第2話
「母さ――痛っ!?」
ガバッと勢いよく起きた瞬間、レイは椅子から崩れ落ちて無様に地面を転がる。
先程幾度も殴りつけた木漏れ日を浴びて暖かく柔らかい森の大地とは正反対の、冬の風に晒されて冷たくなった固い冬のコンクリートの上に。ぶつけた臀部がジンジンと痛む。
ふと見上げてみれば、視界に広がるのは静かで平和な夜空。漆黒のキャンバスを爛々と彩る鮮やかな星の煌めきは美麗にして壮観で、とても先程まで見ていた木漏れ日に照らされた森の風情とは似ても似つかない。直視した現実に、瞬間レイは悟る。
「……何だ、夢か。またこの夢――痛ぁっ!?」
漏れだした嘆息交じりの安堵の声を遮るように、今度は頭頂部に走る強烈な衝撃と鈍痛。脳が揺れたかと思うほどの容赦ない一撃に、レイは思わず頭を抱える。
暫く摩って漸く痛みが引いてきたところで肩越しに振り返ってみれば、目に映るのは腕を組んで偉そうに踏ん反り返る女性の姿。年齢は二十代半ばといったところか。夜空の下では絶対に不要だろうサングラスに、丈の長い純白のコート。夜風に靡く背中まで伸ばした銀髪は月明りの下で星にも負けぬ輝きを放ち、新雪を思わせる白皙の美貌に厚い唇を彩る青いリップが目を惹く。
全体的に怜悧で冷たい雰囲気を纏う彼女は、地面に尻を突いたままのレイを蔑むような冷たい目付きで見下ろして。更に小馬鹿にしたように「ふんっ!」と鼻で嗤ってみせる。
殴った上にあんまりな態度にレイは鋭く彼女を睨みながら、舌打ち交じりにヨロヨロと立ち上がると。
「ライラさん……いきなり何をするんですか?」
不機嫌な声音で詰め寄る。だが、そんなレイに対して彼女――ライラはまるで怯む様子は無く。寧ろ、それ以上に不機嫌そうな表情を浮かべるなり、レイの頬を容赦なく抓る。
「痛たっ!?」
「突入前の準備時間だからね。自由にしていいとは言ったけど……まさか居眠りするとは思わなかったわ。随分と余裕なの――ねっ!」
「痛だっ!? いや、すみません……何というか、やることなくて暇だったもので、つい」
「ついだぁ!? というか、暇なら手伝いなさいよ! こっちは大変だったんだけど!?」
「痛だだっ!? 分かりましたから! とりあえず、放してくれません? あと、そのすぐに暴力振るう癖だけは、いい加減に直された方がいいか――痛だだだだだっ!?」
「君にそんな偉そうに指図なんかされたくない。私の方が年上で、上官で、階級も上! 大体、今は私が文句を言っている番よ! というか、こんな場所でよく寝られるわね。緊張感ある場面かつ、こうも寒い屋上なんかで……その図太い神経、見習いたいくらいよ」
「神経なら、十分図太いと思いますよ? でなきゃ、これから突入だっていうのにそんな目立つ格好何かしてこないですよ。ただでさえ、その長い銀髪だけでも目立っているんです。この際だ、コートの丈も髪も全部短くしてみては如何――痛だだだだだだっ!?」
「冗談じゃないわ! というかどこで何を着ようが、或いはどれだけ髪を伸ばそうが、私の勝手でしょうが! 服飾規定上の問題は無いし、潜入じゃないから目立っても問題ない」
「なら、別に自由時間に俺が居眠りしていても問題ないかなぁ……と。規定に『自由時間に居眠り禁止』って書いてあるワケじゃないですし、突入前で暇だったことですし」
「私は規定の問題だけど、君は規定じゃなくて常識の問題でしょうが! 折角突入前だからって気を利かせて自由時間をあげたのに、暇だから寝ていただぁ!? そんな余裕かまして、もしも撃ち漏らすような失態でもすれば、どうなるか分かっているんでしょうね?」
「それなら問題ありませんよ? ほら、この通り」
そう言ってレイが差し出したのは、自身の耳に装着していた無線式のイヤホン。
怪訝な表情を浮かべつつも、ライラはレイの頬を摘まんでいた手でそれを受け取って自身の耳に装着。そしてイヤホンから流れてくる音を耳にした瞬間――その白皙の美貌は面白いくらい真っ赤に染まった。
「――なっ!? なんてモノ聞かせてくれるのよ、このバカッ!」
そう言って投げ返されたイヤホンは、レイの胸でワントラップしてから地面を転がった。暫しコロコロと転がり回転を止めたイヤホンのノイズが混ざったスピーカーからは、大音量のクラブミュージックに紛れて女性の嬌声と男性の歓喜の声が聞こえてくる。
その振る舞いに思わず溜息を禁じ得ないまま、レイは腰を折ってイヤホンを拾い上げると、服で軽く拭ってから再度自身の耳に装着。そんな一連の動作と並行しながら。
「そんなこと言われましても、これから突入する建物内にいる敵勢力の数を把握しようと俺なりに努めた結果なんですけど? 怒られる理由が分からない」
「そ、それは……まぁ……その……そうかも知れないけど……」
「そして! これから突入するあの建物が何か知っているでしょう? 娼館ですよ、娼館! そんな場所の音を盗み聞きすれば、こんな音が拾えるのは当然ですよ。
まぁ、こんな雑音塗れの音からでも、大体状況は掴めました。寝る前に把握した限り、中にいるのは全部で十五名。今は、ええっと……十八名か。地上一階建てで地下室も無いことは、事前に入手した間取り図で確認済み。狭い建物ですし、使える火器も精々軽機関銃が関の山といったところでしょうか」
冷静かつ淡々と収拾し集約した情報を淀みなく答えて見せながら、レイは今二人がいる建物の斜向かいに位置する建物を背中越しに親指で指し示す。
その建物こそがレイのイヤホンと繋がる盗聴器が仕掛けられた場所であり、即ちレイとライラが目標としている建物に他ならない。
ご丁寧に盗聴器を仕込むくらいの入念な事前調査を行っているのだ。当然ライラも、件の建物が男女の夜の社交場であることは重々承知している。だからこそレイの皮肉に満ちた指摘対して何も言えず、悔しさを誤魔化すように「ふんっ!」と零すのが精一杯。
全く素直ではない可愛げのない反応に、レイはやれやれとばかりに肩を竦めながら。
「それにしても、意外と純情で初心なんですね。流石は貴族の御令嬢さ――痛ぁあっ!?」
厭味を零していたレイの口から突然漏れた絶叫は、最初の脳天への一撃や続く頬抓りとは比較にならない紛れもなく腹の底からの本気。そんなシャウトも無理からぬブーツのヒールで足を踏み付けられる激痛に、レイの顔は苦悶で歪み額には脂汗が噴き出している。
「――ちょっ!? やめ……いや、本当に何するんですか!? お、折れる……」
「私、その話をされるのが一番嫌い、そう言ったわよね? そしてその時に、もしも次その話題持ち出したら骨の一本くらいは圧し折るって、そうも言ったわよね?」
「だからって、突入前のこの状況で部下の足の骨折る人がいますか? 言いたくないけど、もしかしてバカなんですか?」
「バカだぁ~!? へぇ……私にそんな口の利き方するなんて、どうやら躾が足りなかったようね? まぁ、暇だからって呑気に惰眠貪る時点でお察しか。調子乗るな、このっ!」
語気と共に踏む力を更に強め、その上で捩じる力まで加えてくる。
その痛みは筆舌に尽くし難く、強烈にして凶悪。あまりの激痛に流石のレイも観念して。
「……ちょっと感覚無くなってきましたから! 分かった! 分かりました! 次から! 次から気を付けるので! だからすぐ足退けろ!」
「聞き間違いかしら? ど・け・ろ? どうやら、まだまだ矯正の必要がありそうねっ!」
「痛だだだぁあっ!? 分かった……分かりましたよ。気を付けますって、ライラさん!」
「ふんっ!」
プライドなどかなぐり捨てた決死の説得が漸く功を奏したようで。ライラは徐に踏み付けていた足を退ける。果たして漸く解放されたレイの足は痛みこそ残るが何とか無事だったようで。ホッとしたのも束の間、腹に残ったムカッとする感情が顔を出してきて。
「……ったく、このパワハライラさ――ぐぇっ!?」
ぼそっと口にした厭味は、吹き抜ける風の音に攫われて消えてくれると思った――のだが、レイの想像など遥かに超えてライラの耳は聡く、最早地獄耳と言っていいレベル。
間髪入れず容赦なく繰り出されたボディブローはレイの腹部にめり込み、その一撃に倒れることも膝を折ることもしなかったものの、背中を丸めて悶絶して小刻みに震えるレイ。そんな彼の肩に手を置きながら、ライラはサングラス越しでも分かるくらいに口角を釣り上げた満面の笑顔で。
「何か言った? よく聞こえなかったから、もう一度言ってみてくれない?」
「……いえ、別に。何でもない……です」
「ほら、遠慮しなくていいのよ? もう一度、ど・う・ぞ?」
圧を放つ笑顔でそう問いかけてくるライラ。
聞くまでも、確かめるまでもなく分かる。これは、本気の激怒だと。
どうやら、逆鱗に触れるどころか勢い余って踏み抜いてしまったらしい。
それを実感したところで、レイはもう彼女を直視できなくなって。
「ホント、何でもないんで……いや、マジで」
結局、忙しなく目線を泳がせ逸らしながら、冷や汗を滝のように流した情けない顔 で弱々しく自信無さげにそう答えるのが精一杯。まさに圧倒的な力関係であり、軍隊も真っ青な圧倒的上下関係が証明された瞬間である。
「……まぁ、いいわ。躾の続きは後にしてあげる。生憎、今はそんなに暇じゃないからね」
不機嫌そうな声音でそう言い放ちつつ、ライラはなおも背中を丸めたままのレイの胸へ押し当てるようにして一枚の紙を手渡す。
徐にその紙を見てみれば、題字には「令状」の二文字が大きく踊り。交付要因たる罪状共に記された住所は紛れもなくレイの監視対象となっていた件の建物を示す。
「これ、発行されたんですね。しかも、思ったより大分早く」
「偏に私の頑張りよ。尤も、証拠は幾つか事前に抑えられていたからこそ、でもあるけど。何にせよ、これで問題なく正面から突入できるわ。それにしても、つくづく裁可貰うまでに手間と時間が掛かったわよ。その意思決定の遅さこそが、五年前のあの悲劇を生んだというのに……どうも、踏ん反り返るだけのバカ共は反省を知らないらしいわね」
「……………………」
「まぁでも、流石にあの一件で上層部の危険分子に対する考え方も少しは変わったみたい。その点では君にも感謝すべきかしら? 尻を叩いてくれてありがとう――ってね」
「……仕返し、ですか?」
「どうとでも。けどまぁ、仮にそうだとして、何かご不満かしら?」
「いえ、別に。滅相も無いですよ。……そ、それにしても、ライラさんの事務仕事の速さは感服モノですね。流石は、庁内一のやり手だ」
「何よ、それ。苦し紛れに褒めているの? もしかして煽てている? 或いは『事務仕事しか出来ない欠陥品』って、そういう意味合いを込めた厭味かしら?」
「賛辞のつもりだったんですが、後ろ向きが過ぎますよ。まぁ、どうとでもお好きにお受け取りください。何を言ったところで、今は厭味に捉えられそうなので」
「癪に障る言い回しね。まぁ、いいわ。私は仕事したんだから、君も君の仕事をして頂戴。援護は必要かしら?」
「いいや、大丈夫です。先ほども申し上げましたが、敵の戦力は高が知れているので」
「あら、そう。なら、私はゆっくり現場に向かうとしましょうか」
「そうしてください。ライラさんが来るまでには、全部終わらせておきます」
「期待しているわ。あぁ、そうだ。単独で行かせるのだから、念のためこれを渡しておくわ。もしかしたら、役に立つかもしれないもの」
ライラが手渡してきたのは一丁の自動拳銃。
装弾数は十五発で自動装填自動排莢も可能なその銃は、軍用としても運用される最新鋭の機種。性能的には現状国内で流通しているどの拳銃よりも優秀でまさにトップクラスの一品にして、軍隊や警察でも貴族出身の将校や官僚へ優先して配備される代物である。
しかし、それほど優れた銃を受け取ったというのに、レイは渋面を浮かべて。
「あのぉ……突入の度に毎度貸して頂きますが、大丈夫ですよ? これがあるので」
自身の腰に手を回しながらそう答えて、同時に渡された銃をライラに突き返す。
他方のライラも退かず、肩を竦ませながら突き返してくる手を逆に押し返して。
「念のためって、言ったでしょ? まぁ、持っておきなさい。備えあれば憂いなしってね」
「使わないモノは、持っていたくはないのですが?」
「使うかどうかは、状況次第でしょ? もしかしたら、あとで私に泣きながら感謝することになるかも知れないわよ? 命令よ、いいから持っておきなさい」
「……ハイハイ。分かりましたよ。感謝はしないと思いますが」
「ハイは一回ね。それにしても、理解に苦しむわ。道具なんか、高性能で最新鋭の方がいいに決まっているだろうに。何でそんな骨董品にこだわっているのよ?」
「まぁ、慣れと信頼と……あとは思い入れですかね。それに、必ずしも新しい物が優れているとは限らない。現実主義なライラさんには、理解出来ないかも知れないでしょうけど」
「えぇ、理解できないわね。尤も、理解する気も無いのだけれども。まぁ、何でもいいわ。結果さえ出してくれれば、私はそれで構わない。結果が全てで、過程など問題ではない。まして、何を使って何を使わないかなんて、心底どうでもいいことだわ」
「勿論、存じております。だからこそ、ライラさんは俺を拾った――忘れていないですよ」
「そう。なら、いいわ。精々、結果を出して来て頂戴」
「了解しました。では、そろそろ!」
無理矢理渡されたその銃を、レイは懐へ仕舞い込む。そして、軽い足取りで走り出す。疾駆する彼の視線の先には、落下防止用の安全柵。一メートルはあろうかというそれを軽い跳躍で難なく飛び越えると、躊躇なく屋上からダイブしていった。
「気持ちいいくらい潔く飛び降りるわね、ホント。アレは流石に、私には真似できないわ」
レイが飛び降りた場所を見つめながら、呆れとも感嘆ともとれる嘆息を漏らすライラ。そしてくるりと踵を返すと、元来た方向――階段へと足を向ける。
「全く、福祉だのバリアフリーだの言っておきながら、今なお階段なんて気が利かない。これだから古い建物は嫌いなのよ。全く、どの建物もエレベーターかエスカレーターくらいは設置しろっての! ……中央の薄ノロ銭ゲバ腐れ官僚貴族共が」
月下に不満の声と罵詈雑言を漏らしつつ、ライラは一人ゆっくりと階段を下りて行く。部下が屋上から飛び降りたというのに心配する素振りは無く、その足取りは至って平静そのものだった。
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