第14話
翌朝。レイとライラは揃って家を出た。
空がすっかり白んでいるとはいえ、まだ朝早い時間帯。その上、普段からあまり人の多くない通り。故に目に付く人通りは皆無と言ってよく、目に付くのは精々小鳥くらいか。そんな閑静な通りに。
「……へっ……へくちっ!」
恥じらいからだろうか懸命に抑えたライラのくしゃみが、無情にも木霊する。
その音にビックリしたのだろう。名前も分からぬ小鳥がバサバサと飛び去って行ったのだが、今のライラは寒さと羞恥でそれどころではないらしく。ただ、純白のコートに身を縮こまらせて、些か紅潮した顔を隠すようにマフラーで顔の下半分を隠す。
「あぁ、寒っ! これだから冬は嫌いなのよねぇ……というか、うぅ……頭いたーい」
マフラーの隙間から白い息と共に漏れるのは、心底辛そうな声音でのぼやき。
そんなライラに、レイはそっと自宅から用意してきた水筒を差し出す。
「ん? 何よ、これ?」
「良ければどうぞ」
しかし、差し出した水筒をライラが受け取る様子はなく。
見ればライラは、瞳を大きく見開いた不思議そうな顔でレイと水筒を交互に見ている。
「……どうかしましたか? それとも要らないんですか?」
「あぁ、いえ……ありがとう。頂くわ」
おずおずとした様子ながら水筒を受け取ったライラは、恐る恐る水筒の中身を口にして。
「……温かい」
「それはまぁ、白湯ですからね。今日は寒いですし、何より二日酔いに効くと聞きまして」
レイがそう答えると、ライラは再度硬直。遂には歩く足すら止める。
「さっきから、どうしました? ちょくちょく足が止まっていますが」
「わざわざ用意してくれたの? 私のために?」
「えぇ、まぁ。引くぐらいお酒飲んでいましたからね、二日酔いは確実だろうと」
「……ふぅん」
小さく呟きながら、再度白湯に口を付ける。穏やかで嫋やかな微笑を浮かべつつ。
しかし、その笑みをレイに見られてなるものかと、こっそりと隠す。
「……ま、まぁまぁな気遣いね。少しだけ褒めてあげるわ」
「そこは素直に、『ありがとう』と言ってくれませんか?」
「それ、意趣返しのつもり? 全く、可愛げないこと言っちゃって」
「えぇ? 別にそんなつもり――はっ、ハクションッ!」
相変わらず閑散とした通りに、今度はレイのくしゃみが木霊する。
鼻を啜りながら、「寒っ……」と漏らしつつ震えるレイ。
「風邪引いたんじゃないの? まぁ、寒い玄関なんかで寝ていればそうなるわよ。というか、何であんなところで寝ていたワケ?」
「それは! まぁ、色々ありまして……」
ライラとローランが犬猿の仲であることを知るレイの口から、昨日ローランが家を訪れていたことなど喋るワケにはいかない。
まして、ローランの相手が疲れて動くのが億劫になったから、等と言える筈もない。だが、かといって上手い言い訳も思い付かず。ただ目を反らして口籠るだけ。
そんな不自然極まりない姿から、ライラはレイに話す気は無いのだと悟ったのだろう。
「……まぁ、いいわ。無理には聞かないでおいてあげる」
嘆息交じりの呟き。これにレイが、内心ほっと胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。
「それより、寒いならこうしましょうか?」
急に話を変えて来たかと思えば、突然レイの肩にしな垂れ掛かって、レイの腕に自身の腕を絡ませるライラ。その姿はまさに、街中でどうどうと見せつけてくるカップルの如し。
仕掛けたライラは無論乗り気なのだが、一方レイには困惑の種でしかないワケで。
「……あの、これは一体?」
「ん? 暖を取るなら人肌が一番かと思って。なら、こうするのが一番でしょ?」
「そうかも知れませんけど……目立ちますよ?」
「いいじゃない、別に。それに、もうどうせ目立っているわよ。嫌われ者として、ね」
「それは……まぁ、そうかも知れませんけど」
「なら、今更多少目立ったところでさして変わらないって。ほら、行くわよ!」
「あっ、ちょっと! いきなり歩く速度上げないでくださいよ……」
やけに乗り気のライラ。この様子では、もう何を言っても聞きはしないな。感覚でそう判断したレイは嘆息交じりに諦めて、ライラの望むまま腕を組んで歩く。
感想としては正直かなり歩き辛く、また正直かなり気恥ずかしい。
しかし、一方で不思議とそこまで悪い気もしない。
それはきっと、誰かと寄り添って歩くのが久方ぶりなのと無関係ではないのだろう。レイがこんな風に誰かと寄り添って歩くのは、記憶にある限りで十数年ぶりなのだから。
そう、悪い気はしない。けれど、そんな風にライラに思わせるのは、なんとなく癪。だからこそ、レイは頬が緩みそうになるのをライラには隠しながら歩き続けていった。久しぶりの、暖かな温もりを噛み締めながら。
◇
腕を組んで歩くこと、数十分。その頃には、腕を組む気恥ずかしさもすっかり消えて。
それこそ、大きな通りで目に付く人の数も増えて来ても特段何も感じないようになっていた。だが、それもあくまで知らない人ばかりの通りを歩いている間の話。
とうとう見慣れた庁舎が見えて来て、流石にレイは腕を解こうとしたのだが。
「ねぇ? このまま庁舎に入りましょうか?」
気が大きくなったのか、まさかのライラから耳を疑う突拍子もない提案。
これには思わず、レイも困惑顔で。
「えっ? いや、流石にそれは――」
「いいじゃない。ほら、さっさと行くわよ!」
「あっ! ちょっと!」
結局、ライラの引き摺られる様にして庁舎に向かって堂々と歩んでいく。
そして宣言通り、本当にライラはレイと腕を組んだまま庁舎の中にまで入って行く。
大勢の同僚の視線を絶えず浴びて流石に恥じらうレイだが、一方のライラは実に堂々たる有様。浴びせられる数多の好奇の視線の中でも背筋を伸ばし歩く姿に一片の迷いもない。その威風堂々たる様は、間近で見ているレイが内心惚れ惚れしてしまうほど。
しかし、流石に何時までもそうしてはいられない。
正面玄関突き当りの大階段前まで辿り着いたところで。
「……もう、そろそろいいですか?」
「何よ、素っ気ないわねぇ。そんなに不満なの?」
「いや、流石に少し恥ずかしいですし、それに……」
「……? それに?」
「ちょっと、お手洗いに行きたいので」
確かに、少し身震い気味のレイ。てっきり寒さか羞恥故で、内心実はそこも可愛いと思っていたライラだが……どうやら相当大きな勘違いをしていたらしい。
「……あぁ、それはごめんなさい」
大人しくレイから放れるライラ。
他方、解放されたレイは何事も無い真顔でライラを見据えると。
「では、ここで。後ほど一度オフィスへ寄って、それからリリーエラの牢へ向かいます」
「分かったわ。念のため言っておくけど、しっかり頼むわよ?」
「心得ていますよ。では!」
短く答えて、レイは足早に階段を駆け上がっていく。
そんなレイの段々と小さくなっていく背中をぼんやりと見つめつつ、ふと自然と手を振っていたライラ。そして、遂にレイの姿が上階へ完全に見えなくなったところで。
「はっ! 見せつけやがって。当てつけのつもりか、あのパワハラ女」
「ホント、感じ悪いわね。しかもあの子、五年前の事件の加害者だって噂よ?」
「五年前の事件って、あの?」
「そう! つまりアイツは非国民。それをあのパワハライラ様が無理矢理入れたんだとさ」
「えぇ!? それって、職権乱用じゃない? うわぁ……そこまでする?」
「まぁ、人の好みはそれぞれだから。にしても、全くムカつくぜ! 俺たち真っ当な捜査官の部下は平気な顔して使い潰す癖に、非国民は可愛がるとか最低。マジで気持ち悪っ!」
周囲からボソボソと聞こえる、嘲笑と侮蔑の声。
聞こえないように言っているつもりらしいが、今のライラの耳にはしかと届いている。不快感から、その藍の瞳を細めた咎める目で睨めば。
「おぉ、こわっ! 睨んでいるぜ、パワハライラ様が」
「しっ! あれでも上級捜査官よ? 目を付けられたら堪らないって」
「だな。触らぬライラ様に祟りナシ、ってな。ささ、逃げるとしようぜ」
「あーあ、そんなに非国民が好きなら自分も非国民の仲間入りをすればいいのにね」
「言えているな。どうせ脛は傷だらけだろうし、何ならもう仲間でしょ!」
口振りからして確証の無い憶測を好き放題呟きつつも、そそくさと視線を反らし。
挙句にいそいそと逃げるように、足早にその場から去っていく。
ライラの振舞に、問題がないとは言わない。故に文句や不満に嫌悪感と、もしかしたら嫉妬だって抱かせているかも知れない。溜まりに溜まった負の感情、しかしそれを正面からライラに向ける度胸と勇気など彼らにはない。だからこその、実に姑息で卑劣な手法。
無論これは、今日に限った話ではない。気にしてもキリがないので、普段であれば極力気にしないよう無視を決め込んでいるのだが……生憎と今日は折角のいい気分だったところに水を差されて台無しにされた格好。苛立ちが急に沸き起こって、一際耳障りな文句を言っていた数名を捕まえて厭味の一つか恫喝の一つでもぶつけてやりたい気分に駆られる。
だが、苛立ちと残酷な気分を抱えたまま、狙いを定めた者たちへ向かって一歩を踏み出した――その瞬間のことだった。
「ラーイラちゃん! おっはよぅ!」
突如、背後に走る衝撃。思わず「のわっ!」と少々情けない声が漏れる。
何かと思って振り返れば、そこにはウエストに腕を回してがっしりと抱き着く小柄な女性の姿。眼鏡と茶髪に雀斑が印象的なその見慣れた顔に、ライラは思わず目を丸くする。
「ろ、ローラ? 何よ、いきなり?」
「いきなりじゃないでしょうが。ちゃんと先に『おはよう』って言ったじゃん!」
「いや、ほぼ同時だったでしょうが! で? 何? 放してくれない? 今取り込み中」
「うわっ、機嫌悪ぅ……ん? おや? おやおやおやおやぁ?」
抱き着いた体勢のまま、小柄な女性――ローラの腕は小気味よいリズムを刻みながら少しずつ上がっていき。やがてその手は、服の上からライラの胸部を抱き寄せる格好になる。
「ふーむ……またちょっと大きくなったんじゃいかい? 全く、けしからん。検挙だ!」
「ちょっ! 何してんのよ、アンタは!」
「ぐへへ。恥じらう顔も、また絵になりますなぁ」
「こ、こんのぉ……」
「怒んな怒んな! まぁ、良いではないか~良いではないかぁ~」
「良いワケあるか! というか、喜色悪い笑い声上げるな! って、あぁ!」
ローラに気を取られた一瞬の隙に、狙いを定めた連中は全員何処かへと姿を消していた。
無論同じ庁舎内だ。調べようと思えば調べられるが……生憎と上級捜査官はそこまでしていられるほど暇ではないし、何より探し出して文句を言おうにも現行犯でなければ証拠はない。詰め寄ったところで水掛け論になり、最終的にパワハラ認定されて終わりだろう。立場のある者は、そういう時に辛い。ライラは最初で最後のチャンスを逃してしまった。
「……くそっ! 逃げられた」
「あーらら、残念だったねぇ。自分が捕まったばっかりに」
「捕まえた本人が言う? というかアンタ、私が何をするか先読みして邪魔したでしょ?」
「さーて、何のことやら? ふひゅ~かひゅ~」
「吹けてないっての! というか、いい加減放れて。何時まで人の胸を触っているの?」
「あぁん……ライラはんのいけず」
「どこの方言よ? ったく、アンタって子は」
ローラの額に、デコピンをお見舞い。するとローラは「痛っ!」と漏らしつつも、またしても「ぐへへ……」と締まりのない恍惚とした笑顔。ドン引きしたような表情を見せたライラは、溜息を残してそそくさと彼女に背を向けて歩き出す。
「あれぇ? どこ行くのぉ?」
「決まっているでしょ? オフィスよ。ここは職場で、仕事しに来たんだから」
「あらぁ……熱心だねぇ。いつからそんな仕事熱心になったの?」
「昔からよ。こう見えて真面目なの。貴女と違ってね」
「えへへ、それほどでもぉ……まぁ? 仕事の成果と傾ける熱量の無さのアンバランスさにおいて、この天才ローラ様の右に出るモノは居ないと言っても過言ではないからね!」
「褒めてないし、自慢できることでも無いでしょうが……ったく!」
「まぁ、それはそうとライラちゃん?」
「まだ何か? 私忙しんだけど」
「忙しいなら猶の事、今から遊びに来ないかい? この天才ローラ様の研究室まで」
「……はぁ?」
予想だにしない提案に、ライラは思わず怪訝な顔で。
「何言っているの? 忙しいって言ったでしょ? 行くワケ無いでしょうが」
「えぇ……どうしても?」
「行かないってば!」
「頼まれたあのリリーエラって子のデータ、頑張って短時間で用意してあげたのに?」
「……ぐっ! そ、その節はどうもありがとう」
眉間に深い皺を寄せた苦々しい表情で、嫌々ながらも感謝の言を口にするライラ。
しかしそんなライラに、ローラはニヤリと笑みを浮かべると。
「あーあ……他にも色々と、手伝ってあげたのになぁ。戸籍の変更とかぁ、裁判記録の拝借とかぁ。でも、そっかぁ。ライラちゃんは、そんな大恩人であるローラちゃんのお願いも聞いてくれないのかぁ。じゃあもう、何も手伝ってあーげないっ!」
頬を膨らませて、ふいっとそっぽを向くローラ。これにはライラも渋い顔を禁じ得ない。
派閥的な動きも皆無な上に、上席から一般職員に至るまでの庁内のほぼ大半が敵となっているにも関わらず成果を上げるライラは、必然的に何かと嫌がらせを受けることも多く。それは必要備品の使用許可に情報へのアクセス権など、実務に影響のある面にも及ぶ。
人望の無さからくる制約で雁字搦めの彼女だが、その行動を庁内で補助してくれている人物が三人だけ存在する。部下たるレイと実父にして唯一忠実に従っている長官のロイドクルス、そして最後の一人が唯一の友人と言っていいローラ。
実務面ではレイと権限の面でのロイドクルスに並び、情報や備品といった面でのローラのサポートはライラにとって重要。この三人がいるからこそ、庁内で人望の薄いライラが問題なく行動出来ていると言ってもいい。つまりライラにとっては彼女の機嫌を些末なことで損ねるのが多大な損失で、それこそ業務が立ち行かなり得る可能性すらある。
他方、その容貌と振る舞いから見て分かる通り、ローラは紛れも無い変人変態気質。そんな彼女の研究室などにノコノコ足を運べば、一体どうなるか……知れたモノではない。
実利とリスクの両方を脳内で緻密かつ慎重に天秤にかけて、ライラは結論を導き出す。
「……ぐっ! わ、分かったわよ。行くわよ。行けばいいんでしょ?」
「そう来なくっちゃ! ささ、一名様ごあんなーい!」
「ちょっ! 押さないでよ。自分で歩けるから」
ぐるりと背後に回っては、ライラの背中をぐいぐいと押して連行するローラ。
そしてあれよあれよという間にエレベーターに乗せられて、ローラによって二人だけのエレベーターが閉じられていく。この段階で、既にライラは身の危険を感じている。
さて、通常であればこの後は操作盤の中から目的階のボタンを押すワケだが……あろうことか、ここでローラは慣れた手つきで操作盤の下部に設置されたカバーを外して。すると露出する、秘匿された地下五階から十階までの押しボタン。その中で、ローラは迷いなく地下六階のボタンを押し、するとエレベーターはゆっくりと下降し始めた。
「毎回毎回カバー外すの、面倒じゃない? しかも他に同乗者いると使えないでしょ?」
「まぁね。そこが天才の辛いところさ。何せ私の研究は、数多機密が集まるこの職場の中でもトップ・オブ・トップシークレットだからね。セキュリティ保持のためにも、多少不便になるのは致し方なしってことさ」
「相変わらず大した自信ね、本当に。で? あんな強引に呼び出して、今日は一体何の用? 身体検査なら、前に受けたでしょ?」
「いやぁ、それが前回胸囲の測定を忘れたことを思い出してさぁ。そこで今日は、じっくりと胸囲測定を触診で行おうかと。……ぐへへへへ!」
「……帰っていいかしら?」
「大丈夫だって! 最後には必ず可愛く『来てよかった』って言わせてみせるからさ」
「冗談でしょ。寧ろ逆に『来なきゃよかった』っていう自信しかないんだけど」
「まぁまぁ、そう身構えずに。さーてと、ではご到着!」
エレベーターは緩やかに下降を止めて、そしてドアが自動で開く。
ドアの先に広がるのは、薄暗く陰気な雰囲気に包まれた広大な空間。
毒々しさと不気味さに満ちたその場所は、まさにマッドサイエンティストの研究室といった風情。普段クールなライラの背筋にゾゾゾ……と悪寒が走り、その顔が青褪める。
「ささ、どうぞ。まさかライラちゃんともあろう人が、怖気づいたとか言わないよねぇ?」
「……も、勿論よ。わ、私が怖気づくなんて、そんな事あるワケな――」
「そうだよねぇ~じゃ、行こっか! ほらほら、レッツゴー!」
半ば強引にライラの手を握ったローラは、そのままライラの手を引いてズンズンと進んでいく。かくて、鼻歌交じりで軽快な足取りのローラと周囲を警戒したような恐々とした様子で足取りの重たいライラという正反対の二人はローラの研究室内を進んでいった。
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