第12話


 ぐびぐび……


「あの……」


 ぐびぐびぐび……


「ねぇ、ちょっと……」


 ぐびぐびぐびぐび……


「あぁ、もうっ! さっきから聞いていますか、ライラさん!?」

「何よぉ、うるさいわねぇ……カリカリしちゃって……どうかしたぁ?」

「どうかしたぁ、じゃないですよ!? 一体何本呑むつもりですか?」


 レイが語気を強めて、ライラに詰め寄る。

 思わずそうしてしまうほどにライラの酒の飲み方はよく言えば豪快な、悪く言えば無茶以外の何物でもなかった。

 何せ缶を開けて中身を喉へ流し込み、空になればまた取り出して開けて喉に流し込んで、また空になればもう一本取り出して――工場ラインのように延々と、ただその繰り返し。

 加えてかなりのハイペースで、まるで自分の肝臓を壊しに掛かっているのではと思うほど。そして、何よりもレイが気になって仕方ないのは。


「――で? どれだけ買い込んできたんですか?」


 レイは普段から酒を嗜まないので、元々この家には酒など一本たりとも無かった。

だが、周辺に散乱する空き缶の数は大台十本を超えていて、その上ライラの足元に転がる袋のふくらみからして酒の残数はまだまだ残っている様子。終わる気配は到底見えない。


「さぁ? 本数、数えてなーい! でもぉ、流石に一度じゃ買い切れなかったからぁ、何度か店まで往復したぁ……いやぁ、大変だったわぁ……褒めてぇ?」

「褒めませんよ! というか、そんなに飲んで大丈夫ですか? せめて何か食べるか、少なくとも水くらいは飲んで――」

「むっ!? まだ酔ってない! せっかくの時間を水差すなんてぇ……ゆるひゃないっ!」


 労りの気持ちから出た忠告のつもりが、どうにも酔っ払いのプライドを刺激しただけに終わった様子。健在をアピールするかのように、開けたばかりの酒を一気飲みして瞬く間に空にして見せて……しかし結果、呂律が段々回らなくなっていっているのは明白。

 そして、その上更に。


「わらしに文句つけるなんてぇ……生意気ぃ……しょんな子は……こうらぁ……」


 珍しく酒へ伸びる手を止めたと思えば、そんな言葉を吐きながらレイを力任せに抱き締めて。挙句頬ずりや頬へキスという、何とも過激なスキンシップを繰り返す始末。

 ライラは、銀の髪と藍の瞳が目を惹く紛れも無い美人。そんな美人からの熱烈スキンシップは普通ならば喜んでもいいところではあるのだが……流石に本数を重ねたことで鼻が曲がりそうなレベルで強烈になった酒臭さは、どんな美貌も台無しにする。


「……ぐっ!? きょ、強烈……」


 加えて、普段飲まないせいで酒の匂いに抵抗のないレイからすれば、このあまりにも度が過ぎて鼻を摘まみたくなるほど強烈な臭気は最早嫌悪感の種でしかない。

 可及的速やかにこの地獄から逃れなければ。そう思い、必死に抵抗を試みるが――


「んふふ……にがしゃんぞぉ……」


 どうやら酔いが回り過ぎて、最早若干夢見心地に入りつつある様子。

 そんな今のライラには、レイの決死の抵抗もタダじゃれついているだけにしか思えないのだろう。解放するどころか、更に腕のホールドを強めてくる。しかもライラの腕はレイの首へ回っており、酔いで理性の吹っ飛んだライラの腕力は徐々に強まっていって。


「……ちょっ! えっ? ぐ、ぐるじい……」


 遂には、レイの首はキリキリと徐々に絞められ始める。それはまるで、万力の如し。


「ちょっ! ら、ライラさん? ぎ、ギブ……ギブギブ!」

「ふわぁあぁ……なんか……眠くなってきたぁ……」

「……………………へ?」


 地獄のような状況ではなく、本当に地獄に送られそうなこの状況。決死の叫びでライラに訴えるレイだが、返って来たのはネコのような欠伸交じりで紡がれる自由気ままな欲求。

 予想外なこの言に、レイの口からは思わず間の抜けた声が漏れてしまうが――今の知能が著しく低下したライラの耳にその言葉は届かず、その反応を受け止める知性も無い。本能のまま、改めてレイをギュッと抱き寄せて。


「おやすみぃ……」

「えっ? ちょっ、嘘でしょ!? それは流石に――」

「くかー……」


 冗談かと思うレベルで、間髪入れずにライラから穏やかな寝息が漏れてきた。


「えぇえええ……? マジかよ? ていうか、早っ!」


 困惑を禁じ得ないレイの口から、何とも情けない声が漏れる。

 驚愕モノの入眠速度だが、一先ず今はそんなこと後回し。何せ、このまま夢の世界に逃げられてはマズいのだ。ライラが夢から戻った翌朝頃には、レイはきっと泡を吹いて冷たくなっていることだろう。

 そんなの冗談ではないと、必死にライラの腕にタップをかますが……


「起きねぇ!? 嘘だろ?」


 相変わらず心底幸せそうな表情で寝息を立てるだけ。

 しかしその一方で、どういうワケか腕のホールド力は徐々に強まっていて。


「ぐ……ぐるじい……じぬ……」


 ライラの元に来てから、早五年。その間、昨晩の様な死線を幾度も潜り抜けて来た。そんなレイに過去最大で死が間近に迫っているのは、恐らくは今この瞬間かも知れない。

 死んで堪るかと、決死にくぐもった声で上げる悲鳴。しかし、その絞り出した声は、遂にライラの穏やかな寝息に掻き消されて彼女の耳へ届くことは無かった。



「ぜぇ……ぜぇ……な、何とか抜け出せた……」


 気道が狭まって段々と薄れゆく意識の中で、それでも『死んで堪るか』と必死にあの手この手と試行錯誤を繰り返した甲斐あって――加えて、ライラの睡眠が深くなってきたことで腕の力が弱まったことも相まって――辛くもレイはライラの抱擁から脱出に成功した。

 かくして、一先ず命の危機を脱したワケだが……命の危険に追い込んだ張本人は、相変わらず幸せそうな顔でレイのソファを占有しながら眠っていて。その顔が、若干腹立つ。

 眠っているのを幸いに、その隙だらけの額へ軽いデコピンをお見舞いしてやる。


「うぅん……」


 クリーンヒット。鬱陶しそうに、額を指で拭うライラ。

 まさかここまで簡単に一撃叩き込めるとは、予想外。でも、いい気味だ。もう一発――


「……んふふ……レイぃ……ありがぁとぉ……」


 指を構えた刹那にライラの口から漏れる、心底幸せそうで嬉しそうに感謝を述べる寝言。発射体勢を取っていたレイの手が自然と緩み、同時に小さい溜息が漏れる。


「……全く。風邪、引きますよ。そんな恰好で寝ていると」


 自分が季節問わず使っている薄い毛布を、優しくライラに掛けてやる。するとライラは、心地よさそうに毛布にくるまって小さく丸まる。その姿は、まるで子供のよう。

 曲がりなりにも国家機関たるRSPでも数少ない上席を担っているというのに、今の彼女はそう思えないほどにラフで隙だらけ。もしも仮に今賊に襲われでもしたら、流石に対処できな……いや、どうだろうか。この状況でも有事の際にはカッと目を見開いて、拳銃片手に大立ち回りを演じそうでもある。或いは、夢遊病の延長的に眠ったままでも賊を撃退しそうでもある。それこそ、昨晩見せたような鋭さと共に。

ふと、そんな期待をしてしまえるほどにライラは優秀なのだ。そこに疑う余地はない。尤も、流石に寝ながら賊を討伐するなんて非現実が過ぎる姿を想像すれば、少々くすっと笑いが込み上げてきてしまうが。

 しかし、それにしても――レイの視線は、ライラが飲み残した酒の残りへ向かう。


「イヤなことがあって酒に溺れると、こんなに人格変わるのか」


 その背筋が凍る程に凄まじい効能をこうもまざまざと目の当たりにして、驚愕と戦慄の入り混じった声が自然と零れる。それほどまでに、今のライラは普段からは想像できないほどにかけ離れていた。

 何より、つい数時間前まではあんなに不機嫌な表情を見せるくらい嫌なことがあった筈なのに、今の彼女からはそんな雰囲気は微塵も感じられない。それもまた酒の効果によるものだというのなら、きっと忘却させる力と凄まじい多幸感を齎してくれるのだろう。

 好奇心が沸き起こり、自然と缶を開ける。空気の抜ける音と共に鼻腔に届く酒の匂い。


「うっくっ!? 変な臭い……これのどこがいいのやら」


 レイは、どうも酒の匂いが好きになれない。それは最早、受け付けないレベルで。

 しかし、これを呑めばきっとライラの様に――レイは恐る恐る口を付けて喉へ流し込み。


「――っ!? げほっ!? げほっ!? な、何だ? これ……」


 辛うじて嚥下までは済ませたものの、同時に襲い来る凄まじい嘔吐き。

これは最早、拒絶反応といってもいい。


「……はぁ……こんなの、マジでどこに良さが? ……でも、これを呑めばきっと――」


 それは、まるで何かに取り憑かれて突き動かされているようだった。

 まるで誘惑のままに禁断の果実を齧るかのように、意思ではない別の何かに促されるがまま無理矢理にでも酒を喉に流し込もうとしていた――その寸前のこと。


「あぁ、もうやめときな。無理に呑んでも美味しい物じゃないよ? こんなのは、さ!」


 缶を口に付けようとした手を、不意に抑えられて。同時に響くその悪戯っぽい声にはどこか聞き覚えがあって。それに気付き、驚きのまま慌てて振り返ってみる。


「……ろ、ローランさん?」

「よっ! 久しぶりだねぇ、レイちゃん」


 ローランと呼ばれた彼――いいや、彼女だろうか?

 どちらとも見える中世的な顔立ちと闇夜に溶け込むほどくらい濃い漆黒のローブを思わせる旅装束にて体のラインを隠しているせいで、その性別は明確に判別できない。だが、いずれにしろ見えているその顔は実に端正で、その美貌はライラに引けを取らぬほど。

 だが、共通点は顔立ちが整っているだけ、それ以外はまさに対照的。

 藍色の冷たい瞳が目を惹くライラに対し、その人は太陽を思わせる暖かな橙色の瞳。

 雪を思わせる白銀の髪のライラと違って、その人は豊かな稲穂を思わせる黄金の髪色。

 基本的に冷たく機械的な無表情を通すことの多いライラに対して、その人は八重歯を覗かせるくらいに満面の柔和そうな笑顔を常に絶やさない。それなりに付き合いのあるレイですら笑顔以外に見たことがないくらい徹底されているほど。

 そして、対照的なのは顔に限った話ではなく、性格にも及んでいるようで。


「……どうしてここに? 前に、『ライラさんがいる時は来ない』って言っていませんでした? 性格の反りが合わないからって」


 レイはキョトンとした顔で問う。

 だが、それでもその人の表情は微塵も変わることは無く、相変わらず快活な笑顔のまま。


「いやぁ、僕も帰ろうかとは思ったんだよ? でも、こいつはあられもない格好でレイちゃんに抱き着いたまま、気持ちよさそうに眠っているし? 何より背後にいる僕にも気付かない。あんまりにも隙だらけだから、これはもう二人纏めて積年の恨みを晴らしてやろうかな……って思ったよね!」

「積年の恨み? というか二人纏めてって、俺も入っています? 何かしましたっけ?」

「さぁて? 自分の胸に手を当てて、考えてみなさいよ」

「…………いや、何も思い当たる節が何も。何かあるなら、教えて貰えませんか?」

「別に無いよ? 冗談だもん」

「……どっちですか!?」

「さてね。まぁ何れにしろ? 積年の恨みを晴らすのならば、寝込みを襲うような真似はしないから安心したまえ。無粋だし、何よりそれじゃあ面白くないのでね」

「いや、全く安心できないんですけど、それ」

「しかし、まぁ折角だ。この珍しい醜態だけは堪能しておこうと思って、ずっと見ていた」

「珍しい醜態を堪能って……まぁ確かに。大分、嫌なことがあったみたいですよ」

「まぁ、それは君も同じのようだけどね。何か嫌なことがあったから、酒に逃げようって思ったんじゃないのかい?」


 ニヤニヤと笑いながら、レイの手から酒缶をかすめ取るローラン。

 あまりの早業に呆気に取られてしまうが、すぐにバツの悪い表情を浮かべて。


「何ぃ? どうしたのぉ? あっ! もしかして、このバカに虐められでもしたかい? まぁ、こいつの部下は苦労が絶えないだろうからねぇ……すまないねぇ」

「どの立ち位置からの物言いですか、それ? でも、大丈夫ですよ。そこに関しては全然。確かに結構酷い目にも遭わされましけど……でも、それ以上に感謝が大きいです」


 眠り続けるライラの頬を突きながら、おどけた口調で問うてきたローラン。

 しかし、レイの答えに何か驚いたのか。ローランは突如硬直する。


「……? どうかしましたか?」

「イヤだって、この子が感謝されるなんて……ビックリし過ぎて心臓止まるかと思った」

「そこまでですか? でも、実際感謝していますよ。この人のお陰で、俺は前に勧めているので。感謝しても、し切れません」

「……ふぅん、そうかい。なら、その言葉は直接伝えてやるといい。きっと喜ぶよぉ?」

「そうですかね?」

「そうですって! 大丈夫、このローラン様を信じなさいって」


 ドンッと胸を叩くローラン。その姿は確かに自身に満ち溢れていて。

 しかしすぐに表情を怪訝に変えると。


「でも、猶の事解せないねぇ……じゃあ君は、何故酒なんかを?」

「それは……その……」

「言ってみなさいな。意外と、話してスッキリすることもあると思うぜっ?」

「……正直、辛いんです。昔の事、思い出して」


 たどたどしい口調でレイが答えたその言葉に、目を大きく見開く。


「昔の事って、五年前のことかい?」

「……はい。ここ最近、何かと思い出すことが増えて。勿論、俺がやってしまったことを考えれば当然だし、何より忘れてはいけないってことも分かっています。でも……」

「やっぱり、思い出すのは辛い?」


 ローランの問いに、レイは静かに首肯。するとローランは、レイの肩へ静かに手を置き。


「そっか。でも! なら猶更、こんなのに逃げるのはよくないと思うなぁ……僕は」

「そう……ですよね。やっぱり、逃げちゃいけないですよね。虫が良すぎますよね」

「えっ? あぁ、違うって。別に逃避するのが良くないと、そう言いたいワケじゃないよ。寧ろどうしても辛くて逃げたいのなら、少しくらいは逃げたっていいと僕は思う。

 けどね、その逃げる手段に酒を選ぶのはよくないって言っているのさ。勿論、酒に限った話じゃないよ? 薬とかギャンブルとか、そういう一時的な快楽に逃げるべきじゃないってこと。その場しのぎの快楽に逃げてスッキリしても、嫌な事はなくならない。元を絶たない限りは、しつこくどこまでも延々と際限なく追い掛け続けてくるモノさ。

 そして快楽の後に襲ってくる嫌な事っていうのはさ、往々にして快楽を愉しむ前よりも酷くなっている。余計に嫌な気分にさせられて、ウンザリしてしまう。で、その嫌な気分を払拭するためにまた快楽に逃げて、また嫌な気分になって……その繰り返し。

 当然、嫌な気分が大きくなれば、払拭するための快楽もまた大きくせざるを得ない。そうなるともう、キリがない。最後は体か心か、或いはその両方が快楽と苦痛の繰り返しに耐えられなくなって壊れてしまう。加熱と冷却を繰り返せばモノが壊れてしまうように」

「やっぱり、そうですよね? 辛いことも苦しいことも、受け止めないとダメってことか」

「まぁ、結局はね。どれだけ逃げても、現実は変わらない。どう足掻いても、過去は変わらない。必ず向き合って、決着付けなきゃいけないモノさ。そして、向き合って乗り越えた先にこそ、きっと仮初でない真の幸福はあるんじゃない? やまない雨は無いのだよ」

「……ローランさん」

「それに、簡単に目を背けられては困るからね」

「……………………えっ?」

「いーや、何でも無い。それにしても、たまには僕もいいこと言うでしょ?」

「えっ? えぇ、まぁそう……ですね」

「あぁでも! くどいけど、ずっと辛いとか苦しいにずっと向き合い続けるのはよくないからね。どうしても潰れそうな時、たまーになら心のままに生きてみるっていうのも大事だと思うよ。例えば、こんな風とかぁ」


 相変わらず気持ち良さそうに寝息を立てるライラの頬をツンツンと指さす。

 確かに、今のライラは幸福そうな表情で、心のままに振舞っている様子。


「あとは、こんな風とか――ね」


 次いで、ローランは自分自身を指さす。

 確かに、ローランの奔放な振る舞いと物言いは、好き放題自由に生きているようにも見える。過去の傷にも、人が皆持つ辛苦とも、どこまでも無縁そうに。

 

「そうですね……ありがとうございます。何だか、少し気が楽になった気がします」

「それはよかった。顧客のメンタルケアも出来てこそ、一流の商人だからね」

「凄いんですね、商人って。尊敬しますよ」

「いやぁ、それほどでもぉ……あるかな?」

「えぇ、ホントに凄いです。ありがとうございます」

「どういたしまして。今後とも御贔屓に」

「えぇ。あぁ、でも……勿論不法侵入の件は別ですよ?」


 真っ直ぐな視線でローランに向き合い、そしてニコリと微笑みながら彼の腕を掴む。

逃げられないように、ガッシリと強く。これにはローランも冷や汗を禁じ得ない様子だった。

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