「こんな何もないところに来てくれてありがとう」の誤り

島尾

鯖江駅にて

 ハピラインふくい。北陸新幹線の延伸にともなって新しくできたこれに乗って鯖江駅にて降車した。きっぷをカゴに入れ、改札を出る。その際見たのは


「きゃー! ひさしぶりー!」

「こんな何もないところにきてくれて、ありがとー!」


 という、かわいい女の子がかわいい声を出して抱き合う風景だった。これは2次元にすると百合に属するイラストとして成立しそうな雰囲気だった。


 しかしそんなことは正直どうでもいい。問題は、「こんな何もないところ」という言葉である。この言葉は自分の住む町を特徴がゼロの単なる田舎と断定し、卑下するときに自然に出る言葉といえよう。


 さて私がこの駅に降り立ったのは、越前漆器を買うためである。最近、漆器の美に気づいて何やら覚醒してしまった。野望として、全国津々浦々の漆器を購入し、その美をまじまじと観察・発見してその中に己の宇宙を創造することがある。おそらくこの文は中二的であり、普通に鼻で笑われうるものであり、何十年後かの自分が赤面するものの類だ。だが今、私は真にその野望を抱いている。もっと言うと、荒々しい越前海岸にも行きたいし、敦賀原発を遠方から眺めるために敦賀の赤崎という地に赴き双眼鏡でもって観察したいし、ほかにも各寺院に行ったり各港湾へ釣りに行ったり……と、したいことは湧き水のごとく出てくる。


 地元に住む人は、自分の町のことをほとんどと言ってよいほど知らないと推測する。上に挙げたように、人がまあまあ住んでいるところに何もない、などあり得ないのである。しかし私自身K県のN市という何もないところで育った田舎者で、自分の郷土に懐かしさを感ずれども愛や好感はほとんど無い。この理由は何だろうか。


 一つに、自分の町で暮らすということが、自分の家と自分の職場または学校の間を往復するということとほとんど等しいことがあるのではないだろうか。ありふれた住宅街を毎日毎日何年も往復するとなると、「つまらないものしかないエリアのものを何度も見て最終的には見飽きる」というゴールに至るだろう。そのときの感覚を表現するとき、「何もない」という冷淡な一言がかなりしっくりくるように思える。それに加えて、何がつまらないものなのかということは、その人が置かれた環境によって変わるだろう。田んぼしかない=何もない。新興住宅しかない=何もない。山しかない=何もない。……。結局、いかなる田舎であっても田舎者は自分の生まれ育った町を「何もない」と表現しがちな傾向に陥ると推測される。


 よく役人の中に「地元を活性化させるぞ!」「地元大好き!」などと誇大広告のごとく言い張る者がいる。本当にそう思っているなら構わないが、自分の町に関して何も考えずに、何も知らないくせに、固定観念に基づいてそのようなことを訴える場合がありはしまいか。そしていざ、それらの役人が自らの町を活性化させるために何らかの策を打ち出したとき、「山登りツアーをやっています!」「○○で焼き上げた◇◇肉、美味しいよ!」「移住しよう、▽▽町に」等の、よく見る田舎じみた、量産型の、魅力の薄い宣伝に帰着するだろうと内心思っている。先に書いたように、地元の人間は地元の良さに盲目となる傾向が強いと思うからだ。


 私は、旅行人の意見をかなり重要視せねばならないと思っている。旅行人は当然その地に興味を持って訪れるのだから、見たこともないその土地に降り立ちふらふら歩くうちに何らか感じるものが出てくるはずであり、その土地にずっと昔から伝わる美、あるいは最近作られた真新しい美、そういった良点を次々に見出すと思われる。その一例が私だ。地元民が「何もない」と断じた地に、素晴らしく美しい漆器を買いに来た。もしそういった旅行人よそ者の意見や提案をその町の役人が喜んで熱心に聞けば、ありきたりな町の活性化の方法は早々に除外されるかもしれないと期待する。

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「こんな何もないところに来てくれてありがとう」の誤り 島尾 @shimaoshimao

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