第39話


「お騒がせして、申し訳ありませんでした」


 屋敷の玄関から外へ出る際に、ライラは勢い強めた言葉と共に頭を下げる。

 上官の振る舞いに部下は倣うモノで、ライラと同時にレイもまた頭を垂れた。

 すると、ただ一人見送りに来てくれたルカはオロオロと困惑した様子で。


「そ、そんな……気になさらないでください。職務での事なのですから」

「そう言って頂けると、幸いです。では、我らはこれで……」


 言い残すと、ライラは踵を返してさっさと正門の方へ。

 そんな彼女に続いてレイも門に向かって歩き出したのだが、その最中に偶然横目で捕らえた屋敷の庭に視線を奪われて思わず足を止める。


「……凄く、綺麗な庭園だ」


 思わず、率直な感想が口を突く。実際それほどまでに見事な庭で、それこそ屋敷へ入る際に見落としていたことが不思議なくらい。

 特に降り注ぐ太陽の光を浴びて輝かんばかりに瑞々しい青々とした草木と満開に咲き誇る色とりどりの鮮やかな花々は、この庭が相当丹精込めた手入れがされていることを如実に物語っていて。そんな愛とこだわりに溢れた庭の光景は一幅の絵画のようで、それこそレイの瞳には屋敷の中に飾ってあったどの絵画よりも美麗に映った。


「あ、ありがとうございます。お誉め頂けるなんて、光栄です!」

「あぁ、すみません。つい綺麗だったモノで。もしかして、アレも当主様が手入れを?」

「え? それは……えぇ、まぁ。趣味なんです、僕の」

「そうですか、それはよい趣味ですね。昔、母が言っておりました。『花を綺麗に咲かせられるのは、心優しい人の証』だと。この庭を見て、ふとそんな言葉を思い出しました」

「め、滅相も無い。私なんかが、心優しいだなんて……」


 何か後ろめたいことがありそうな弱々しい声音と共に、伏し目がちに目線を逸らすルカ。その気弱そうな様子に加えて、屋敷で見たあの扱い――半ば確信を得たレイは、ポケットから手帳とペンを取り出しては何か書き付けてから最後にそのページを乱暴に切り取って、その紙切れを小さく折ってからルカの方へツカツカと歩み寄る。


「……あの、何か?」


 困惑するルカの小さな華奢で細い手を、レイは膝を折りつつ両手でギュッと握り。


「失礼ながら、一言だけ。止まない雨はありません。終わりは、何時か必ず来るものです。ですが、終わるまでずっと身を縮こまらせて耐えることが、賢い選択だとは限りませんよ。心は、案外脆いのです。だから、終わりまで耐えられる保証すらどこにもない」

「えっ? あの……」

「時には、その手で幕を引く決断も必要かと。全ては貴方の覚悟と、その先の選択と行動次第。他の誰でもない貴方が満足できる結末となることを、細やかながら祈っております」


 誰にも――屋敷の中の二人は勿論、近くにいるライラにすら聞こえないくらい、小さな囁くような声。だが、そんな声でもルカにはきちんと届いているようで、目を見開いて動揺を隠せないながらも思案顔。

 そんなルカを他所に、レイは言い終えるなりスクッと立ち上がり。


「助けが必要ならば、いつでもどうぞ。我々警察官とは、そういう者ですから」


 言い残して、去っていく。

 突然のことに困惑し、呆けるルカ。しかし、レイに握られた手に違和感があって。

 その掌を広げてみれば、そこには先程レイが何か書き付けていた手帳の切れ端。

手を取られた時に、抜け目なく握らせていたのだろう。その切れ端を広げてみれば、どこかの住所が記載されていて。

 それがどこだが、地理に疎いルカには分からない。でも、最後に口にしたセリフを踏まえて考えれば、きっとそこに自分がいるということなのだろう。

 尤も、ルカの心に残ったのは、その最後のセリフではなかったようではあるが。


「覚悟と、その先の選択と行動? 覚悟……覚悟があれば、終わりに出来る?」


 握る切れ端には目もくれず、遠ざかっているレイの背中を見つめながらぼんやりとした口調でそう呟く。だが、すぐにハッとした表情を浮かべると、雑念を払うように頭をブンブンと横に振って。


「いいや、そんな筈ない……そんな筈ないんだ。だって、僕は……こうするしかないから」


 下唇を噛み締めて、悔しそうな表情。

 そして紙をその手でクシャッと強く握っては、ズボンのポケットに押し込んで、トボトボとした足取りで踵を返して屋敷の方へと戻って行った。

 屋敷の中に入るとすぐさま夫人の執務室へ。用件が無ければ寄るなと言われているが、先ほど夫人が割ったグラスを片付けなければならないから戻るしかない。当の夫人は一切家のことをしないため、こういう後片付けもルカの役目となっているのだから。


「……戻しました。お客様は、無事にお帰りに――」

「遅いわよ! 見送りだけで何モタモタしていたのよ、このバカ!」


 報告も程々に、執務室へ入るなり早々に甲高い罵声が響いて。

 同時に飛んでくるアンティークステッキによる殴打の一撃はルカの肩に命中して、華奢な少年は患部を押さえつつその場に崩れ落ちる。


「まったく、ホント何も出来なくて使えない! 役立たずぶりは、あの人譲りね」

「まぁそう言ってやるなよ、ゾフィ。蛙の子は蛙っていうだろ? つまりは、能無しの子は能無しってことだ。でもな、能無しは能無しなりに頑張ってんだって」


 憤懣やるかたなしと言わんばかりの夫人。そのファーストネームを軽々しく口にしては、馴れ馴れしい口調でキースは宥める。

 すると夫人は、深く嘆息。


「キース……ホントに、貴方は甘やかし過ぎよ。能無しなら能無しらしく、身の程ってモノを自覚させないと」

「おいおい。甘いのは、俺のイイところだろ? 俺は誰にだって甘々さ、だって皆それを望んでいるんだから。けどまぁ、誰にでも甘い俺が殊更に甘やかすのはお前だけだよ」

「それは! まぁ、そうだけど……」

「それに、身の程ならキチンと自覚しているさ。なぁ、そうだろ? ご当主様?」


 屈んでは、心底人を見下したような軽薄な物言いと共にルカの頭を撫でるキース。

 しかし、その顔に浮かんだ笑みは醜悪でおぞましく。恐怖すら覚える不気味なその笑顔にルカは震えながら首を縦に振るしかない。すると、キースはご満悦の表情。


「ほら、分かってるってさ。大丈夫だって! こいつは能無しでも、いい子なんだからな。さて、じゃあとりあえずそのゴミを片付けてくれ。水気も拭き取れよ、当主様?」

「……はい」


 静かに首肯して、そして床に散らばったガラス片を掃除用具など使わずに片付け始める。でも、痛めた肩は思うように動かず、そんな不自由さの中で破片を素手で触れ老モノならば、必然起こりうる。


「――痛っ!?」


 じんわりと痛む指先を見れば皮膚が裂けていて、傷口から血が溢れ出す。

 結構深く切ってしまったようで、ルカの血は床にぽたりと滴り落ちた。


「バカッ! 何余計に汚してくれてんのよ、この役立たず!」


 ケガをした実の息子に対して、母であるゾフィが口にするのは労りではなく罵詈雑言。

 家族――とりわけ母親に言われると心が抉られる辛辣な暴言の数々と、同時に受ける容赦のない鈍器による暴力。それからせめて襲い来る心無い暴力から必死に頭を守りつつ、ささくれ立った母の心を落ち着かせようと半ば反射的に謝罪の言葉を口にするが……その隙に見えてしまったのは、自身を見下し蔑むようなキースの視線。


「惰弱で情けない、世間知らずな貴族の坊ちゃん」


 言葉でそう言い放たれたワケではない。

 でも普段温和を装うその顔に張り付いた冷笑が、言外に匂わせてくるのだ。

貴族でありながら、どこの馬の骨とも知れない一般人に露骨に見下されて嘲笑われる。誇りを重んじる者からすれば――否、貴族出なくとも耐え難い苦痛にして、屈辱の極み。

 だが、キースの評価は間違っておらず、事実この状況にルカはどうしていいのかが分からない。それはまだ十五歳の少年だから、家の実権を全て握られているから、先代当主である父が死んでから始まったこの地獄に染まり過ぎてしまったから、理由は色々ある。

 ともかくルカは、何もかもを知らず。ただ好き放題やられる中で耐える以外に一切の術も策も持たない。


「もういい、さっさと出ていけ! ウジウジとしたグズが……目障りなのよ、お前は!」


 ルカへの暴力と暴言に飽きたのか。夫人はヒステリック気味に叫んでは、力任せに部屋から文字通りルカを押し出して。

 バンッ! 大きな音を立てて閉まった立派な扉は、まるで母子の心の隔たりそのものを表しているかのように不気味な圧を放ちながら聳え立つ。


「……くっ!」


 受けた仕打ちと、明確な拒絶の行動。慰めてくれる者も、労わってくれる者もいない。支えも無く心から泣きそうになるのを必死に我慢して、ルカはトボトボと自室へ戻る。

 惨めな足取りでやって来たのは、広い屋敷の中でも最奥の一角。日も当たらなくて年中ジメジメとして陰気な雰囲気のそこは、壁一枚隔てた向こうは外ということもあってか気候の影響を大きく受ける。夏の暑さも冬の寒さも直にその身に襲い掛かって来るため、年中通してお世辞にも過ごしやすいとは言えない場所。

 当主である筈のルカに宛がわれたその『過ごし辛い』場所こそが、今のルカにとって名義上とはいえ自身が所有者である筈の屋敷の中で一番落ち着ける『過ごしやすい』場所になってしまっているのは、何とも皮肉としか言いようがない。


「……はぁ」


 幸の薄そうな嘆息と共に、普段横になっているベッドに腰を下ろす。

 ギシッ……と響く音が、貴族家当主の寝床とは思えない粗末さを物語っているのだが、当の本人は普段通りのことなのでもう気にもしていない。いや、常日頃から様々な事情に煩わされていて、そんな些事など端から思考の枠より抜け落ちている――というべきか。


「……我慢しなきゃ……我慢しなきゃ、我慢しなきゃ、我慢しなきゃ……我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ我慢だ……」


 そしてルカは、一人になると決まってこうして膝を抱えながら小さく丸まって同じ言葉を呟く。小さな声でこっそりと、誰にも聞かれないように。

 それは詰まるところ、人目を盗んで行われるいっそ哀れ思えてくるくらいに惨めな自慰行為なワケで。当然これが無様で情けないことはルカ自身が一番自覚していることであるが、一方で今の彼にはこんなことしか自由はない。

 その窮屈さは『針の筵』などという言葉ですらまだ生温く、同時にそれは吹けば容易く飛ばされてしまいそうなほど危ういルカの身上そのものを暗示しているかのよう。でも、そんな行為に縋らなければならないほどに今のルカは追い詰められていて、そして一頻り我慢詠唱を終えた後はいつも必ず。


「これが、家のためなんだ……父様から受け継いだサーベラ男爵家のために、僕は耐えなきゃいけないんだ。そうだ、いつか……いつか必ず、僕が正式に当主となれば我慢も終わる。二人とも協力してくれる。だからそれまでは、我慢だ……我慢を、続けなくちゃ……」


 ぎこちなく引き攣った笑みを浮かべつつ暗く淀んだ声音で吐き出すそれは、現実を受け入れるための暗示か、或いは終わりがあるという希望を再認識するための儀式か。

 何にせよこのルーティーンによって心の不安を落ち着けることで日々をやり過ごしてきたのだが、何故だか今日は不意に涙が零れて来てしまって。目を腫らしているところを二人に見られては絶対に文句を言われてしまうので、不味いと目元を乱暴に擦るがそれでも涙は止まらない。ティッシュかハンカチでもないかと、焦りながら自身のポケットを慌てて漁って――するとルカは、レイから渡されたあの紙切れを取り出していた。


『終わるまでずっと身を縮こまらせて耐えることが、賢い選択だとは限りませんよ』


 不意に、帰り際に聞いたレイの言葉が頭の中に蘇った。

 

『全ては貴方の覚悟と、その先の選択と行動次第です』


 また別の言葉が、またしても蘇って来る。

 しかし、そんな言葉たちを振り払うようにブンブンと強く頭を振って。


「ぶ、部外者の言葉になんか流されない。僕には……僕には、こうするしかないんだ! 家を守るためには、母上とキースさんの力が必要なんだ! 機嫌を損ねるワケにはいかない……僕は、間違ってない!」


 癇癪交じりに叫んで手にした紙切れを中身も見ぬまま適当に丸めて放れば、綺麗な放物線を描いでゴミ箱へ。しかし、そんなことをしても心の無聊はまるで慰められることなど無く、寧ろ何故かさらに悪化していって熱い涙として表出してしまう。

 暴力と暴言による苦痛と見下される屈辱を、それでもどうにか飲み下そうとして無理をする――大の大人でもそうそう容易く出来ることではないそんな芸当を、多感な少年の心とは思えないほどの強靭な精神で実現してきたが、不意に駆けられた気遣いの言葉を思い出してはその動揺から不意に氾濫してしまったのだろう。

 何とか止めようと試みるも結局止まらず、身の上を嘆く悲しみの涙はその後も暫く止む気配は無く溢れ続けた。

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