第21話 渚、俺様男をバックハグする
「ところで・・・」
渚は項垂れる湊に問いかけた。
「美里さんを追いかけず、そのまま行かせてしまって良かったの?」
顔をあげた湊は少し間をあけてから小さく頷いた。
「美里の行き先は分かっている。おそらく俺の赤坂のマンションか、文京区にある木之内惣の仕事部屋にいる。二重人格になってからというものの、美里の人格のときのあいつは奈央のいる連城家に戻るのが怖い、自分は母親失格だ、とずっと自分を責め続けていた。そんな自分の心を守るために、美里は木之内惣の人格へ逃げ込んだんだろう。」
「じゃあ今、彼女が美里さんの人格でも木之内先生の人格でも、どこかへ消えてしまったりはしないのね。」
「ああ。それはない筈だ。」
それを聞き渚は安心した。
「でもここ3年間ずっと美里さんに戻らず、木之内先生でいたのよね。それなのにどうしてこのタイミングで美里さんに戻ったのかしら?」
渚のその言葉を受け、湊は渚を凝視した。
その縋るような湊の瞳に渚はたじろいだ。
「・・・湊?」
「俺は、全て渚がトリガーなんだと思っている。」
「私が・・・トリガー?」
「ああ。渚がこの連城家と関わり始めてから、この家の止まっていた時間が動き出した。冷たく凍った氷のような部屋が渚の熱で溶け始め、俺は半ば諦めていた奈央との心の繋がりを取り戻すことが出来た。そして渚、お前は図らずも木之内惣と2度も出会った。まるでそれが必然であったかのようにな。渚と木之内惣が出会うことに否定的だった俺が言うものなんだが・・・きっと渚の中のなにかが美里の心を揺り動かしたんだろう。」
「そんな・・・私なんか、ただ『紫陽花と少年』にサインを頼んだだけよ?そんな大層なことしてない。」
「『紫陽花と少年』の本を久しぶりに見たことも、美里の心の琴線に触れたのかもしれない。あの小説は美里がまだ木之内惣になる前に書いた作品だからな。いずれにしても、渚という存在が俺の世界を大きく動かしつつある。」
渚は立ち上がり、湊の右肩に手を置いた。
「私にそんな力があるかはわからないけれど・・・とにかくもう一度美里さんに会うべきだと思う。きっと美里さんはひとりで心細い思いをしているはずよ
湊・・・あなたがそれを支えないで誰が支えるの?しっかりして。」
しかし湊は頭を抱えて顔を伏せた。
「分からないんだ・・・自分がどうしたらいいか・・・。奈央と美里が一刻も早く一緒に暮らせればいいと心から願ってるのに・・・木之内惣の才能を諦めることも出来ない。」
「湊・・・。」
苦悩に震える湊の身体を、渚は思わず後ろからぎゅっと抱きしめた。
「わかった。私も行く。一緒に本当の美里さんを取り戻しに行くの。さっき私が会った美里さんは、一瞬でも奈央君を求め、奈央君の姿を探していた。きっと奈央君の母親としての自分を取り戻し始めているんだと思う。奈央君と美里さんがもう一度楽しい時を刻めるように、そして美里さんが美里さんの人格のまま作家として素晴らしい作品をこれからも産み出せるように、なにか手立てを考えるの。」
「しかし、どうやって・・・」
「それはまだわからない。でもとにかく美里さんにぶつかってみなければ始まらない。湊、あなたはひとりじゃないよ。私がいる。一緒に頑張ろう?」
そう耳元で囁く渚の声を聞き、湊は夢から目覚めたような顔つきに変わった。
「ありがとう。渚。」
「ううん。私、湊に出会ってたくさんの幸せをもらった。だから私も湊の力になりたい。」
「・・・渚の身体は温かいな。俺のそばに渚がいてくれて良かった。」
その言葉で渚は湊を抱きしめている自分に気づき、恥ずかしさに顔を赤らめ、さっと身体を離した。
「ご、ごめんなさい!急に抱きついたりして・・・」
「いや・・・俺はもう少しそのままでいたかったけどな。」
「・・・とにかく急ぎましょ!」
渚は湊を促し、立ち上がった。
渚と湊は屋敷を出て大きな道路際に立つと、タクシーを捕まえた。
自宅のある赤坂のマンション名を告げ、「なるべく急いでくれ。」という湊の声に応えるようにタクシーは急発進した。
渚は深刻な顔をする湊の気を紛らわせようと、しばし話題を変えることにした。
「ねえ湊。こんな時に聞くことじゃないかもしれないけど・・・」
「なんだ。」
「その赤坂のマンションって賃貸?それとも分譲?」
「賃貸に決まっているだろ。」
「どうして?立地も建物も最上級クラスなんでしょ?買おうとは思わなかったの?」
「あそこは住み続けるところじゃない。」
「・・・・・・そうよね。」
湊はあの屋敷で、専業主婦をしながらしっかり家庭を守ってくれる奥さんと暮らすのよね。
そしてそれは・・・私じゃない。
その未来を想像し、渚は言いようのない淋しさを憶えた。
タクシーは暗い夜空にそびえ立つタワーマンションの瀟洒なエントランスの前で止まった。
「え・・・湊の家ってタワマンだったの?」
「初めて会ったときに言わなかったか?赤坂のタワマンに住んでるって。」
「聞いてない。そんな大事な不動産関連のこと、この私が聞き逃すはずないもの。」
「どうだっていいだろ、そんなこと。行くぞ。」
これだから金持ちは嫌なのよ!
たまに泊まるだけの部屋を普通タワマンにする?!
そうぶつぶつとつぶやきながら、渚はオートロックの鍵を開ける湊の後に続いた。
エレベーターに乗り込み、すうっと身体が天に向かって浮かび上がる。
35階建てタワーマンションの30階でエレベーターが止まった。
3007号室の前に立つと、湊は上着の内ポケットの中に入っていたキーケースを取り出し、その鍵で扉を開けた。
部屋の明かりは付けられていて、玄関には女物の黒いパンプスが不揃いに投げ出されていた。
「美里!いるのか?」
そう呼びかけながら、玄関の奥のリビングへ歩いていく湊の背中を渚も追った。
リビングにもキッチンにも美里の姿は見えない。
湊は奥にある書斎のドアをそっと開けた。
そこには机の上にノートパソコンを開き、一心不乱にキーボードを叩く美里の姿があった。
「美里・・・?」
すると湊の声に気づいた美里は、くるりと振り向き、にっこりと微笑んだ。
「あら。湊君。遅かったのね。」
「・・・木之内先生・・・ですか?」
「そうよ?美里ってだあれ?」
湊と渚は顔を見合わせて落胆のため息をついた。
そんな二人を見た美里はいたずらっ子のような顔になった。
「あらあ?あなたは・・・えっと・・・岡咲さん・・・よね?」
「・・・はい。」
「やっぱりあなたと湊君、お付き合いしてたのね!そうじゃないかなって思ってたの。湊君って口は悪いけどいい子なのよ。湊君、今度は長続きするといいわねえ。湊君って見栄えはいいけど不器用だしちょっと不遜なところがあるでしょ?彼女が出来ても3ヶ月もたないのよ?でも岡咲さんとは長く続きそうな気がする。私、そういう勘がビビッと閃くの。」
「・・・・・・。」
「でも不思議ねえ。仕事場へ帰ったつもりだったのに、なんで湊君のマンションにいるのかしら・・・。私、最近記憶がぽっかり無くなってしまうことがあって・・・困ったわあ。」
そうコロコロと笑う美里を渚と湊は無言でみつめた。
どうやら美里は湊のマンションへ帰ったはいいものの、いつの間にか木之内惣の人格へ戻ってしまったらしい。
「木之内先生・・・さっき連城さんの家の前までいらっしゃったこと、覚えてませんか?」
渚が発した『連城』というワードに美里はピクリと反応した。
「連城・・・?」
すると美里は急に顔色が悪くなり、呼吸が荒くなった。
激しく震える美里の身体を湊が支えた。
「連城・・・連城・・・知らない・・・連城なんて名前、私知らないわ・・・」
その姿に渚はただ身を竦ませた。
「わかった。わかりました。木之内先生、少し横になりましょう。」
湊がそう言って美里をなだめた。
「ごめんなさい。偉そうなこと言ったくせに、私なにも出来なくて・・・」
渚が謝ると、湊は首を小さく横に振った。
そして湊は美里を抱えながら、寝室へと消えていった。
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