きみに会うための440円

(え、あれ、)

それなりに活気のある桜並木のオフィス街。その中に在るこぢんまりとしたカフェは、道沿いの壁が一面ガラス張りだった。

熊谷くまがいくんじゃね?」

そのガラス越しに見えたのはおそらくクラスメイトの男子。白いシャツにチェック柄のエプロンと帽子をかぶり、客の注文を受けている。

(うちの学校、バイト禁止じゃなかったっけ?)


 意図せぬところでクラスメイトを目撃した少女、安沼やすぬま夢月むづきの通う高校は原則バイト禁止である。特別な事情で学校から許可を得れば可能になるが、彼はそういう類いなのだろうか。

 熊谷さとる。夢月と同じクラスだが、物静かな印象で基本一人でいることが多い。

 わざわざ校則を破ってまで小遣い稼ぎをするタイプのようには思えない。


 しばらくカフェのほうを眺めていたが、ふと思い直して歩き出した。

(まぁ…私には関係ないな)

大して仲良くもないクラスメイトが何してようと、夢月にはどうだっていいことだろう。

 そういえば塾の見学に来たんだった、と夢月は小さくため息をつき、前を向いた。


***


 それからしばらく、新しく入った塾が憂鬱で悟のことなど頭の隅からも消えていた夢月だったが、ある日の英語の授業で不意にその存在が現れた。

「じゃあ二番を…熊谷くん」

どこか山姥やまんばに似ている教師が名簿を見ながらその名を呼ぶ。五時間目でうつらうつらしていた夢月の頭が、少しばかりはっきりとした。

 指名された少年のほうへ目を向ける。彼は自分のノートを眺め、それらしい和訳を答えた。教師はそれに若干訂正を入れ、また次の問題へと移る。

 答え終わった悟は、つまらなさそうに目を伏せたかと思うと、ゆるりとその視線を窓の外へ向けた。

 窓際の席に座っている彼の横顔を日が照らし、影が落ちた頬がやけに印象的だった。


 それから、だった。

 夢月の意識の中に、熊谷悟という存在が入り込むようになった。

 別段目で追っているつもりはないのに、黒板を消している姿だったり、教科書を整理している姿だったりが視界に映るようになり、悟関連の話が耳に入るようになった。


 夢月からしても、それは不可解なことだった。

 別に彼女にとって悟が最高にタイプな男性というわけではなく、これと言って仲がいいわけでもない。別段思い当たる理由もないのに、夢月の日常生活の中に「熊谷悟」が息をするようになったのだ。


 「それって、恋じゃないのー?」

小学校以来の親友である美璃みりは、夢月から話を聞いてニマニマしながらそう返した。どちらかというと他人に無関心な夢月と違い、美璃は結構そういう色恋沙汰が好きなタイプだった。

「恋って…でも私べつに熊谷くんのことが気になるってわけじゃないんだよね」

「え、ちがうの?話聞いてる感じ、めっちゃ気になってるのかと」

確かに、興味がないわけじゃない。あそこのバイト時給どれくらいなの?とかバイトってどう、ブラック?とかブラックコーヒー飲める?とか聞きたいことは結構ある。

しかしそもそも美璃には学校での話だけでバイトの話はしていないし、美璃の言っていることと夢月の抱える疑問はうまく合致しないように感じられた。

「うーん…恋とか、そういうんじゃない…と思う」

顎に手をやりながらそう答えた夢月を見て、美璃は一人合点した様子でにやーっと笑った。

「そーぉ??ま、いいけどねー」

言いつつ、美璃は半笑いの眼のまま夢月の顔を眺め、自分なりのアドバイスを授けた。ちなみに彼女も恋愛経験は0である。

「とにかくさ、あたしは応援するしー、まだ確信がないからって気持ちに蓋する必要はないと思うよー」

青春じゃーん、と肩を握った美璃の手を払い、夢月は「もういいよ」と呆れた様子でため息を吐いた。


***


 塾に通い始めた夢月は週三日講義を取っており、うち一回は土曜日の午後だった。

 今まで自由だった休日に突如入り込んできた塾と言う存在を憎々しく感じつつ、早めのお昼ご飯を済ませ、家を出た。

 学校の最寄り駅から二駅先で降り、すっかり青くなった葉桜を眺めながら歩く。塾は憂鬱だが、この桜並木はなかなか好きだった。特に花が満開になる春先は壮観だろう。


 もともと重い足取りだったが、反射する太陽光が視界に差しこんだのをきっかけに足を止めた。

 明るく照り付ける太陽を写し取るガラス張りの店の前で、スマホを取り出し時間を確認した。

(塾まではまだあるな…)

思考をめぐらすときの癖で唇を軽く噛みながら店内をちらっと確認した瞬間、ある一人の店員の姿を捉えた。

 鞄の中の財布を確認して、夢月は木製の小さな看板がつり下がっている扉を押した。


 からん、とレトロな音が頭上からこぼれ、芳醇なコーヒーの香りが漂う。

 店内は小さなクラシック音楽がかかっている以外は基本静かで、こぽこぽとコーヒーを注ぐ音だけが柔らかに耳を癒した。ぼんやり明るい電灯含め全体的に装飾重視なのか、机や椅子も座り心地よりも見た目の美しさが際立っており、古いアンティークのような印象を受ける。

「いらっしゃいませ」

人の好さそうな店長がコーヒーを注ぐ手を止めて会釈する。夢月も小さく会釈を返し、一番右端のカウンター席に座った。

 静かに手渡された革製の茶色いカバーに包まれたメニュー表をながめる。

「じゃあ…紅茶、アールグレイ?ってやつと、ミックスベリームースで」

夢月のような高校生が手を出すには流石に高かったが、せっかくだからと見栄を張って一番お洒落そうなお菓子を指さす。

 注文を言って面をあげると、最近よく見る顔がこちらを見ていた。たらり、と汗が眉間を伝う。

「紅茶はアイスとホット、どちらになさいますか?」

「あ、じゃあ、ホットで」

「かしこまりました」

ぺこりと頭を下げた彼はどうやら夢月には気づいていないようだった。小さく安堵の息をつく。

 少し前にこの店で見かけ、先ほどその存在を目視で確認していたものの、彼―――熊谷悟といざ対峙すると緊張して声が引き攣った。

(熊谷くんは…たぶん私のことわかってないよね)

別に仲良くないし、私服だし、と心の中でつぶやく。

 そのときの夢月の胸中はほとんど真反対の感情がぶつかり合って、小さなとぐろを巻いていた。


 特に意味なくメニュー表を眺めていた夢月の頭上で、先ほどまでより少し軽やかな、また華美な香りが流れた。

 ぱっと顔をあげると、悟が紅茶を注いでいた。その後ろを他の店員が通って窓際の客席へ向かう。

 夢月は唇を引き結んだまま、注がれていく明るく澄んだ紅茶を見つめていた。


 ことり、とカウンターにカップが置かれる。揺れる水面にうっすらと赤い電飾が映っていた。

「お先にアールグレイでございます」

「あ、ありがとうございます…」

そして甘い香りと共にベリームースが現れる。誕生日でもないと食べられないであろう代物にほのかな背徳感を抱いて、かすかに微笑んだ。

「ミックスベリームースでございます。また追加でご注文がございましたお声がけください」

同級生とは思えないほど落ち着いた柔らかい声にすこしだけ戸惑いつつ、軽く会釈してスプーンを手に取った。

「おいしそう…」

小さく手を合わせ、ムースにゆっくりスプーンを入れる。ふわりとしたベリームースと豊かな紅茶の香りが胸いっぱいに流れ込んできた。

 口の中で溶けるような甘さに惚れ惚れしつつ、夢月はうっとりと目を細めた。


 ぺろりと完食したムースの器を名残惜しそうに眺めながら、そっと紅茶に口を付けた。舌に残ったムースの甘味が流れていくようで、砂糖を入れればよかったと後悔する。

(紅茶なんて飲んだの、何年ぶりだろ)

夢月の家では洋菓子を食べる時も普通に麦茶や牛乳を飲むことがほとんどなので、紅茶というものを口にする機会にあまり恵まれてこなかった。どこかしらで飲んでいるとはおもうが、パッと出てこないあたり、少なくともここ数年内ではないだろう。

 紅茶の濃い香りに酔いながら、次はコーヒーにしようとぼんやり思った。


 店長のお礼を背に店をでた夢月の財布から千円札が二枚消え去り、金ぴかの小銭がやってきた。すこし重くなった財布にふぅっとため息をついたが、その顔には暖かな光が差していた。

「よっしゃ、頑張るぞー」

間延びした声とは裏腹に、彼女の足取りは軽やかだった。


***


 それから二日後、夢月はどこか緊張しながら登校した。

 接客しているときの悟はまったく自分に気づいていない様子ではあったものの、いざ学校で避けられたりしたらどうしよう、と心の内で不安に駆られていたのである。

「じゃーね」

美璃と教室の前で別れ、がらりと引き戸を開ける。その音に何人かが反応して夢月のほうを向いた。

 そのうちの仲のいい何人かに軽く挨拶する。

「おはよー」

「おはよ」「おはよう」「ぉはよー」

それぞれに返してくれる挨拶を受けつつ、自分の席まで向かった。

 鞄から教材を取り出しながら、こそりと誰にも気づかれないように悟に目を向ける。彼は眠っているのか、机に突っ伏したまま動こうとしなかった。

(なぁんだ)

つまんないの、と呟きかけて、慌てて呑み込んだ。

 悟に対して何を思っていたのか―――どんな反応を期待していたのか。自分でも自分がよくわからなかった。


 その後もしばらく観察していたが、悟が夢月に対して何かしらアクションを起こすことも、何なら何か気づいた素振りを見せることもせず、ただただ無関心だった。

 夢月はその悟の様子に見栄でもなく確かに安心していた。黙ったまま悟から目を背け、次の土曜日のことを考えていた。


***


 からん、とガラスの扉を押し開ける。コーヒーの匂いが染みついたレトロな店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

店長の声に夢月は小さく会釈して、カウンター席の一番右端に座った。それを見かねた店員のひとりが、夢月の席に近づく。彼は夢月より少し背が高く、華奢な、夢月と同じクラスの男の子。

 メニューは大体頭に入っていたし、今日からはもう贅沢は出来ないから、メニュー表を渡される前に400円のブレンドコーヒーを注文した。

「かしこまりました」

コーヒー豆を挽く音がとても心地よかった。


 注文を済ますと鞄からおもむろに文庫本を取り出し、一面の文字列上に視線を漂わせる。

 この本のページ一枚一枚に、この店の匂いが染みつけばいいのに、と心の奥底で願っていた。


 手渡されたブレンドコーヒーを口元に持っていくと、あの独特の芳醇な香りが鼻腔を刺激する。

 湯気と共に飲み込んだそれは思っていたより苦かった。


***


 土曜日の午前12時くらい。桜並木のオフィス街にあるガラス張りのカフェで、文庫本を読みながらブレンドコーヒーを飲む。

 いつのまにかそれが夢月のルーティーンになっていた。

 決して高くはないお小遣いで、毎週お洒落なカフェで振舞われるブレンドコーヒーは税込440円。


 この場、この時間だけ、夢月は悟と言葉を交わす。それは店員に対してであり、悟にとっても客に対して準備されたマニュアル。

 そのほんの一瞬間が、夢月は結構好きだった。


『それって恋じゃないのー?』

頭の中で繰り返す美璃の言葉に、夢月は何度も違うよ、と返した。


 これは恋じゃない。恋よりもずっと、抽象的で曖昧なもの。


***


「安沼さん」

ある日の放課後、帰ろうとして鞄を握った夢月を誰かが後ろから呼んだ。

 振り返ると、悟が立っていた。学校で話しかけられたのは初めてで、小さく息を呑んだ。

「…なに?」

彼は無表情のままポケットに手を突っ込んで、取り出した付箋くらいのサイズの紙をおもむろの差し出してきた。

 戸惑いつつ受け取ると、あのカフェのクーポン券だった。

「それ、うちの店のクーポンだから。俺使わねえし、よかったら」

ぶっきらぼうにそれだけ言って、悟は教室を出て行った。


 気付かれてた。


「っ…」

気付けば夢月は悟を追いかけていた。

 猫背な後ろ姿に声をかける。

「ねぇ!」

気怠そうに振り向く彼は、店員ではない、ただの男の子だった。

「私、行ってもいいの?」

夢月の言葉に悟は「はぁ?」って顔をして、「好きにすれば」とだけ言って去っていった。


 一人残された夢月は廊下に立ち尽くしながら、んふふ、と小さく笑った。

(気づかれてたんだ………ま、そりゃそうか)

くつくつと肩を震わせる夢月に、彼女と下校しようと思って待っていたのに置いてかれた美璃が不満げに言葉を投げかける。

「夢月?顔変だよ」

「それは悪口でしょ」

美璃はいたずらっぽく笑って、それから遠くに消えた悟の背中を目で追った。

「あれが熊谷くん?」

「…さぁ?」

夢月はにひひと口角を上げ、「美璃にはおしえてあげなーい」とそっぽを向いた。


 まぁとにかく、彼が嫌がってなくてよかった。


「ちょっとー!教えてよ!」

「やだよ~」

美璃から背けた顔は、ほんのり赤みを帯びていた。

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