもー」

「安沼さん、見せたら針一万本飲ますからな」

「安心して。私も普通に見せたくない」

先ほどまで敵同士だった二人の視線は、いつのまにか同志に向けるものへと変化を遂げていた。


***


 水曜日、部活が始まって場の空気も温まってきた頃、夢月はおずおずと鞄に手を伸ばした。

 机の上に置かれた原稿用紙を見て、結沙が嬉しそうに目を輝かせた。

「書いてくれたのか!読んでもいいか?」

「ぇう…はい…」

言うなれば悟からも権利をような感覚なので、羞恥心は躊躇うことなく夢月に突き刺さる。同じ一年の瑠咲でさえ「たくさんかいた」と自負する文芸部と言う場所で、ド素人の自分の詩を晒すなど自殺行為とまで思えた。

 結沙が原稿用紙を手に持ち、手書きの文を大きく眩しい瞳でゆっくり辿る後ろから部誌準備中の亜希と鹿乃子も覗き込む。夢月の隣に座る瑠咲は漫画を描いていたが、机の向こう側で行われている鑑賞会が気になるのか、筆は止まっていた。

「ふむ」

少ししてひとりごとのように結沙はつぶやき、原稿用紙を机に置く。それを見かね、瑠咲はこそりとそれを覗き込んだ。

「安沼さんは、こういう文章を書いたのは初めてなのか?」

暗に稚拙だ、と言われたような気がして一気に顔に熱が宿る。

「あ、はい…その、小学校の時授業で一回書いたような気もするけど…こ、こーゆう感じで書くのは、そうですね、初めてです…」

恥じ入るようなか細い声で答えた夢月の不安を打ち消すように、結沙は太陽のように眩しく、にっと笑った。

「そうか!だとすれば君は才能に満ちているのかもしれんな!」

「へっ」

ぽかんとした夢月に、今度は鹿乃子が言葉を投げかける。

「そうだね~めっちゃ上手いじゃーん」

「といっても、私たちはプロじゃないから細かい分析とかはできないしわかんないけどね」

亜希が眉をハの字にして微笑む。それに頷きつつも、結沙は爛々とした大きな瞳でしかと夢月を捉え、「私は好きだ!」とはっきりした声で言い切った。

 こうも堂々と「好き」と言われた経験など家族や親友の美璃を除くとほとんど皆無で、脳内でどう処理していいかあたふたしているうちに、また新たな声が耳に届く。

「あの…夢月さん、すごいです…!」

胸の前で白い手を合わせ、夢月にだけ聞こえるような小さい声で瑠咲が囁いた。

「私、夢月さんがたくさん詩集とか読んで勉強してたの知ってます。だから、なんか…すごく嬉しいです。とっても素敵な詩ですね」

部活のたび、漫画に集中しているように見えて、そばで苦悩している夢月の姿が印象づいていたのであろう。瑠咲はわが身のことのように喜んで、はにかんだ。夢月にとっても瑠咲のその様子が嬉しく、率直な言葉に照れ笑いを浮かべた。

「えへ、あの、そんなに褒めてもらえる、って…思ってなかったです」

両手でにやけた口元を隠し、頬を赤らめて少し頭を垂れる。まっすぐな細い前髪が潤んだ瞳を隠した。

「なんか、すごく、嬉しい。へへ、んふ、ありがとう、ございます」

ぺこりと頭を下げた夢月を見ながら、ほかの四人もどこか照れたように笑った。


「題名を聞いていいか?」

夢月の書いた原稿用紙をプリンターで印刷し、その紙を「文芸部」と手書きされたファイルに留めながら結沙が尋ねた。夢月はハッと目を開く。

「あ、忘れてました…題名」

頬を指先で書きながら、気まずそうに顔を伏せる。しかし結沙は夢月の視界に入れ込むように印刷元の原稿用紙を彼女の前に置き、「ならば」とすこし弾んだ声で言った。

「私につけさせてもらってもいいか?いいのを思いついたんだ」

面をあげると、彼女はふんっと自信げに胸に手を乗せ、夢月を見下ろしていた。

「無論、安沼さんさえよければ、だが」

「あ、いいです。嬉しいです!私、正直あんまり思いつかなくて…」

「そうか!ありがとう!」

言うやいなや彼女は手元のファイルを開き、先ほど留めた夢月の詩のコピーを指でなぞる。それから小さなペンケースからシャーペンを取り出して、原稿用紙の右側の空欄に書き込んだ。

 覗き込むようにしてそれを見た鹿乃子が「ふぅん」と顎に手を当てて言う。

「『字句の海に沈む』?いいじゃん、ゆーちゃんっぽい」

意図したのか結沙を「ゆーちゃん」と呼び、机上から面を上げた彼女を見て妖しく笑った。その顔がやけに大人びていて、夢月は静かに息を呑んだ。

「あ、あの…字句って、なんですか…?」

瑠咲がおずおずと尋ねる。

「そのままだよ。文字や語句のこと。安沼ちゃんの詩は「ことのは」をテーマにしていたように思うし、ぴったりだと思うな」

鹿乃子の後ろから覗き込んでいた亜希が答えた。瑠咲はなるほど、と頷く。

「確かに、ぴったりですね!」

部員の反応はおおむね好評だったが、結沙はただ夢月だけを見つめた。

「安沼さんは?どうだろう。私は君の意見が聞きたい」

結沙の強い瞳に気圧されつつも、夢月は心の底から何度もうなずいていた。

「いいです、すごく、なんか、めっちゃ好きで…ほんとにありがとうございます。私なんかの詩にこんな素敵な題名いただけるのが、もう、嬉しい…!」

「謙遜しないで~。新人ちゃんの詩がよかったから部長も題名思いついたんだろうし、あたしらみんな好きだよ~」

顔を真っ赤にして感謝を繰り返す夢月をなだめるように、鹿乃子がふざけた調子で結沙の肩を寄せて笑った。

 2,3週間かけて、たった十数行の詩を書いただけ。それだけでこれほど温かい思いが向けられるものだろうか。

 夢月は改めて、この部活に入れたことを幸運だったと自覚した。


***


 放課後、泥のように重い体を持ち上げてふかふかの座席から立ち上がる。普段ならもっと長く座って揺られているはずだが、今日は週に三度ある塾の内の一回。憂鬱で大嫌いな時間だった。

 無意識に口の端からこぼれるため息を纏いつつ、改札を越えたところで前方に見知った背中を見かけた。

「あ、熊谷くん」

声を掛けつつ、小走りに悟のほうへ向かう。彼は猫背のままゆっくり歩いており、じごくに向かう夢月よりも気怠げだった。

 きゅっと表情を絞って振り返った悟は、つまらなさそうにぼそりと「ああ」と答えた。

 彼の隣に並び、歩く速度を合わせる。

「バイト?」

「うん」

「あれ、木曜日もやってたっけ?」

尋ねると、彼は訝しげに夢月を一瞥し、また項垂れるように下を向いた。

「今日は急にシフト入ったの。なに、あんた俺のシフト把握してんの」

「してないよ。ただいつも見かけないのに、って思っただけ」

「ふぅん。ちょっと距離取るところだったわ」

夢月はぐっと眉をひそめて悟を睨む。対して彼は無表情でうつむいていた。

「ストーカーだとでも思ったの?失礼な!」

「思ってない。ただそうだったらちょっとキモいなって」

「思ってるじゃん」

「はは」

口では笑っていたが、その声に抑揚はなかった。はじめは悟のそういうところがすこし寂しかったが、今やそれほど気にも留めていない。


「そういえばさ」

駅から並んで歩きながら、夢月が唐突に口を開く。悟は黙ってその言葉の次を待った。

「あの…詩?文芸部で見せたらめっちゃ褒めてもらえたよ」

「ふーん」

「…それだけ?」

「よかったな」

悟はじろっと、どこか責めるような目つきで夢月を見た。

「…俺の名前出してねぇだろうな」

「出してないよ」

「じゃあいいよ。もうあれ完全にあんたのだから。いちいち報告しなくていい」

「わー、つべたい」

「冷たくて悪かったな」

そういうふうに、ほぼ脳死で会話しているうちに悟のバイト先、そして夢月の行きつけのカフェに着いた。

「それじゃあ…」

夢月が手をあげようとしたところで、悟の目は夢月を捉えた。

「え、寄ってかないの?時間ない?」

「へ、いや、ある」

まるで当然かのようにそういう悟に戸惑いつつ、夢月はスマホを確認して答える。

「じゃあいいじゃん」

「でもお金がない」

「いいよ。俺がおごるわ」

からん、と鈴の音と共に木製扉を開く。そして頭だけ振り返って夢月を見た。

「来ないの?」

「…ううん、行く」

すこし小走りで悟のもとへ向かう。ふわりと濃いコーヒーの香りがした。

「何頼む?」

「バニラアイス付きストロベリーパンケーキ特大」

「おい遠慮しろ」

「じゃあラテ」

「了解」


 いつものカウンター席に夢月を座らせ、店長にラテを注文した悟はそのままスタッフルームに消えていった。

「お嬢ちゃん、今日も塾?」

カウンターの向こうで店長が尋ねる。夢月は憂鬱そうな表情をしてからうなずいた。

「そうです。だるいなーって思ってたら、駅で熊谷くんに会ったんです」

ラテこれは?熊谷が頼んでたけど」

「奢ってくれるそうです」

「へえ、いい男だねぇ」

店長がどこか勘繰ったような表情でそうつぶやいたとき、がちゃりと、彼の後ろのドアが開く。

「…店長、変なこと言わないでくださいよ」

チェック柄の店員服に身を包み、不貞腐れたような顔をしている。

「はいはい。何も言ってませーん。そうだ、お嬢ちゃん、せっかくだからラテアートしてあげようか」

「えっ!いいんですか?」

「は、店長そんなんできんの?」

「できます。熊谷もこれからのために見ておくといい」

ふんっと胸を張って、彼は先ほど入れたラテの上に素早く白い絵を描き始める。その手捌きを見るに、かなりの数をこなしているようだった。

 しばらくして店長の丸い手が止まり、それを崩さないようにそっと夢月の目の前に置かれた。

「はい。サービスアートです」

「んふっ、かわいい」

こらえきれないといった様子でふきだした夢月の視線の先にあるのはミルクで描かれた目つきの悪い不機嫌なクマ。――誰をモデルにしているかは一目瞭然だった。

「…なにが。そんなぶさクマ」

「ぶさとはなんだ。私の渾身の傑作を」

モデル本人も気づいているらしく、ひどく不満げに――その表情さえもラテアートにそっくりだったが――いそいそと砂糖の補充を始めた。

(これ、崩すのもったいないなぁ)

スマホに何枚か不満げなクマのラテの写真を残したものの、その顔にスプーンをさしこむことを戸惑っていると、頭上からくすりと上品な笑い声がした。

「お嬢ちゃん、また作ってやるから、安心してお飲みよ」

「ふふ、はい」

真っ白のマグカップにそっとを口づける。柔らかなぬくもりが唇を通して伝わった。


 口の中に溶ける甘みを味わいながら、ちらりともうひとりの不満げなクマを見る。


『 わたしは水面から 

  沈むあなたをみています

  けれどいつかは 

  あなたのように字句の海へと 』


(沈んでみたい…なんてね)

「私もすっかりポエマーだな…」

「なに?また書くの?」

店の奥のほうから飛ぶ野次のような軽い声。夢月は悟のこういうところがわりと嫌いじゃない。

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安沼夢月の青春譚【同題異話SR大感謝祭 参加作】 榎木扇海 @senmi_enoki-15

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