鏡の中の曖昧な犬
ふ、と意識を浮上させる。
朝、ソファでぼんやりとテレビを眺めていると、なんだか視線を感じる。母や父は既に仕事に出たので、この家には犬と私しかいない。ならば、犬しか視線を送るものはいないだろう。
犬が私に背を向けた状態で動かずに、鏡を見ている。いや、鏡に映る私をじっと見つめている。
この犬、鏡に映る世界が好きなのだ。毎度、鏡でまずは自分自身をゆっくり眺めてから、家族を鏡越しで見る。恐らく、反射というものを理解してはいないから、こっそり見ていると思っているのだろう。
「どうしたの?」
鏡越しの犬に話しかける。反応はない。犬は鏡の世界の虜になると、声も聞こえなくなってしまうようだった。
普通にこっちに来て、見ればいいのに。
内気な犬なので、自分から近づくことは少ない。
犬はこの家に来て12年になる。
小学五年生の夏休みの最終日に、近所のバス通りで保護された。当時はガリガリに痩せ細っていて、生きるのに必死だったのを覚えている。誰彼構わず、通行人の前で痩せ細ったお腹をひっくり返し、撫でられ待ちをしていた。ワンともスンとも吠えることはなく、自分を飼ってくれる保護者を探しているように見えた。魚肉ソーセージで誘導して、河川敷に置いてこよう、という近所の人の声を聞き、堪らなく母が引き取ったのが家に来た経緯である。その日は母の誕生日で、犬と母は毎年一緒に祝われている。保護当時は何歳かも分からなかったが、獣医さんの判断で3歳程度だと診断された。
この犬、何歳なのかも曖昧だが、何の犬種かもわからない。ハスキーと芝犬を混ぜたような見た目だが、芝犬より一回り小さい。背中にはペンキでひと塗りしたような真っ黒な縞模様がある。和犬のような体だが、キュートな洋犬顔をしている。オオカミのようにも見えるし、奈良公園にいる鹿にも似ている、気がする。千葉県で発生しているキョンのようにだって見えなくはない。母と父は、登山中にこの犬みたいな動物と遭遇したと言った。写真を見せてもらったらカモシカだった。
散歩中、近所の小学生に、なんだキツネかよ、と言葉を投げかけられ、犬自身も気まずそうな顔をしていたこともある。
ちゃんとした属名で呼ばれないこの犬は、迷惑そうな面持ちで、様々な動物として皆んなから愛されてきたし、これからも愛されていくのだ。
元々何歳で家に来ようが、もうご老体なことに変わりない。最近では散歩の距離もめっきり減ってしまったし、家の中ではおむつを履いている。おむつを履きながら、ご飯と散歩の要求だけはしっかりするので、少し可笑しい。
「なに、おやつ食べたいの?」
犬はゆっくりと振り返る。都合の良い声だけは聞こえるみたいだ。芋を寄越せ、と干し芋の入ったジプロックを凝視している。やれやれ、と犬に干し芋を与えると、犬は芋を咥えて自分の寝床にすっ飛んでいった。お前のおやつを私が取って食べるわけないだろう、ちゃんとありがとうを言いなさい、と少し説教をすると、鏡の世界の虜になっていなくても、聞こえないフリをするのだ。
老いた犬の毎日はゆっくりで、少し切ないけれど温かい。当たり前になっている温もりをずっと撫でていければいいのに、と思いながら視線を鏡にやると、またもや私を見つめていた。
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