第10話
リリーエラの取り調べを終えたレイは、オフィスに戻って自身のデスクで一心不乱に端末とにらめっこしていた。無論、何もせず遊んでいるワケではない。今日のリリーエラへの取り調べ、その結果とそこで話した内容を記録する報告書の作成作業中。
気付けばかれこれ、一時間弱は作業しているようだ。壁掛け時計の時刻は既に夕方を指していて、空も段々と茜色に染まっていく。流石にそのくらいの時間帯にもなると、昨日の今日で疲労が溜まってきていて、当然集中力も切れてくる。
それでもと、生来の生真面目さでもう一頑張りすべく少し伸びをした――そんな時。バンッ! 突然響く派手な音に、レイは思わずビクッと背筋を伸ばす。
何が起きたのかとドアの方へ視線を向ければ、そこにはライラの姿。どうやら、ドアを蹴り開けたらしく、だからこその大きな物音。その表情からして、虫の居所が悪いのは明白。剣呑とした、ギスギスと重たく近寄り難い雰囲気には気不味さ禁じ得ない。
「……ええっと……ら、ライラさん? どうかしました――」
「あ゛あ゛?」
それでもと、決死の覚悟で声を掛けてみたのだが……帰って来たのは殺意すら籠った鋭い視線とドスの利いた脅し声。その迫力は、仮にも一人で武装勢力を壊滅させられる技量の持ち主であるレイをして、背筋にゾワゾワッと悪寒を走り硬直するほど。 いや、それどころか何だか数滴ちびった気さえしてしまう。
これは不味い――瞬間そう悟ったレイは、苦笑交じりに。
「いえ、別に何でも……ははは……失礼しました……」
努めて明るい声音でそう言い残して、そそくさと部屋を出ていこうと彼女の傍らを通り抜けようとする。そうして漸くこの重苦しい空間から脱出できる――と思ったのも束の間。物事はそうそう上手く運ばないモノで、唯一の出入口が突然閉ざされてしまう。
バンッ! もう一度大きな音を響かせながら閉じた扉は、レイを挟むことも厭わぬ速さと勢いにレイの髪が靡くほどの風圧を伴っていて。それは無論、ライラの仕業。
「あのぉ……外に出たいのですが?」
「あらあらぁ? どこに行こうって言うのかしら? ……この私を置いて」
「えっ? どこってまぁ、お手洗いとか……ですかね?」
「そうなの? 何で疑問符が付くのか不思議だけど、それなら仕方ないわ。どうぞ?」
「あぁ、はい。では、遠慮な――」
「ただし、一分以内で戻って来なかったら殺すから」
ドアノブに手を掛けようとした瞬間に聞こえる、理不尽なルール。
これにはレイも、思わず「……えっ?」と間の抜けた声を漏らす。
しかし、理不尽はどこまでいっても理不尽で。レイの困惑など意にも介さず。
「はいはい。それじゃあ今から始めるわよ。よーいドン!」
「はっ? えぇええええええっ!? ていうか……い、一分? 一分って、いやそれもう一番近いお手洗いにも間に合わな――」
「ウダウダ言ってんじゃないよ、ダッシュすれば間に合うだろ? 何モタモタしてんの? あーあ、もう後三十秒しかないけどぉ?」
「モタモタって……じゃあ、何でドアが開かないんでしょうねぇ!?」
「さぁね? 建付けでも悪いんじゃないの? 何せRSP(ここ)は、紛れも無いゴミの掃溜めだもの。設備も人員も、何もかも……君もそう思わない?」
「……酷い言い草ですけど、今ドアが開かない理由はどう考えてもそこじゃない!」
ライラが手でガッチリ押さえているドアを懸命に引きながら叫ぶレイ。
けれども、ライラは素知らぬ顔でドアを押さえ続けたまま。
「あらら、こうしている間にも時間は過ぎて……はい、さーん、にー、いーち、ゼロ! タイムアップよ。さぁ、仕事に戻りなさい?」
不意に首根っこを掴まれて、そのまま力任せに室内へ戻されてしまうレイ。
そうしてレイが離れたドアに、ライラは丁寧にガチャンと金属音を響かせて施錠して。遂に、この不機嫌なライラが支配する空間からの脱出路が完全に絶たれてしまう。
何という理不尽……しかし、レイが諦観こそ抱けども不満を抱くことはない。
ライラのこうした振る舞いは、何も今回が初めてというワケではない。この五年でレイは幾度も見て来たし、何よりもこうした振る舞いこそが、ライラにレイ以外の部下がいないこの状況を招いた原因に他ならないのだから。
しかし、それにしても今回はあまりにも理不尽が過ぎる振る舞い。瞬間、レイは悟る。
「これは、相当機嫌が……何があったんだ?」
「別に何でもないし、仮に何かあったとして? 言えば君がどうにかしてくれるワケ?」
「…………いえ、無理ですね。すみません」
「そう。なら、せめてさっさと仕事に戻りなさいよ。今、物凄く機嫌が悪いって分かっているんでしょ?」
「はい、只今!」
いそいそと席へ戻り、端末での作業に戻るレイ。
そんなレイを横目にして、ライラは自席にドカッと腰掛けて。
「あぁ、もう! ホントにムカつく……腹立たしい!」
椅子の肘掛に肘を突いた状態で、頬杖を突くライラ。
そのまま茜色の空をジッと眺めるライラの顔は、相変わらずブスッとして酷く不機嫌そうで。そんなライラを刺激しないよう、レイはタイプ音にすら気を配りつつも端末と向き合い続けた。時折、ライラの顔色を伺いながら。
◇
機嫌の悪いライラが戻って来てから、三十分くらい経った頃。
「……よし、こんなところか」
窓から伺える空の色は、茜色を通り越して夜の帳が降り始めていて。
その頃に漸く報告書の作成が一段落ついたため、思わず安堵の声が漏れる。
さて後は作成した資料を印刷して提出するだけ。印刷の段に入った、その時だった。
「もういいわ。今日は帰る」
「……えっ?」
いきなり席を立ったかと思えば、突然そう言い放つライラ。
思わず抜けた声が漏れるレイだが、そんな彼をライラは鋭く睨め付ける。
「何か文句でもあるの?」
「いえ、別に……報告書はどうしますか?」
「明日の分と合わせて、纏めて確認するわ。デスクに裏向きで置いておいて頂戴」
「承知しました。では、そのように」
「えぇ。それが終わったら帰っていいわ。戸締りだけお願い。カギは忘れずにきちんと持って帰ってね。それじゃ」
指示を出しながら、テキパキと身支度を整えて。
結局言い出してからモノの数分足らずで、本当にライラはオフィスを出て行ってしまう。
「……お、お疲れ様です」
呆気にとられつつレイの口を突いて出た労いの言葉に対して、返って来たのはドアを閉める音。先ほど蹴り開けた時や強引に締めた時とは違い、可能な限り静かな音だった。
かくして、一人オフィスに残されたレイ。ライラが戻る前に戻ったと言えばそうなのだが、如何せんライラのインパクトが強すぎて余計に静かである種物寂しくすら感じる。
「……何か、よく分かんないけど……まぁ、良いか。俺も帰ろう」
静寂の中で、その決断に辿り着くのは早かった。
ライラの指示通りに作成した報告書を印刷して彼女のデスクの上に裏側で置いて、他の雑事もさっさと片付けて。思い付く全てのタスクを終えたレイは静かに身支度――といっても、コートを羽織るだけだが――して、そそくさと退出する。
「施錠よし。それじゃ、帰るかぁ……」
気の抜けた声でそう零すと、レイは足早にオフィスを後にした。
◇
外に出れば、もう空が暗くなっていて、アンティーク調の黒い街灯が煌々と光を灯す。
ふと時計を見ればまだ帰宅ラッシュに入りたてか、或いは少し早い頃合い。
それでも庁舎前の精緻な石畳で舗装された大通りには大勢の人が行きかっていて。楽しげな笑顔を浮かべる彼らは大人も子供も揃って皆、高く聳える幾つものコンクリート造りの建築物群が織りなす近代的で美麗な景観に似つかわしい瀟洒な装いに身を包んでいる。
右も左も、裕福そうで幸福そうな者たちばかり――いや、実際彼らは恵まれている。
家柄か、実績か。彼らは皆どちらかが優れていて、それを国に認められて。それ故に大陸でも屈指の文明的な発展を遂げた大都市にして、由緒正しい歴史と伝統を持つ大国の矜持が形を成したかの如き壮麗な王都アクロブルクに身を置くことが許されているのだから。
そう。アクロブルクは、このアクロー王国の繁栄の象徴にして光の面。
だが、光があるところには必ず影があり、そして光が強ければ影もまた濃い。
『誰もがこんな立派な町で何不自由なく暮らせるような平等で豊かで平和な国だったら、きっとあたしは悪党にならずに済んだのに』
車窓からアクロブルクを眺めた際にリリーエラが口にした言葉が、王都の街並みをぼんやりと眺めるレイの脳裏にふと蘇る。そしてその言葉を、レイは否定することが出来ない。
彼女の言う通り、国中が王都と同じく美しいワケではない。国中が王都と同じく豊かで恵まれているワケでもない。地方へ目を向けてみれば、その様子はアクロブルクとはまるで違う。どこもかしこも貧しくて、よく言えば長閑なのかも知れないが、その実アクロブルクの様な華やかさどころか文明的要素など微塵も無い。
露骨な格差、それが生じてしまった原因は明白。偏に国王を始めとした政府が、国内に何人も存在する傍流の王族や貴族に所領を与えてその経営を一任しているから。
アクロブルクとその周辺は、現国王即位と同時に発せられた大号令によって王国の威信をかけた大開発が行われて――その結果、今のこの立派な姿を得たが、それは全てアクロブルクが数少ない国王の直轄地であり、国王の自由裁量の範囲にあったからこそ。
しかし、地方となれば話は別。どこもかしこも領主がいて、その管轄下に置かれている。無論、領民を思って私財を投じた開発を行う慈悲深い名君が領主であれば、流石にアクロブルクほどは無理だとしても多少は文化的な都市を作り上げて領民に文明的な生活を営ませることが出来るだろうが……生憎と現実は違う。名君など、そうはない。
領主の大半は自領へ戻ることなど稀で、家族がアクロブルクで仕事をしているなどの理由で一年の大半を煌びやかなアクロブルクで過ごす。やむを得ない事情で時折戻ったとしても、さして何もするでもなく。精々領地経営を任せた役人が選りすぐった領民の女性たち――それも手段や同意の有無を問わずに連れ去ってきた――を夜な夜な味見するくらい。そういえば、酷いところでは領主が初夜権のために自身が自領へ戻る僅かな期間以外の婚姻と婚前交渉の一切を禁じる、と呆れた触れを出しているという。
まさに腐敗、ここに極まれり――である。
そんな享楽に溺れて腐敗し切った領主たちが、自領の発展など考える筈がない。
何せ彼らにとって領地など、自身の生活を保障して欲を満たしてくれる道具程度にしか思っていない。だからこそ領地経営になど一切の興味を示さない癖に、領民からは高圧的に容赦なく税を徴収する。求めに応じて納税しても更なる要求を押し付けて、納税が基準に届かなければ無慈悲な罰を与える。理不尽に満ちたそこは地獄と呼んで相違なく、皆飢餓と貧困と権力者の気紛れや家族が人攫い遭うことに怯える生活を送らなければならない。
文化や文明どころか尊厳からも程遠い、人を人とも思わぬ奴隷のような世界。
リリーエラの様に義憤を滾らせて過激な行動に走ろうとする者が度々現れるのは、必然。
それが、レイには理解できる。同時に、レイは知っている。彼女の行動に誤りはあっても、その主張に誤りは無いことも。その義憤は、理不尽などでは断じてないことも。
だが、きっと今この通りを行きかうアクロブルクの民衆――選ばれし者である彼らは、自分たちの恵まれた生活の裏に夥しい人々の苦しみや絶望があることなど知らない。いや、知っていても無視する。折角の恵まれた立場と享受できる悦楽、それらを捨て去ってまで嘆きの声に耳を傾けて慈悲を施そうとするような善人など、早々いるはずも無いのだから。
「……そして、俺もまた同類か。人の事を悪く言えないな。ここにいるのに、俺は何もしていないのだから」
自嘲気味にふと呟いたその言葉は、呆気なく風に攫われてどこかへ消える。
でも、風は言葉を攫ってはくれても、心に抱く後ろめたさまでは攫ってくれない。
当然と言えば当然。そして言葉が無くなったせいか、後ろめたさで心はより痛む。
「……感傷に浸っていても仕方ない。もう帰ろう」
小さく、そう呟く。
今ならまだ、飲食店はどこも空いている頃合いだろう。立ち寄ってもいいのだが、生憎とそんな気分にはなれない。後ろめたさからか気分が落ち込んで、もうどこかに立ち寄る気力すらも残されてはいない。とにかく今は、一刻も早く一人になりたかった。
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