第26話 渚、本当の気持ちを隠す
一週間後。
渚は大事な話があるからと言って、湊を居酒屋「はな」へ呼び出した。
渚がひとりでビールを飲んでいると、遅れて湊が店に入って来た。
今日もグレーのスーツに黒いネクタイが良く似合っている。
渚は初めて会ったときのように、湊にときめいている自分に気づいた。
けれどそんな気持ちとは裏腹に、これから湊に話さなければならないことを思うとどうしようもなく心が沈んだ。
「久しぶりだな。」
湊は上機嫌な様子で渚の前の席に座った。
「久しぶり。急に誘っちゃってごめんなさい。」
「いや・・・俺も渚に会いたいと思っていたから丁度良かった。報告したいこともあるし。」
お手拭きで顔を拭き、生ビールを注文すると、湊はすでにジョッキのビールが減っている渚に苦笑した。
「お前な・・・乾杯する前に飲むなよ。」
「いいじゃない。時間は有限なの。待っている時間がもったいないもの。」
「俺と一緒に祝杯をあげようとは思わないのか?」
「はいはい。じゃあ待ってます。」
「もう遅いわ。」
そう言いつつも、湊の顔は喜びに満ち溢れていた。
「なんだかご機嫌ね?」
「そういうお前は浮かない顔だな。また仕事で悩んでるのか?」
湊が心配そうに渚を見た。
「ううん。仕事は絶好調よ。」
「ならいいが・・・。なにかあったらなんでも俺に話せよ?」
「ん・・・ありがと。」
渚は小さく微笑んだ。
「ところで・・・なにかいいことあったの?」
渚が首を傾げると、湊は嬉しそうに言った。
「実はな、木之内惣の『紫陽花と少年』が文庫化することになった。」
「え?ほんと?!」
「ああ。幻の処女作の文庫化だ。これを機に木之内惣の小説を読む読者も増える、と俺は確信している。」
「そうね。私もそう思う!」
「このこと、渚に一番に報告したかった。毎日遅くまで残業して勝ち取った企画だからな。」
「それで最近忙しかったのね。」
「ああ。誰よりも渚に喜んで欲しかった。文庫本が出来あがったら、真っ先にお前に見せるから楽しみに待ってろ。」
「嬉しい!ありがとう。」
どうして今になって、そんなに優しい言葉をたくさんくれるの?
いつもの口が悪い湊になら、いくらでも憎まれ口を叩けるのに・・・。
「よし。じゃあ乾杯するか。」
「うん。」
「『紫陽花と少年』文庫化の祝いと・・・」
「それと?」
「俺たちの未来に。」
その言葉に渚はドキッとした。
ほら・・・あれよね・・・お互いの仕事が上手くいくようにとか、そういう意味よね。
渚は動揺する自分を隠すように、ことさら陽気に振る舞った。
「では、『紫陽花と少年』の文庫化を祝って、乾杯!!」
渚は湊のジョッキに自分のジョッキを派手にぶつけた。
注文した焼き鳥とおでんが届くと、ふたりはしばしそれらを堪能した。
お腹が満たされ、渚は2杯目のビールを二人分頼むと、湊に尋ねた。
「奈央君と美里さんの様子はどう?」
「そうだな・・・まだちょっとぎくしゃくしてるのは否めないが、少しづつ距離は縮まっているみたいだ。昨日の夜もふたり一緒にテレビを観て笑ってたよ。」
「そう。・・・よかった。」
渚は胸を撫で下ろした。
「余計なことしちゃったかと思って心配したけど。」
「そんなわけないだろ?」
湊は背筋を正し、渚に向き合うと大きく頭を下げた。
「渚には本当に感謝してる。ありがとう。」
「なあに?改まって。頭上げてよ。」
「お前がいてくれて・・・お前と出会えて本当に良かった。」
「私は何もしてないわ。湊のふたりを想う気持ちが伝わったのよ。」
「俺の前では謙遜するな。素直に俺の気持ちを受け取れ。」
「わかりました。どういたしまして。」
渚と湊は静かに微笑み合った。
渚は湊の自分をみつめる視線が熱を帯びていることに気づき、ふたりの間を漂う甘いムードを吹き飛ばすかのように、話題を変えた。
「ねえ湊。聞いてもいい?」
「なんだ。」
「湊ってなんでマッチングアプリなんかで彼女探してるの?他にもいろいろ方法はあるでしょ?社内恋愛とか、あとお見合いとか!」
渚の問いに湊は腕を組んだ。
「社内恋愛なんてまっぴらご免だ。わざわざ社内にゴシップを提供する意味がわからない。それにいいと思う女もいないしな。」
「お見合いとかは?」
「・・・・・・。」
「いま、マッチングアプリはどんな感じ?」
「お前の方こそ、まだ婚活してるのか?」
湊の強い言葉に渚は小さく首を振った。
「私のことはいいの。いまは湊のことを話したいの。」
「・・・マッチングアプリは退会した。もう必要ないからな。お前・・・さっきから何が言いたいんだ?」
渚は少し間をおいたあと、思い切って湊に言った。
「実は、湊に紹介したい女性がいるの。」
「は?」
湊は眉間にしわを寄せた。
「仕事で担当したお客さんなんだけど・・・堀内美和子さん。27歳。受付嬢。顔は可愛いしスタイル抜群、そして性格も明るくて素直で良い子なの。・・・結婚したら仕事を辞めて家庭を守るために専業主婦になりたいんだって。」
「・・・・・・。」
「湊も一回すれ違ったことあるでしょ?ほらあのM丘駅の改札口で。憶えてない?湊が言ったのよ?『いい女だな』『紹介しろよ』って・・・」
「・・・冗談だと言ったはずだ。」
「でも好みのタイプってことには違いないでしょ?どう?会ってみない?彼女、湊にとって超優良物件だと思う。」
「大事な話ってこのことか?」
「・・・・・・。」
「それがお前の本当の気持ちなのか?」
湊は渚の瞳の奥を覗き込んだ。
その強いまなざしに全てを見透かされそうで、渚は思わず目をそらした。
「大切な客の頼みだから、仕方なく引き受けたんだろ?」
「・・・・・・。」
「そうだって言えよ。」
「・・・違う。湊に幸せになって欲しい・・・心からそう思ったの。」
「俺の幸せを勝手に決めるな。」
「だって湊はお母さんが仕事に没頭していたから淋しい想いをしたんでしょ?だから・・・」
「あんな女と自分を一緒にするな。俺は渚が」
「どうしてそう言い切れるの?!私だってもしかしたらそうなってしまうかも・・・」
「渚は絶対にそうはならない。お前の優しさ、温かさは俺が一番良く知っている!」
「・・・・・・。」
湊はしばし顔を強ばらせ、やがて無表情になり大きくため息をついた。
「渚は俺と同じ気持ちなのかと思っていたけど、どうやら俺の自惚れが過ぎていたようだな。」
「・・・え?」
「わかった。会うよ。その女と。渚おすすめの優良物件なんだろ?」
「・・・うん。」
「たしかに俺が望む条件とぴったりだしな。誰かさんと違って。」
「・・・・・・。」
「その堀内さんとやらの電話番号を教えろ。俺が話つけるから。」
「・・・わかった。」
渚はカバンからメモ用紙を取り出すと、そこに美和子の携帯番号を書いて湊に手渡した。
湊はそれをひったくるように掴み取ると、財布から万札を一枚テーブルに置き、ジャケットを羽織り立ち上がった。
「帰る。」
それだけ言い残し、湊は足早に店を出て行き、渚はその後ろ姿をただ悄然と見送った。
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