第45話
ゾフィ=サーベラの旧姓はブロンド――元はブロンド子爵家の三女だった。
子爵家に金銭的な不自由さはなく、十五歳にして初めて足を踏み入れた社交界でも花の様に愛でられて、実に恵まれた十代はあっという間に過ぎ去って迎えた二十代――とうとう婚姻というモノが現実味を帯びてくる年頃を迎える。
通常貴族家の娘は家の発展のためにより高貴な家柄の男性に嫁ぐと相場が決まっている。実際彼女の二人の姉もそれぞれ傍流の王族と侯爵家の跡取りと定石に沿った相手に嫁いでいて、嫁ぎ先でそれぞれ子供を儲けては裕福で幸せな暮らしを送っているという話。
だからゾフィも姉たち同様に立派な家柄の殿方へ嫁いで、何不自由なく安泰な人生を送ることを望んだ。そしてそれを実現させられるだけの身分と美貌は有しているのだから、問題なく話は進んですぐに結婚する――ハズだった。
しかし、いざ蓋を開けてみれば大方の予想に反して、ゾフィの嫁ぎ先は中々決まらない。
侯爵家や伯爵家を中心に申し出でも、どこも渋い顔で首を横に振るだけ。原因は今でも分からず、分からないからこそ余計に苛立ってくる。
婚約相手を探すのに難航したまま時は流れて、遂には二十代も半ばを迎えて、それでも相手が決まらない。次第にゾフィは嫁の貰い手が無い欠陥令嬢と噂される様になっていき、その悪評はゾフィの自尊心は勿論家の名前にさえ傷をつけた。
このまま欠陥令嬢の悪評が広まるのはマズい……焦った子爵家当主たる彼女の父親は、ある決断を下す。それはゾフィを嫁に欲しいと唯一言ってきていた先々代のサーベラ男爵家当主――つまりはルカにとって祖父に当たる人物――の申し出を受けること。
つまり、ゾフィを子爵家よりも格下のサーベラ男爵家へ嫁ぐことになった。生来プライドの高い彼女はそれを激しく拒んだが、彼女の主張は一切聞き入れられず。最終的に当主たる父の命に従う形で、ゾフィは望まぬまま格下のサーベラ男爵家へと嫁ぐ羽目になった。
婚姻の経緯も、姉二人と違い格下の家に嫁いだことも、生来プライドの高い彼女にとっては耐えがたい屈辱その上、夫婦は子供を儲ける努力をするべきという貴族家のしきたりから閨事を拒否できず、否応なく格下と見下す男に身を委ねるしかない夫婦生活は彼女にとって見ず知らずの暴漢に穢されるのと大差ない恥辱に塗れたモノ。屈辱と恥辱から心に絶望を宿し、その絶望は日に日に大きくなって精神を蝕み病んでいく。でも、そんな絶望の中でもただ一つだけ細やかな希望の光はあった。
それは偏に、自分より生まれ来る子供が奇跡を宿す可能性。腹を痛めて産んだ子供が奇跡を宿せば、その 瞬間彼女は自身が抱えているあらゆる問題から解放される。砂漠の中で砂金を見つけるくらいの微かな可能性ではあるが、それでも決してゼロではない。
「ここまで艱難辛苦に耐え続けてきたのだから、それくらいの褒美はあって当然。それすらも無いとなれば、私の人生割に合わないではないか!」
自分にそう言い聞かせて、絶望の中で微かな希望の光を灯し続けて耐え忍び、やがてその忍耐が実を結んで希望の光をその身に宿す。
日常的な苦痛に加えて御産の痛みも加わった時は流石に心が折れるかと思ったが、それにも何とか耐えきり、遂に希望の象徴たる子供を――ルカを産み落としたのだが、現実はどこまでも非情で、ルカはゾフィが望む奇跡が宿していなかった。それどころか他にも問題を抱えていて、つまるところルカはゾフィからすれば望みから程遠い出来損ないでしかない。
他の些事はいざ知らず、奇跡だけは宿していてくれなければ困る。
だから、ゾフィは何度も――それこそ医師が渋面を浮かべるほど執拗に確かめさせたが、どう足掻いても結果は覆らない。結果を目の当たりにして、瞬間ゾフィは悟る。
「今まで歯を食いしばって必死に耐えて来た辛苦は報われず、一切の意味など無かった」
だが、ここまで来てもまだ彼女の不幸はまだ終わらない。
ルカが生まれた頃にはサーベラ男爵家の財政難は更に深刻化して、遂には使用人たちにも暇を出さねばならぬ状況に。そうなれば必然、生後間もないルカの面倒を見るのはゾフィしかいなくて、希望を潰した絶望の象徴でしかないルカに愛情など微塵も抱いていないゾフィにとって赤子の世話など単なるストレスの種でしかない。
日に日にストレスが溜まり、半ば自暴自棄になって鬱っぽくなっていく。
不満は微塵も発散されないどころか、逆に天井知らずに積み上がっていく。
ストレスと不満は常に苛立ちとして表面化し、限界を感じた彼女はブロンド子爵家へ援助を要請するも、取り付く島もないといった具合に淡々と断られて。それならせめてと出戻りを望んだが、それすらも聞き入れて貰えない。
男爵家にも子爵家にも理解者のいない孤立無援の状況でも、貴族としての矜持から辛うじて品格を保てていたが、財政状況が悪化し続けるサーベラ男爵家は破産も時間の問題で、もし破産となればサーベラ男爵家は後見人を務める貴族が見つかり次第に取り潰される。幸か不幸か、彼女の父たるブロンド子爵家は後見人を務めることに消極的ではあるが、何時かは圧力に屈して渋々でも受け入れるだろう。そうなれば取り潰しが始まり、財産の全てと爵位は没収。現在ですら子爵家へ戻れないゾフィは男爵家と命運を共に するしかなく、そうなれば彼女は名前でも貴族ですらなくなってしまう。
貴族であることは、彼女にとってプライドと品格を守る最後の砦。だがそれすらも、もう失われるのは時間の問題。
「そんな絶望のどん底にいた時、私は偶然キースと出会った。一目見た瞬間に惹かれたわ。端正な美貌と能無しのクズには無い力強さや逞しさに経済的な豊かさまで併せ持ち、更には知性的な振る舞いも品のある雰囲気も心得たまさに理想の男性だったから。
同時に私は、彼と出会った瞬間に運命を感じた。私は今とはまるで違う裕福で幸福な満ち足りた生活を送りたいと願い、彼は自身の手掛ける商売を更に大きくするために庇護してくれる貴族家の存在を欲していたもの。互いの利害がここまで完全に嚙み合うことは、珍しいもの。これ以上ない最大のパートナー足り得る存在に絶望的な状況下で巡り合えたことは、運命の巡り合わせか神の思し召しだと思ったわ。神が、苦痛と絶望に苛まれ続けた私に遣わしてくれた運命の相手なのだと。
だからこそ私はキースに声をかけ、彼を財務会計のコンサルタントだと称してあのクズにも紹介した。そうしたらあのバカ、ホイホイ食い付いたわ。すぐ彼との間に、彼に貴族家の特権による便宜を図る代わりに利益の一部を還元するという契約をすぐに結んで、彼の辣腕のお陰で男爵家の財政は大分持ち直して、私も漸く些かの恩恵を享受出来た。
私も彼もついでにあのバカも、皆が幸せになれる完璧な関係なのよ。だから、これで全ての問題は解決されて、全て丸く収まって皆幸福になれる……その筈だったのに」
どこか恍惚として悦に入る語り口だったが次第に憂いを帯びていって、最終盤に差し掛かれば光無くどんよりと絶望と憤りに満ちた声音へと変わっていく。喜から哀、そして怒へと目まぐるしく変わるゾフィの精神と口調は酷く不安定で不気味かつ不穏。
その語り口のまま、彼女は遂に衝撃の最期を――最も熱と、そして何より侮蔑と嘲りの籠った語り口で明かしたかっただろう真相のクライマックスを語り始めた。
「あのバカ、一丁前に私の行動を怪しみやがって! アイツ、私を密かに監視していやがったのよ! 女性のプライベートを探るなんて、ホントにクズよ! 結局私とキースの関係だけでなく、何よりも彼が取り扱うビジネスの正体まで全てを知られてしまった」
「じゃあ、知られたから殺したんですか?」
「はっ! まさか! だって、そこは別に大した問題ではないもの。無論気付かれないのがベストではあったし、一応隠していたつもりだけど、気付かれたところで困りはしない。
だって、どうせあのバカには何も出来ないからね。子爵家との関係や男爵家の今後を考えれば私と離縁は出来ないし、かといってキースを追放すればそれこそ男爵家が終わってしまう。キース抜きでは男爵家は維持できず、遅かれ早かれ窮地に陥って没落していた。キースの手腕と齎す利益なしでは男爵家を維持するのは最早不可能で、そんなことは誰の目にも明らか。流石のバカでも、そんなことは分かっていた筈だから、私の不貞やキースのビジネスを知ったところで全てを胸に留めて沈黙を決め込む以外に出来ることなど無い。流石にそれくらいの分別はあると、そう思っていたのよ?
でもねぇ! アイツは……お前の親父は……呆れるくらいに底なしのバカだったのよ! こんなことは良くないだの、家に秘密を抱えていては貴族としての誇りに傷が付くとか、そんな耳が腐るような綺麗事をほざいた挙句に全てを告発すると抜かして来やがった!」
「……だから、殺したんですか?」
「えぇ、そうよ。愛飲するワインに毒を仕込んで、呆気なくぶっ殺してやった!」
「そんな……たかがそんな理由で自分の夫を死に追いやり、貴女に悔恨は無いのですか?」
「たかが、そんな理由だと? はっ! これだけ語り聞かせてやったのに、そんな台詞?やはり、お前もアイツ同様にバカのようね。
いい? お前は二つも勘違いしている。一つ目に、あのバカは確かに戸籍上の私の夫ではある……それすら業腹モノだけど、まぁそこは事実だから認めましょう。でもね、私はあんな奴を一度として夫だと思ったことはない。私を穢した醜いクズ、使えないゴミで役立たずの出来損ない、私にとってアイツはその程度の存在で心底嫌いだった」
「そ、そんな……」
「二つ目に、お前は『そんな理由』と軽々しく口にしたけど、家を守ることも貴族家を存続させて貴族で居続けることも、どんな倫理や道徳よりも優先されて然るべきこと。
それだけ貴族という身分には、例え最底辺の男爵だとしても価値がある! だから、貴族家を存続させる障害は排除しなければ。もしもそれが当主自身だというのなら、始末しなければ。そう、私はサーベラ男爵家を思ってやったこと。私こそ、この家のことを誰よりも考えている功労者なのよ!」
狂気に満ちた演説は、締め括られた。怪物の如き哄笑と共に。
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