第11話

「うぅ……寒っ!」


 そんな無気力でぼんやりとしたレイの背筋を伸ばさんとばかりに、身を切るくらい冷たい風が吹き荒んで。思わず身震いを禁じ得ない。薄いコートには厳しい寒さだが、生憎とこれ以上厚手になると任務に差し障るから他のコートは持っていない。

 すっかり冷たくなった手をコートのポケットに突っ込み、背中を丸めて身を縮こまらせながら家路を急ぐ。誰も待っていない、一人の家へ。


「……二週間ぶり、くらいかな?」


 リリーエラ率いる自由主義連盟を壊滅させる先の作戦を含め、ここ最近は何かと忙しく。結果留守がかなり長引いていた。もう、それくらい自宅へは戻っていない。

 尤も、久しぶりの我が家といえども、特段思い入れも無ければ感慨も沸かない。

 思い出もなく、待つ人もいないのだから、無理からぬことではあるが。

 加えて、帰ってすることといえば、シャワーでも浴びて適当な夕食で腹を満たし寝るだけ。人付き合いの薄い独居男性特有の寂しい生活に聞こえるかも知れないが、仕方ない。他にしたいことなど何も無いのだ。そしてそこに、家の内外に人の有無など関係ない。


「まぁ、強いて言えば……今はとりあえず早急に暖を取りたいかな」


 内心を誰にも聞こえないほど小さく呟きつつ、無心のまま足早に歩くこと十数分。

漸く見えてきたのは、外観からして寂れた安アパート。小洒落た雰囲気からは程遠く、周囲の活気も無いせいか全体的に陰気な雰囲気。けれども、その物寂しさ故の静寂は寝に帰るだけの場所としては打って付け。寧ろこれ以上ないとも言えるだろうか。

 凍えて悴む指先を必死に動かして、ポケットから何の変哲もない銀のカギを取り出す。そしてそれをドアの鍵穴に挿して回して、ドアノブを掴んでドアを開く。

 何の変哲もない、ごく自然の行動。後はそのまま真っ暗で誰もいない室内に入って。


「……ん? う゛っ!」


 無感動で無感情に、何の変哲もなく普段通り自宅へ足を踏み入れたつもりだったのだが。瞬間鼻腔を擽る、思わず鼻を摘まんでしまうほど強烈で異様な酒臭さに思わず顔を顰める。

 最後に外出する際にしっかり消したことを確認した部屋の明かりも煌々と灯っており、極めつけにその明るい部屋からは缶を開ける際のプシュッという空気の抜ける音が響く。

 この臭いにこの音、更にこの状況。どう考えても、誰かが酒盛りをしているのは明白。


「でも、ここを知っている人なんて……ま、まさか!」


 強烈に感じる嫌な予感に渋面を浮かべながら、足早に明るいリビングへ急いでみれば。


「あら、大分遅かったわね。お帰り、レイ」


 手狭なリビングの中で最も面積を占有するベッド代わりのソファを我がモノ顔で堂々と占領する、酒の缶を片手にすっかり赤ら顔のライラ。その鋭く自信に溢れた藍の瞳は潤んで輝きを失い、凛々しいその顔は溶けたのではないかと思うほどにトロンとふやけている。

 また、無様を晒しているのは何も表情に限った話ではない。第二ボタンまで大胆に開襟したシャツ一枚に下着という目のやり場に困るあられもない姿は、凡そ独居男性の部屋にあるまじきセンシティブ極まりない有様で。

 だが、その色っぽく煽情的である筈の姿とは対照的に、全く色気無く缶に口を付けると豪快に喉を鳴らしながら酒を流し込んで。


「かぁああっ! やっぱりいいわね、酒は!」


 ――と、全てを台無しにするその飲み振りは、まるで立ち飲み屋の親父の如き。

 当然、そんなライラを目の当たりにした瞬間、レイは渋面を浮かべながら頭を押さえる。


「ん? 何よ、その渋い顔は? 私が居たら悪いワケ?」


 飽きずに再度酒缶に口を付けながら、半眼でレイを睨むライラ。

 五年も彼女を傍で見て来たレイは、良く知っている。

 こうなった彼女は、普段とは全く別のベクトルで面倒臭いことを。


「……いえ、別に。で? 何でここに? あと、何ですかその恰好は?」

「質問は一つずつにしてくれないかしら?」

「ではまず、その恰好は何ですか?」

「あら、そっちからなのね。けど、何と問われても……酒が入れば体温上がるんだから、仕方ないでしょう?」

「知りませんよ。俺は、酒飲まないことにしているんですから」

「ぷぷっ! お子様」

「喧しいですよ! で? 何でそんな派手に酒盛りしているんですか? しかもここで」

「……まぁ、大人にはお酒で忘れたいことだってあるのよ。イヤな事とか、ね」


 つい数時間前に見た、あの機嫌の悪そうな雰囲気に苛烈な振る舞い……彼女を不快にする何かイヤな事があったのだろうことは、流石に明白。無論詳細何があったのかは分からないが、あの様子では酒の力を借りたいというのも理解は出来る。


「――でも、ですよ! 何故、ここで? お一人で酒場にでも、行かれれば良いのでは?」

「まぁ冷たい! 第一、私が私の家で酒飲んでいて、一体何が悪いというのかしら?」

「何を言っているんですか? ここは俺の家ですよ」

「実際はね。でも、契約したのは私。その証拠にホレ、こうして鍵も持っている」

「……う゛!」


 レイと同じ鍵をひらひらと見せつけながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべるライラ。

 これにはレイも反論できず、居心地悪そうに視線を反らすしかなくて。そんなレイを見て、ライラのニマニマとした勝ち誇った笑みは更に厭らしさを増したのは言うまでもない。

 こうなった原因は全て、レイが後ろめたい過去を抱えているから。

 その過去が原因で現在のレイはライラの監視下に入れられている状況で、それは必然彼女に全ての自由を握られているということと同義。

 加えて、今のレイは実際にはRSPに勤務しているが、その過去が原因で勤務こそ許されているものの実は書類上所属の実績はない。つまり、今のレイには書類に記載できる職業がない無職ということで。当然それで賃貸契約の審査など降りる筈もなく、結果的にライラの名義で賃貸契約を結ぶ以外に手が無かったのだ。

 だからこそまかり通る理不尽極まりない現実で、つくづく力関係が弱いと貧乏クジばかり引かされるもの――実感したレイは、もう嘆息を禁じ得ない。


「……分かりました。でも、あんまり汚さないでくださいよ? 掃除が大変なので」


 自業自得ではあることを含め、自分の置かれた現状と厳しい現実を誰よりも明確に弁えている。だからこそ、こんなライラの横暴を許容するしかないとレイはよく理解している。

 故にライラへ文句を言うことなど早々に諦めて。溜息交じりの「では、ごゆっくり」という言葉を残して、踵を返してどこかへと立ち去ろうとしたのだが……


「ちょっと待ちなさいよ?」


 突如伸びるライラの手は、レイの首根っこを掴んでは強引に引き戻してくる。


「……何でしょうか?」

「何でしょうか? じゃないわよ。健気に帰りを待っていたこの私をほったらかして? 君は一体どこへ行こうというのかしら?」


 敢えてレイの家で待ち構えていたへべれけライラが、レイの逃亡など許すハズもない。そそくさと立ち去ろうとするレイの肩に手を回しては、無理矢理頬ずりまでかましてくる始末。呼気に充満する酒臭さがダイレクトにレイの鼻腔を擽り、渋面が加速する。


「どこって……強いて言えば、ライラさんの居ないところ――ですかね?」

「ふぅん……そういう可愛げないこと言っちゃうんだぁ? へぇ……ふぅん……そっかぁ」

「な、何ですか? その意地悪そうな顔は?」

「別にぃ? ただ、そんな可愛げないこと言っていると、来月から家賃の支払いが止まっているかも知れないなぁ……なんて思ったりなんかしちゃうワケよ」

「――なっ!?」


 この家の契約者はライラで、当然大家への家賃もライラが一旦立て替えて払っている。

 無論後日立替分を精算しているのだが、大前提大本のライラが大家への家賃の支払いを止めれば……レイが幾ら金を持っていても無駄。賃貸契約の継続は不可能になる。


「ぐっ!? ひ、卑怯じゃないですか?」

「何とでも言いなさいな。まぁ、いい機会だから『私は卑怯』って覚えておきなさい」

「それ、自信満々に言うことですか?」

「卑怯と姑息に強かさを兼ね備えて初めて一人前なのよ。さて、ここを追い出されたら、きっと面白いことになるわねぇ。まぁ? もしも家を追い出されたら? その時は餞別代りに段ボールくらいは用意してあげる。拾ってくださいって、私直筆のメッセージ付きで」

「……橋の下に捨てられている子猫じゃないですか」

「まぁ、君は子猫ってよりは子犬よね。勿論、犬は犬でも国家の狗であり、同時に私の狗でもあるってダブルミーニングだけど」


 酒を呷りながら、嗜虐的な笑みと共に繰り返される執拗で姑息な精神的揺さ振り攻撃。しかし、この揺さ振り攻撃がレイの急所を突く結構有効な戦法であるのも事実であり、事実レイは観念したように嘆息すると。


「……分かりましたよ。ここにいます。お付き合いしますよ」

「あらら、聞き間違いかしら? 言葉遣いが変ねぇ? お付き合いし・ま・す・よ?」


 まだ満足しないらしい。

 小気味よくリズムを刻みながら、レイの頬を人差し指でツンツンと小突くライラ。

 何を言わせたいか、レイには――否、レイでなくとも察せられるというもの。

 同時に、レイが『う、ウザい……』と内心苛立ったことも言うまでもないだろう。

 でも、これほどの仕打ちにも逆らえない。それほどまでに、力関係は圧倒的。


「……き合いさせてください」

「聞こえない~! ボソボソ喋んないで、もっとはっきり喋りなさいな」

「お付き合いさせてください!」


 向けられる圧力を前に観念し、渋面と共に半ば自棄クソでそう絞り出すレイ。

 するとライラは一際得意げな表情を浮かべると。


「そこまで言うなら仕方ないわね~! じゃあ、特別にここに座ることを許可しましょう」


 嬉々とした表情でレイから退くと、自身が座るソファの傍らをポンポンと叩くライラ。

 くどいが、ライラが占有するソファはレイの私物で、ライラが所有するモノではない。それを我がモノ顔で占拠しての、このセリフ。レイがモヤモヤとした気持ちを抱いたのは、言うまでもないだろう。

 ここで、一瞬考える。ここでこのまま脱兎のごとく逃げ出せば――と。

 酔っ払い相手なら勝ち目は十分にあるし、何よりあの格好ならば外に逃げれば追っては来られない筈――しかし、すぐに無理だと確信する。

 立場上姿を晦ませることは出来ないし、そもそも酔っ払いといえども相手はライラだ。どう頑張っても逃げ果せない気すらもする。

 何より、ここで変なトラブルを起こしてもレイにメリットは殆どない。こうなればもう、腹を括った方が賢明。小さく嘆息を零しながら、静かに指定されたライラの隣へ腰掛ける。

瞬間へべれけライラは容赦なく抱き着いてきて、その酒臭さに再度顔を顰めるのだった。

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