第35話
スラム街での一件を終えてから三日、レイはアクロブルクのRSP本部へ戻った。
「お疲れ様」
オフィスへ戻りデスクに着席するなり、ライラから労いの言葉と共に湯気の立ったティーカップを差し出される。人当たりの良さそうな、感じの良い笑顔を添えて。
そんな振舞は三カ月前までは一度も見られなかったもので、レイは思わず面喰う。
「何よ? その反応は」
「いや、別に。ただ少し違和感が……どういう心境の変化ですか?」
「う、うるさいわね! いいでしょ、別に。……まぁ、色々と思うところがあったのよ」
顔を若干紅潮させて、しかしそれを隠すようにライラはレイから目を逸らす。
思うところとは、三カ月前のあの一件に原因があることは恐らく間違いなくて、そこから反省して己が行動を振り返り改めた結果というところか。
そう考えると、何ともまたいじらしい話ではないか。自然と頬が緩んだ穏やかな笑みを湛えて、差し出されたティーカップを受け取ってはデスクの上へそっと置く。
「……何よ、その姪っ子の成長を微笑ましく見守る親戚の叔父みたいな優しげな笑みは」
「おぉ! 中々的確な例えですね。でも、まだ叔父さんって年齢ではないですけどね。それに何より、姪っ子というには些か以上に……その……ねっ!」
つま先から頭の先まで見た上で、敢えて言葉を濁してみる。
するとライラの表情は瞬く間にムスッとした表情。そして張り上げた「このっ!」という怒りの声と共に、レイの向う脛を思いっ切りブーツのつま先で蹴る。
「痛ぁっ!? ちょっ、何するんですか!」
「バカにされた感じがして、ちょっとイラっとしてね」
「その暴力気質だけは、三カ月経っても治って無かったんですね」
「君こそ、この三カ月でその減らず口は治らなかったようね? 仕方ないから、躾としてもう一発蹴りを入れてあげましょうか? そうねぇ……次は顎とかどう?」
「どうじゃないですよ、完全な傷害じゃないですか! ちょっ! わ、分かった……分かりました! 分かりましたから、蹴りの体勢取らないで! 本気でやりそうだから!」
レイの懇願に、ライラは「ふんっ!」と意地悪く漏らして腕組仁王立ち。
その様子にやれやれと零しつつ、レイは徐にデスク上のティーカップに口を付ける。
「……あら? 美味しい」
紅茶が口に含み喉を通った瞬間に、予想以上の美味さに素直な感想が思わず口を突いて出た。何の飾り気も無い完全なる本音で、その言葉にライラはどこか気恥ずかしそう。
「そういえば、淹れたことなかったっけ?」
「あぁ、そういえばそうですね。今日初めて頂きました」
「……そう」
紅潮した顔を見られないようになのか、そそくさとそっぽを向いては自身のデスクに戻っていくライラ。しかし、デスク上から何やら書類を手に取るなり、すぐに戻って来ては。
「来て早々で悪いけど、もう出かけるわよ。行く先があるから」
そう言って、レイにその書類を差し出す。文面を見れば捜査を許可する令状で、対象者の欄にはスラム街の調査で疑惑が浮上したサーベラ男爵家の現当主たる少年の名前。通話時には「レイが戻るまでには取得は厳しいだろう」と零していた筈なのに。予期せぬ現物の登場に、思わずレイも面喰ってしまう。
「えっ? 男爵家とのコンタクトがもうとれたんですか? この三日の間で?」
「まぁ、そこは天下りの温しょ――じゃなかった、国家権力のRSPってところかしらね。私含め、上級捜査官は貴族家と繋がりの深い者ばかりだもの。
上級捜査官の何人かに頭下げて、助力を請えばこの通りってワケ。まぁ、相手が男爵家だから上手く事が運んだけど、流石に王族の分家筋とか格式高い公爵家とかが相手なら無理だったでしょうね。皆ビビって、絶対に協力してくれなかったでしょうからね」
答えるライラの声音は、どこか疲労と苦労の色が滲んでいて。
何より、サラッと口にしているが――それは今までのライラの性格やスタンスからは到底あり得ない振る舞いで。相当腹を括って行動したこと、またかなりの厭味や罵声をこれでもかと浴びせられてもグッと耐えて事態に当たっただろうことは、容易に想像できる。
僅か三カ月の間に、彼女は精神的に見違えるような変化を遂げていた。
それは恐らく、大きな失敗とそれに対する激しい自省の結果によるもの。そこは素直に尊敬してしまう部分ではある。
だが、同時に。
「……大丈夫ですか、ライラさん。無理、していませんか?」
その心境の大き過ぎる変化は、不安すら覚えるレベルで、つい恐る恐る問うてしまう。するとライラは、くるりと振り返って。
「寧ろ、今までの私が無理をしなさ過ぎたのよ。自分本位に、楽に、事を進めようとし過ぎた。他者を顧みず、蔑ろにし続けて、結果足元を掬われて失敗してしまった。通用しないと分かったのなら、現実をきちんと受け止めて変えないと。それに、失敗の原因をたまたまだの、運が悪かっただの、そんな言い訳で済ますのは我慢できないしね。それだけよ」
「……ライラさん」
痛ましいその言に、レイは渋面を禁じ得ない。
しかし、そんなレイの背中を、ライラはドンッと叩いて。
「そんな景気悪そうな顔しないでよ。私は大丈夫だから。それに、私が部下に強要した苦労を当の私がしないでどうするの?」
「…………えっ?」
「君は、私と同じ苦労――いいえ、私なんかよりも大きな苦労をもう体験している筈よ。私はただ、スタンスとか振る舞いとか、そんな些細なモノを変えただけ。でも君は、生き方そのものを変えているでしょう? まぁ、私が唆したからだけど。でも、今までの人生を全て否定して、針の筵に座りながら一から人生をやり直している。それは、凄いことだと思う。そんな君が噛み締めた辛苦を、私も今になって少しだけ理解できた気がする。
言うは易し、なんてよくいったモノね。私は、何も知らずに口先だけだった。ごめんね、レイ」
「そんな……謝らないでください。今の俺は、貴女が作ってくれた。そんな俺を、俺は満足していますから」
「……………………それは、お互い様ね」
ぼそっと呟かれたその言葉。しかしそれは、レイの耳には朧げな音としか届かなくて。
「えっ? 今、何か言いましたか? ちょっと聞き取れなくて」
「さぁね。さてと! 世間話はこの辺で終わりにて、そろそろ行くわよ。それとも何? もしかして私の努力を無駄にする気かしら?」
「えっ? いや、そんなつもりは――って、ちょっと待ってくださいってば!」
そそくさと先を行くライラに、レイは慌ててティーカップの中身を喉に流し込んでは後を追おうとする。しかし、慌てて飲んだ紅茶は喉の変な方に入って。
「げほっ! げほっ!」
「何やってんのよ、もう!」
咽て激しく咳込むレイの背中を、ライラはさすりながら呆れ顔。
するとレイは「すみません……」と零しつつ。
「残したら勿体ないと思いまして」
空のティーカップを手に、笑顔で臆面もなく堂々と答えて見せる。
これには、逆にライラの方がどこか気恥ずかしそうな表情を浮かべて。
「まったく、ホントバカなんだから」
「い、言い過ぎでは?」
「……そんなの、今後幾らでも用意してあげるわよ」
「えっ? ホントですか?」
「そんなつまらない冗談なんか言わないわよ。分かったらほら、さっさと行くわよ!」
「はいっ!」
元来、ライラは他者を思いやる性根を持っている。そしてリリーエラの取り調べをレイに任せたことを始めとして、その性根はこれまでにも幾度か垣間見えていた。
それが、こうして堂々と顔を出すようになった。確かにそれは、良い傾向かも知れない。そんなことを考えていたせいか。スタスタと先を歩いていくライラの後を追い掛けるレイの足取りはこれまでの人生で一二を争うほどに軽かった。
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