第20話 渚、連城家の秘密を知る
再び連城家の屋敷に招かれた渚は、応接ソファに座った固い表情の湊と向き合っていた。
「そうですか。渚様、美里お嬢様とお会いになりましたのね。さぞかし驚かれたでしょう。」
そう平然とした口調で言いながらもやはり動揺しているのか、渚と湊の前に熱いミルクコーヒーを置いた絹の手は細かく震えていた。
「絹さん。奈央は・・・?」
「奈央坊ちゃまでしたらお部屋で宿題をなさってますわ。私がしっかり見張っていますから、お二人でゆっくりお話なさいませね。」
「いつもありがとう。絹さん。」
そう頭を下げる湊に、絹は柔和な眼差しを向けた。
湊がミルクコーヒーを口にし、渚もそれに
しばらく無言で目を伏せていた湊が、顔をあげて渚を見据えた。
「今から話すことは他言無用でお願いしたい。特に奈央には絶対に言わないで欲しい。約束してくれ。頼む。」
いつになく低姿勢な湊に、渚は場を和ませようとあえて軽く言った。
「湊に頼まれなくても、誰にも何も言わないわ。私、こう見えて口が堅いの。」
「それは好都合だ。スキャンダルを嗅ぎつけた、週刊誌の記者に追い回されるのはご免だからな。」
湊がようやくいつもの憎まれ口を叩き、乾いた笑い声をたてた。
「さて、何から話せばいいか・・・とりあえず初めに伝えておくが、渚が今さっき会ったのは連城美里・・・俺の
「どういうこと?」
渚が首を傾げると、湊は自分に言い聞かせるように、淡々とその事実を口にした。
「美里は二重人格だ。奈央の母親である連城美里、そして人気作家木之内惣、あいつの身体にはふたつの人格が備わっている。」
「二重人格・・・」
「元々はひとつの人格で使い分けていたんだ。連城美里と木之内惣を。」
湊はひとつため息をつくと、語り始めた。
「美里は学生の頃から文芸部に所属していて、小説を書くのが好きな一少女だった。けれど美里は自分の作品を新人賞に応募するでもなく、ただ楽しいからと自分の為だけに書いていた。俺は美里が小説を書いていることは知っていたが、気にも留めていなかった。それはただの趣味だと思っていたし・・・。実は俺も学生時代は小説を書いていて、夢は作家になることだった。けれど自分の実力は自分が一番良くわかっていた。俺は作家になるほどの力はないってな。」
湊はそう自嘲気味に笑い、コーヒーカップに口を付け唇を濡らした。
「だから編集者になった。作家になれないのなら、作家を助け素晴らしい作品を世に届ける仕事がしたい・・・そう思ったんだ。その仕事は俺に向いていた。俺はいち早く売れそうな作家を見いだしその作品を形にしていった。そして俺はその仕事にのめり込んでいった。そんなとき、気まぐれに美里の書いた小説を読んでみたんだ。編集者目線でね。」
「編集者目線・・・」
「
渚は息を飲んだ。
知る人ぞ知る木之内惣の処女作『紫陽花と少年』はそんな経緯があったのか、と。
「あの・・・木之内惣って名前、一見男性みたいに思えるんだけど・・・美里さんが自分で付けたの?」
「ああ。美里は未婚の母だって前に話しただろ?木之内惣は美里の婚約者であり奈央の生物学上の父親の名前だ。本当の木之内惣は美里の同人誌仲間だった男で、あいつも作家を目指していた。俺にもきさくに接してくれるいい男だったよ。」
「・・・・・・。」
「だがあいつは美里が奈央を宿し、結婚届けを出す直前に、山で遭難して帰らぬ人となった。だから美里はあいつの夢を叶えようと自分のペンネームを木之内惣と名付けた。美里は木之内惣を心底愛していたんだ。おそらく今も、そしてこれからも・・・」
「そうだったのね・・・。」
「俺は美里に新作をどんどん書かせ、一躍人気作家へと押し上げた。執筆活動で忙しくなった美里は奈央の世話をする時間が少なくなっていった。それでも美里はやりくりして幼い奈央との時間を作っていたんだ。俺もそれについてはずっと申し訳なく思っていたよ。だから俺は美里に言ったんだ。しばらく仕事を休んで奈央とふたりで旅行にでも行ってこい、と。それが悲劇の発端だった。」
渚は苦悶の顔を浮かべる湊に胸が痛んだ。
いつも偉そうでなんの悩みもなさそうな湊が、こんな表情をするなんて・・・
「湊。もういいのよ。そんなに辛いなら話さなくてもいい。大体の事情はわかったから・・・」
そう優しく語りかける渚に、湊は首を振った。
「いや・・・。渚には全部知っていてもらいたい。黙って聞いててくれ。」
「わかった。」
渚は改めて姿勢を正した。
「美里は奈央を連れて日本海が見える北陸の土地を旅することにした。途中までは楽しい旅だったようだ。奈央と一緒に綺麗な景色を見たり、遊覧船に乗ったり、美味しいものを食べたり・・・。けれど旅行の
「・・・・・・。」
「美里は消えた奈央を必死で探し始めた。もし奈央がお腹を空かして泣き叫ぶような子供だったらそんなことにはならなかったのかもしれない。だが、渚も知っての通り、奈央はしっかりした子供だ。美里が仕事をしているのを邪魔したくなかったのかもしれない。奈央はひとりでなんとかしようと、ふらりと部屋を出てしまったんだ。」
「奈央君らしい・・・」
「旅館の中を探してもどこにもいない。誰かに連れ去られてしまったのではないかと、美里は半狂乱になった。俺が車で駆けつけたとき、美里は近くの病院のベッドで眠っていた。心痛で気を失ってしまったんだ。警察に届けを出して2日目の朝、奈央は保護された。金沢駅の片隅にあるベンチにぽつんと一人で座っていたそうだ。」
そこまで話して、そのときの安堵感がよみがえったのか、湊は小さく息をついた。
「奈央の話だと、優しい老夫婦に飯を食わせてもらったんだそうだ。これは俺の推測だが、その老夫婦は世話をしている内に奈央を手放すのが惜しくなったんだと思う。しかしそうしているうちに日にちが経ってしまい、自分達が誘拐まがいなことをしていることに気づき、怖くなって奈央を人目が付く場所へ置いていった。警察に届け出るには時間が経ちすぎていたし、最悪牢屋へ入れられると思ったのかもしれない。酷いことはされなかったみたいだし、むしろ親身に世話してもらったと奈央は主張していた。」
「良かった・・・。それじゃそのことは奈央君のトラウマには・・・?」
「奈央のトラウマにはなっていない。だが・・・・」
「美里さんのトラウマになってしまったのね。」
「ああ。元々脆い美里の繊細な心が壊れてしまった。」
そう言って湊は両手で顔を覆った。
「美里の罪悪感はいつまで経っても癒えることはなかった。私は母親失格だ・・・もう奈央に合わせる顔がないと泣き続け、長らく部屋に閉じこもってベッドに横たわっていた。食事もろくに喉を通らずで・・・。それが・・・ある日突然スイッチが切り替わったように元気になった。食欲も元に戻った。そして執筆活動を精力的に復活させた。それは気味が悪いほどの変わりようだった。・・・そう、言葉通り美里は変わってしまったんだ。美里という人格が消えた木之内惣という人間に。」
「・・・・・・。」
「それでも最初の頃はすぐに木之内惣から連城美里に戻って来たんだ。だが・・・忙しくなるにつれ、木之内惣の人格である時間が長くなり・・・ここ3年はずっと木之内惣のままだった。自分が美里だった頃の記憶は消え、奈央の存在も忘れ・・・。」
「・・・・・・。」
「俺は奈央から美里という母親を奪ったんだ。そればかりか今でも木之内惣の執筆活動を担当編集者として支え続けている。美里の人格が戻ることより、木之内惣の小説家としての才能を俺は選んだんだ。奈央にとって最低な叔父だ。だからせめて奈央をしっかり育ててやりたい、そう思って今日まで過ごしてきたんだ・・・。」
「奈央君には、家へ帰ってこない美里さんのことをなんて説明しているの?」
「遠くの療養所で病気を治すことに専念している、と伝えてある。奈央がどこまでその話を信じているかはわからないけどな。」
「・・・・・・。」
「渚は俺が奈央の為に作るスイーツを愛だと言ったそうだな。それは愛なんかじゃない。贖罪だ。」
「・・・そんなことない。経緯はなんであれ、奈央君の為に精魂込めて作っていることに変わりはないもの。並大抵な気持ちでは続けられないことよ?」
「・・・・・・。」
渚の言葉に、湊は否定も肯定もせず、ただ頭を横に振った。
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