第10話 瑞穂と思い出2
瑞穂はその昔家出をしたことがある。中学1年生の時の話だ。
どうしてもままならぬ学校生活に嫌気がさして突発的に家を飛び出した。
瑞穂にとって学校は苦痛だった。
どうせ義務教育を受けるだけならひとりきりで勉強でも運動でもしていたかった。閉じこもった世界の何が悪いのかと本気で思っていたのが当時の瑞穂であった。
狭い世界で社交性なんてものを身につけねばならないことにうんざりだった。無理難題を押しつけてくる教室という場所はきれいごとでできた薄っぺらい箱にしか思えず、どうせうわべだけの交流関係ならない方がはるかにいいと考えていた。
そう、重苦しい空気の圧に気圧されながら。
瑞穂は息の詰まる教室で必死に息継ぎをしていた。水槽の金魚には水を出る選択肢はない。濁っていようが汚れていようがその場所から自分で這い出る手段は残されていなかった。
だから親に心配だけはされないようにうまく擬態することを選んだ。
それでも学校で起きてしまった不条理な出来事。瑞穂は突如としてその世界の中心人物になってしまう。彼らの言う仲間内の
――割れた破片とともに、なんだか瑞穂の心も欠けてしまった気がした。
朝が来たらどうしようと瑞穂は気が気でなかった。
とても学校になんて行ける気がしない瑞穂は月が昇る間も窓の外をぼんやりとみつめていた。やけに月の大きな日だったのを瑞穂は未だに覚えている。
まどろんでいたらしい瑞穂は夜中にハッと飛び起きた。汗だくのパジャマの胸元を広げてタオルで拭う。寝覚めが悪い。カップのお茶を飲み干すも足りる量ではなかった。いやに、心臓がばくばくと脈打っている。
瑞穂はそっと扉を開けた。廊下を挟んだ反対側にある母親の部屋の扉をそっとみた。明かりはついていない。扉に耳をつけるが寝息が聞こえるのみ。瑞穂はぐっと下唇を噛んで部屋に引き換えした。
今日の出来事を家族に告げるのは酷だった。
瑞穂はごく当たり前に愛されて育った。当然、瑞穂にとって家族は支えだ。娘の自分を自慢げに語る両親との思い出が走馬灯のようによぎった。その顔が今回のことで曇ってゆく悪夢にうなされて飛び起きたのだった。
自室に戻った瑞穂は腹部を押さえてうずくまる。
面倒はかけたなくないと考えて首を振った。大事だからこそ知らせたくないからと脚を叩いて自分に活を。やさしいからこそ甘えるわけにはいかない。あとは真実を知ってがっかりされてしまうのも素直にいやだった。
そんな自分をなんてわがままだろうかと思いながら瑞穂は垂れてくる鼻水をすすった。
理性が歯止めをかけている。けれど本音は、ずっと。
「」
やはりとても口には出せないと瑞穂は口をへの字にした。
当時の瑞穂はすでに限界であった。
ついにはタンスの前で涙がこぼれだした。拭ってもやまない涙に瑞穂は自分を叱った。
ふとカーテンが揺れた。月明かりの下、路面が見えた。歩く人影はすぐに消えた。
瑞穂は窓に近づきそれを開ける。
夜風に、手を伸ばした。
(行こう)
逃げ場のない瑞穂は、ぬれたパジャマを脱ぎ捨てて、部屋の扉を弾くように身を乗り出した。本能的な行動であり、鬱屈とした生活に疲れていた瑞穂の理性は働かない。寝静まっていた家の中を抜け出し、靴を履いて玄関へ。一瞬ためらったものの、ついに瑞穂は思い切りよく飛び出していた。
風が、冷たい。
(きもちいい――……)
瑞穂はひさびさの爽快感を感じていた。夜なのに空は暗いのに地上は明るかった。妙な開放感に浮き足立つ。
瑞穂は衝動のまま、走った。今は自由だ。そんな気持ちに背中を押されていた。
どことも分からない場所までたどり着いた頃、急におなかが減った。
しかしお金なんてあるわけもない。ポケットに小銭すら入ってない自分を思い出すと余計に寂しい思いがした。なにか買いたいが、そもそも未成年の瑞穂がこんな時間にコンビニでも行けば……外に出ていることすら問題かもしれない。経験のない瑞穂には初めてのことだ。ひとまず疲れた瑞穂は公園のブランコに腰を下ろした。
座り込んでいると、通り過ぎる人が不思議そうにこちらをみた。瑞穂は顔をそむけてみられないようにと祈った。
祈りに反して声がかかる。
「お嬢さんどうしたんだい?」
話しかけてきたのはスエットの男性だった。近所の人だろうかと思った。瑞穂が警察へ補導されることを恐れて警戒していると、男性は言った。
「家出……かな? 休めるとこ探してるなら俺のうち来ないか? 食べるものなら出せるよ」
心配されてることに申し訳ないがその申し出自体はありがたかった。
この時瑞穂はどうせなら男性の家で電話でも借りて家族に一言だけでもメッセージを残そうと、恐縮といった態度で声を出そうと、して。親切な人だからとその手をとろうとして、瑞穂はハっとした。
品定めするような視線が瑞穂の体を上から下へと見ていた。
錆びついたように思考が鈍った。
両親には甘えられなかったのは瑞穂自身だ。
「家族には甘えられない」という理由とはべつの意味で背筋が粟立つ。
不快な感覚から手を引っ込めた。くるっと踵を返す瑞穂。
「待ってよ! ねぇ、きみ行くとこないんでしょ。ほらおいでよ!」
男性は痺れを切らしたように態度を一変させた。強引に瑞穂の腕を掴みどこかへ連れて行こうとするのだ。
「だ、大丈夫だよ。ね、俺の家行こ、ほら早くっ」
「行きません! や、っ離して……!!」
「叫ばない叫ばない。あーこれ妹なんです! ほ、ほらお兄ちゃんと大人しく来なさい、まったくこのコは聞き分けがないんだから」
瑞穂は必死に抵抗した。声をあげて、周囲に通りかかった人に助けを呼ぼうとする。それに気づい男は芝居を打ち、見えないように瑞穂の口を大きな手でふさいだ。
成人男性相手に敵う力などもたない瑞穂は遅まきながら後悔していた。
今になって恐怖がやってきたのだ。夜の町は味方でもなんでもないことに気づいた瑞穂。暗いことも、ひとりぼっちなことも、瑞穂の心細さに拍車をかけていく。
それでも必死に抵抗しようと、男の手を噛もうとした、まさにその時。
聞き馴染みのない言葉遣いが耳に入った。
「どけや! うちの妹になにすん!」
どこからともなく派手なルックスの青年が出現した。彼は瑞穂を助けるように男を阻み、蹴りで男の腹を狙った。
男が尻もちをつく。その隙に瑞穂を自分の背後へと誘導し庇った。
「なんだよ、くそ。お前こそおれになにをお……」
ガンっと硬質な音がした。
男相手にするどい睨みをきかせる発色のいい髪色の青年。
彼はブランコの前にある柵に片足を乗せて大人を威嚇した。
「ほな文句あるならサツでも呼ぶかァ? 未成年によろしゅうない接し方しとったおっさんの方が問題やと思うがな。なんならおれらが連れてったろか」
「お、おれはこの子が心配で……」
「ごたくはいい。……失せろ」
ヒッと引きつった呼吸音とともに男は民家の方へ走り去っていった。
男が消えるまでその後姿を睨んでいた青年がくるっと瑞穂に向き直る。
「もー大丈夫や。痛いことや怖いことはされとないな? うん? ほなもう暗いしおれらと帰ろなー」
お礼も言えず固まる瑞穂をみて安堵させるように肩をぽんと叩く。
助かったと安堵する瑞穂。
だが、帰るというその一言に前が向けないまま瑞穂の足は止まってしまう。
怖かった。帰りたい。いますぐ両親に会いたい。
けれど相反する葛藤のせいで瑞穂の足は動かそうにも前へ踏み出せなかった。いけないと何度か試してみるが効果は薄い。
瑞穂の目にはどんどん薄膜ができていき……。
「そうかあ……キミもしんどいんなあ」
ほろり、その言葉で決壊してしまった。
弁明ををしようとした矢先。
「あ、あたし……」
遮る形で青年がやさしく声をかけた。
「ええ、ええ、ゆっくりで。すこしずつ話とこ。大丈夫や、俺たちがキミの味方やで」
(俺たち……?)
公園の入口付近に続々と集まる青年たち。彼らは不良仲間だろうかと瑞穂は思った。けれどおそろしくはない。自分を助けてくれたこの人の仲間だと思うと、鼻が鳴った。見ず知らずの人なのに瑞穂の中では彼らは頼もしい人だと思えた。
瑞穂の腹が鳴った。助けてくれた彼が慌ててジャンパーのポケットをすべてひっくり返して何かを探す。目当てのものがなかったとみると仲間たちに声をかけてカツアゲするような勢いでなにかを巻き上げていた。
ほいっ、と渡された瑞穂の前にはおにぎりがある。
「母ちゃんの手作りだけどいいんすか」
「ふは、お前なんでこないなもん隠し持っとるん。腹ぺこちゃんか」
と、手持ちのおにぎりを分けてくれることになった。
梅干しだった。瑞穂もつられておかしくて笑った。
食べ終わると、公園のベンチで瑞穂は自分の事情を語っていた。
「つらいなあ、分かる分かる」
「っぁ……」
だれにも受信されることのない信号だと諦めていた
でも本当はずっと、だれかに「たすけて」ほしいとSOSを叫んでいた。
「偉い人やからってどの分野が優れとってもなんでもかんでも完璧な人間なんておらんよ。センコーたちもまーえらい口上で……、こっちはうんざりするがなあ。まったく、子供心どこいったん? 青春置き忘れてきたちゃうかっ、てな」
にひひと悪ガキみたいな忍び笑いをする青年。
彼は瑞穂に自分の事情を明かした。
「にーちゃんなお前ぐらいの弟がいんの。あいつも馬鹿真面目で、いつか君みたいなことになるんじゃないかって俺、心配しててん。適当にガス抜きでも覚えれば楽なのにな。ほんま。あいつのことは一応目を光らせてるけど、どうだかなぁ。このままなにもなければええんやけど。ええ子もほどほどにせなな?」
明かされた情報に目を白黒とさせていると突然の提案があった。
「せやからあいつになにかあったら俺みたいにキミが助けてくれへん?」
「え……?」
「えーねんえーねん。未来の話だから気楽になー、返事はあとでええ」
「でもあたし、あなたの弟さんのことなんて知らないです」
「へーきへーき。きっとみたらわかる。似てるさかい! ってか、誰かわかんないってことはきいてくれるんね。やっば、めっちゃいい子じゃんか~、ええなキミ」
彼は瑞穂に頬ずりするような距離感でハグをした。
「ところでキミ。おなまえは? おれは――……」
彼らと会話しながら瑞穂は自宅に朝帰りした。
両親は鳩が豆鉄砲を食らったように驚いていた。その手には携帯があり、瑞穂を探していたのは歴然だった。
それからふたりに瑞穂は少しずつ話した。今の学校がイヤなこと、クラスメイトが苦手なこと、などを。
家出をして、助けられたあの夜。両親は彼や彼らのチームのことは今でも認めていないし、不服そうにお礼を言っていたが、それでも。瑞穂のなかでは確かなきっかけになった。あの日があったから瑞穂は自分を貫いてこれたのだと思った。
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