第43話
「遅いじゃない! 全くどこで油売っていたのよ、このバカがっ!!」
昼過ぎに家を出たルカが屋敷へ戻ったのは、日が傾いて暗くなり始めた夕方頃だった。
そうして屋敷へ戻り早々耳を劈くのは、ヒステリックな母親からの罵声――それも帰宅の遅い子供の安全を心配するが故の愛情から叱るというワケではなく、ただ家のことを放置して留守にしていたことを詰る理不尽極まりない叱責だった。
「……も、申し訳ありません」
「それに何より、堂々と正面玄関から帰って来るなんて何を考えているの? 曲がりなりにもアンタは貴族家の当主なの! そんな身分の者が、護衛も付けずに一人でこんな時間まで出歩いていると他所に知れたら……その時はサーベラ男爵家末代までの恥になるでしょうが! 少しはその足りない頭で考えなさいよ、このバカッ!」
またしてもヒステリックな怒声に、そして今度は容赦のないアンティークステッキで頭をガンガンと殴る体罰まで追加される。
頭頂部に襲い来る衝撃は、脳が揺れそうなほど。その痛みに今すぐにでも患部を押さえたい所ではあったが、しかしルカは怯むことなく母親を真っすぐ見据える。
すると、そんな視線を前に今度は母親の方が些か狼狽したような表情を浮かべて。
「……な、何よ? その反抗的な顔と態度は何なのよ? この私にそんな顔するなんて、アンタは一体何様のつもりなのよ!!」
大上段に振りかぶられたステッキの一撃が容赦なくルカの肩を襲うが、それを受けてもなお怯むことなく、ルカは強い眼差しで母親を真っすぐ見据えて。
「お母様にとってサーベラ男爵家とは何ですか? お母様にとって、僕は一体何ですか?」
「はぁ? 藪から棒に、いきなり何をワケの分からないことを――」
「答えてください! お母様は、この家と僕をどう思われているのですか?」
これまでに見たことの無いほどに真剣な眼差しと鬼気迫る表情が醸し出す迫力は、普段高圧的な母親を気押して慄かせるほど。観念した母親は、ぎこちない笑顔を貼り付けて。
「そ、それは……勿論大事よ? 大事に決まっているでしょう? 何せ愛して嫁いだ夫の家で、貴方は大事な私の子供ですもの。えぇ、大事に思っているわ」
少々震えた声に、焦点が合わずに泳ぐ目――嘘だ、ルカは瞬間そう確信する。
「その言葉に嘘が無いというのなら、お母様が新しく購入された全ての高価な家財道具や美術品の類を手放し、予定されているこの屋敷の改築工事もキャンセルして、浮いたお金を全てこの家の再建に当てられる筈ですね? 屋敷が抵当に入っているから借金の利息は払われているようですが、そのお金があれば取り上げられた男爵家の権利を買い戻すことだって叶う筈です。この家を大事と思うのなら、それくらい厭わない筈ですね?」
「そ、それは……その……」
「そして! もしも僕を子供として大事に思う――その言葉に嘘が無いのなら、僕を強く抱きしめられますよね? 世間一般の母親と同じように」
徐に両手を広げるルカだが、対して母親はまるでおぞましい害虫でも見るかのような忌々しげに蔑んだ瞳をルカに向けて。更には自身の両腕を広げるどころか、逆に自身を抱くようにして身を捩らせながら体を小刻みに震わせて。
「……い、イヤ!」
「は、母上? 今何とおっしゃい――」
「イヤよっ! じょ、冗談じゃないわ……絶対にムリよ。アンタみたいなオドオドしたガキなんか、下水溝を這いずるネズミの様にコソコソと鬱陶しいヤツなんか、あんな情けないクズの血を受け継いだ子供なんか、愛せるワケ無いでしょう! 本当は顔も見たくないのに、触れるワケないでしょっ!! 私の希望を何一つ満たせない出来損ないのグズの分際で、一丁前に愛情なんか欲しがっているんじゃないわよ、気持ち悪いっ!!!」
屋敷中に――否、屋敷を超えて周辺に轟き響かんばかりの大声明かされた彼女の本心。それは、ルカ自身が想像していたよりも数倍は激しい厭悪に満ちた侮辱の言葉の数々で。とても腹を痛めて産んだ子供へ向けるとは思えないその本音をしかと耳にした瞬間、否応なく痛感せざるを得なかった。
自分も彼女にとっては夫である筈の敬愛する父も、そしてこの家すらも……母親――いや眼前の女は、微塵も愛してなどいなかったのだと。
そしてこれまで受けて来た非道な仕打ちや理不尽の数々は、全て大事な家や自分を思っての行動だと思っていたが……蓋を開けてみればそんな擁護できる余地などない、単なる嫌悪感から来るモノでしかなかったのだと。
『無理をしてまで誠心誠意従い尽くしたとしても、その相手が貴方の味方でいてくれるとも、貴方を幸せにしてくれるとも限らない。
自分を蔑ろにしてまで誰かを尊重して優先させたところで、その誰かは貴方をそこまで大事にはしてはくれないのですよ』
昼間、レイから掛けられた言葉が脳裏に蘇る。
彼の言いたかったのは、こういうことか――瞬間、ルカの中で一つの理解があった。そして、理解と同時に襲い来るのは思慕の冷めていく感覚と諦観。
「……そうですか。よく、分かりました……」
虚ろな瞳に抑揚のない声でそう告げると、今まで必死に抑えて来た本音を吐き出してしまったことに対する驚きからか呆然とする母親の横をすり抜けて屋敷の奥のパーソナルスペースの方へと進んでいく。後ろ姿からして気の毒に思えてくるほどガックリと肩を落とした姿勢に、力ないトボトボとしたその足取りで。
戻って来たパーソナルスペースで自身のベッドの上に腰掛けるなり、ルカは下唇を強く噛み締めながらベッドを殴る。これまでにないくらいに強く拳を握って、何度も何度も。
ベッドを殴る度に、涙が流れ出して来る。良い様に利用されていたことへの悔し涙なのか、或いは嫌われていたことへのショックからか、将又そんな風に思われていたと知ってもなお母親への慕情を捨てられぬ己への怒りか、理由はルカ自身にも分からない。
しかし、幾ら涙が止めどなく流れても、嗚咽や叫びは口を突いて出てはこない。
これまでずっと、声を出して泣く度にルカは母親から体罰と受けて来たから。
「目障りで耳障りなのよ! 泣くなら黙って泣きなさい!!」
心無い罵声と体罰の中で、声を殺して泣く術を身に付けざるを得なくて。
そうして身に着けた術は何時しか癖となって根付き、結局十五年に亘った感情の発露すらも抑圧され続ける日々の中で遂には人間らしい普通の泣き方すら忘れてしまった。慰めてくれる者も、寄り添ってくれる者もいない――そんな孤独な闇の中で、唯一人目を腫らすほど激しくも不気味なほど静かに泣き続ける。
でも、あくまで声を出さないだけで内には激しい感情を秘めているのは変わらず。幾ら泣いても少しも晴れないモヤモヤした心はいつしか苛立ちへと変わり、感情のままに腕を振れば愛用の薄い枕に命中。宙を舞った枕はベッドの外へと吹き飛んで、ゴミ箱に命中してその中身を床へぶち撒ける。
ゴトンとゴミ箱が倒れる音に気付いて視線を向ければ、床に散乱するゴミの中に紙切れを見つけて。するとルカはゆっくりとベッドから立ち上がり、床に転がるくしゃくしゃの紙片を拾うとそれを広げた。
紙面に踊るのは、殴り書きに等しい些か汚い字で記された何処かの住所。そこがどこだか分からないし、前に見た時は調べようともしなかった。でも、今は違う。
「全ては僕の覚悟と、その先の選択と行動次第――でしたよね、レイさん」
目元を乱暴に擦って涙をぬぐい、泣き腫らした目に強い光を灯す。
そしてその紙切れだけを握り締めて、ルカはパーソナルスペースからゆっくりと出ていく。その足取りはここへ戻って来た時の肩をガックリと落とした覇気のない歩き方とはまるで違う、胸を張った堂々とした足取りだった。
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