LR
未遠亮
第一章
第1話
「待って……待ってよ……待ってよ、お母さん!」
血を吐くほど必死に声を絞り出して、少年は決死の形相で手を伸ばす。屈強な男たちに取り押さえられて自由の無い中で、少しずつ遠退いていく母の背中へ向かって。
すると母は足を止めて、くるりと振り返ると少年を一瞥。その灰色の瞳から一筋の涙を頬に伝わらせながら、ぎこちなく微笑むと。
「……レイ。お母さんとは、ここでお別れよ。でもどうか、幸せに生きて」
優しい声音だった。けれど言葉からは、明確な別れの意思が感じられて。宿る強烈な覚悟を幼心に否応なく悟った少年――レイには、もう返せる言葉など何も無い。
何も言えぬまま、ただ動揺と困惑から大きく見開いた血の様に赤い眼から涙を流しながら母を見つめるだけ。そんなレイからそっと目を背けた母は、傍らに立つ身なりのいい男へ向き直ると。
「約束は守って頂戴。絶対にあの子に……レイに危害は加えないで」
「あぁ、分かっているさ。約束は守るとも。高貴なる者は、約束を違えぬものだからね。貴女が大人しく私の言うことを聞いてくれる限り、あの子に手出しはしない」
「……そう。ならいいわ」
「尤も、手出しはしないが、代わりに施しもしないけどね」
「――っ!? どういうこと?」
驚愕の表情を浮かべる母親に対し、男はニヤリと酷薄な笑みを浮かべる。
「言葉の通りだ。私も私の兵も、君の子供には一切手出しをせずここに置き去りにする。日没までは、あと二時間かくらいかな? それまでにあの幼子の足で町へ戻るのは不可能。そしてこの森は、日没後は野生動物が徘徊し始める。果たして野生動物が徘徊するこの森の中で、子供一人では夜明けまで無事に生きていられると思うかね?」
「そんな!? や、約束が違う! あの子に危害は加えないって――」
「約束は守っている。危害は加えてない。だが、身の安全を保障するとまで約束した覚えはない……おいおい、そんな怖い顔をするな。折角の美貌が台無しじゃないか」
「ふざけないで! あの子の身の安全が保障されないなら、私は――」
「同行しない、と? そうか。折角の約束を自身で破棄すると? ならば、こちらも約束を守る理由はないな。心苦しいが、あの子は今すぐに殺すとしよう。おい!」
先程までの気取った優しい声音とは打って変わっての、ドスの利いた威圧的な声。
男の目配せに、レイを取り押さえている男たちは即座に頷いて。そのままレイを力任せに地面へ這い蹲らせるなり、その細い首を前に出させる。その様は、まるで首を刎ねられる罪人のようで。鞘走り音が響くと、木漏れ日を受けて白銀に輝く刃がレイの前に現れる。
「そんなにこの子と離れたくないのなら、仕方ない。首だけなら持参を許可しよう」
「やめて! もうやめて! 何で……何でこんなことを!?」
「何でとは、可笑しなことを。あの子供に手出ししない条件として、私は指示に従えといった。でも、貴女は言うことを聞けないという。ならば、こちらもあの子を生かす道理は無い。私にとって、君の子供になど興味は無い。死んでも構わない存在に過ぎないのだよ」
「……そ、そんな」
「さて、どうする? 残された選択肢は二つ――大人しく同行するか、愛しい息子の首と共に同行するかだ。好きな方を選ぶといい」
「……………………」
「選べないか? では、仕方ない。私が決めてやろう……やれ!」
白銀の剣が、大上段に振り上げられる。
そして、レイの首筋目掛けて今まさに振り下ろされようという、その瞬間――
「やめてっ! 分かった……分かりました……」
「分かった? 分かったとは、何を分かったのか? ハッキリ口に出せ」
「……同行……します。貴方の言うことに全て従います……だから……だからあの子に手を出さないでください……お願い……します」
レイの母は、膝を折って地面に頭を垂れた。その姿に、男は満足したのか満面の笑みで。
「利口な判断だ。賤民にしては上出来。いいだろう。約束を守るというのなら、こちらも約束は違えない。さぁ、これで要件は片付いた。撤収しようか」
男が歩き出すと、レイを取り押さえていた男たちもレイを放り投げてはぞろぞろと続いていく。だが、肝心のレイの母は膝を折って頭を垂れたまま微動だにしない。
そんな彼女の様子に、男たちは舌打ちと溜息交じりで止む無くその両腕を抱き抱えて無理矢理立ち上がらせては引き摺るように連れ去っていく。
「……あぁ……ま、待って……待ってよ……待ってよ、お母さん! お母さんっ!」
そんな母の後を、レイはヨロヨロと立ち上がなり追い掛ける。
だが、先程レイの首を本気で撥ねようとした粗暴な男が、そんなことを許すハズも無く。
「何だ、付いてくんじゃねぇよ。このクソガキがっ!」
怒声と共に、レイの腹部に容赦ない蹴り。
屈強な男の全体重を乗せた一撃に、まだ幼いレイが耐えきれる筈も無くて。呆気なく仰向けに倒れ伏した息子の状況に、母親はすぐに気が付いた。
「レイ! レイ! 大丈夫? ねぇ、レイ! ちょっと、約束が違う! 手出しはしないと、約束は守ると、そう言ったでしょう!?」
必死に声を張り上げて、男へ抗議する。すると男は面倒臭そうに溜息を漏らしながら振り返ると、レイを蹴飛ばした男へ視線を向けて。
「……蹴ったのは、お前か?」
「えっ? えぇ、まぁ。あんまりしつこく追い縋ってくるもんで、ついね。へへへ……」
「そうか。では仕方ないな……死ね」
抑揚のない声と共に、懐から怪しく黒光りする古めかしい六連発式の拳銃を抜き放つ。そして流れるような動きで、悪びれる様子もなく軽薄に笑う男へその冷たい銃口を向ける。
「――えっ?」
間の抜けた声も束の間、銃声が間髪入れずに響いて。
今度はレイを蹴飛ばした男自身が、仰向けに倒れ伏す。レイとの違いは、眉間に空いた穴から夥しい出血をしていることと、二度と起き上がることの無いことだけ。
「愚か者なヤツ。偉大なるアクロー王国第一王子にして時期国王たるこの私の顔に泥を塗るとは……その愚かしさ、最早罪だな。死を以て償う他に無い」
己が手で人を殺しておきながら、まるで何事も無かったかのように淡々と語る男。
その狂気染みた冷酷非道な振る舞いを目の当たりにした後では、もう誰も何も言えない。彼の取り巻きの男たちは勿論のこと、激しく文句を言っていた母親ですらも。
「さてと……こんなバカを撃って穢れた汚物など、持ち歩きたくはないな。それに意図せずとはいえ約束を破り危害を加えてしまった以上、埋め合わせは必要か」
相も変わらず淡々とした口調でごちると、ルドルフはその視線をレイの方へ。
そして見下すように笑うと、手にしたその銃をレイの足元へ適当に放る。
「それ、くれてやる。弾は入っているから、好きに使え。尤も、使えれば――の話だが」
言い残すと、鼻で嗤って。そしてルドルフは、くるりと踵を返して歩き出す。
主が歩き出せば従者は従うのみ。手下の男たちも続々と続き、必然彼らに腕を押さえられているレイの母親もまた連行されていく。
「――っ!? お、お母さん! お母さん!」
何も言わず――否、恐怖と動揺から何も言えぬまま――に去り行く母へ、レイは慌てて起き上がるとまたしても手を伸ばす。だが、伸ばした手も空しく母はどんどんと遠ざかり、更にはよろけた拍子に転倒して再度地面を転がる。擦り剝いた膝が、じんわり痛んだ。
「うぅ……お母さん……待ってよ……待ってよ、お母さん!」
最早執念の域でなお必死に手を伸ばすが、その手が何かを掴むことは決してなく。
遠ざかっていく最愛の母の姿は、やがてレイの視界から完全に消え去ってしまう。
残されたレイの胸に去来するのは、絶望感か虚無感か無力感か――或いはその全てか。心に沸いた重くどす黒い感情は幼い心を蝕んで、その心境を露わすかのように懸命に伸ばしていた手は萎れて引っ込んでいく。
「……うぅ……ううう……うわぁあああああああああ! あああああああああああああ!」
深い絶望から血を吐く様な嗚咽を撒き散らし、悲嘆から涙も流す。
それでも晴れぬ憤りと悲しみをぶつけるかのように、少年は幾度も大地を殴り続けた。
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