第16話 渚、仕事に悩む
奈央との勉強時間が終わり、いつしか渚は絹の作った夕食をご馳走になるのが習慣となっていた。
しかしその日の渚は、美味しそうなオムライスを目の前にしても、いまいち食欲が湧かなかった。
仕事での懸案事項が、渚の心を重く覆っていた。
目の前に座る奈央が、心ここにあらずの渚を心配そうにみつめながら言った。
「渚、大丈夫?なんか今日はずっと元気がないみたい。具合が悪いの?」
「渚様、もしお加減が悪いのでしたら、無理して食べなくてもよろしいのでございますよ?」
箸が進まない渚に、絹も遠慮がちに声を掛けた。
しかし渚は小さく首を振り、無理矢理微笑んでみせた。
「ううん。大丈夫。心配掛けてごめんなさい。ちょっと仕事が立て込んでて。仕事をプライベートに持ち込むのは良くないってわかってはいるんだけど・・・」
「そうだな。仕事をプライベートに持ち込むのは社会人失格だ。」
いつの間に帰ってきたのか、珍しく湊が食卓のテーブルに着いた。
「あら湊坊ちゃま。今日はお早いお帰りでしたのね。今すぐに支度いたしますからちょっとお待ちくださいませね。」
湊の世話を焼くのが嬉しいとばかり、絹は席を立ち、いそいそとキッチンへ向かった。
湊は誰に向けてというわけでもなく「ただいま」と言った。
「お帰り、湊。今日は仕事早く終わったの?」
「ああ。思ったより打ち合わせが早く終わった。」
「じゃあ今日は一緒にアニメ観ようよ。今学校で流行ってるんだ。」
出会った当初からは信じられないくらい仲睦まじい湊と奈央の会話を聞いても、自分への嫌みを投げかけられても、渚は無言のままでオムライスの黄色い卵をスプーンで小さく口に入れた。
そんな渚に湊が怪訝そうな顔をした。
「おい。何黙り込んでんだ。渚の減らず口が返ってこないと調子が狂うだろ。」
「なにしれっと、人の名前呼び付けにしてるのよ。」
「奈央が渚と呼んでるのに、俺がそう呼んで何が悪い。お前の雇い主は俺だぞ。」
「もう、別になんでもいいけど!その代わりに私もあなたのこと湊と呼ばせてもらう。」
「勝手にしろ。」
渚は力なく湊を見て、大きなため息をついた。
「今日は湊と口喧嘩する気分じゃないの。ほっといてよ。」
「女のほっといて、はかまって欲しいの裏返しだろ?」
「・・・・・・。」
「何か仕事上の悩みがあるなら、聞いてやるから言ってみろよ。」
「さっき仕事とプライベートをわけろと言ったのは湊でしょ?それに湊に話してもどうにかなる話じゃないから。」
「話して気が楽になるかもしれないだろ?」
「・・・・・・。」
「お前の辛気くさい顔見てると、こっちの気分も下がるんだよ。いいから話せ。」
頬杖をついた湊にじっとみつめられ、渚は重い口を開いた。
「今私が仕事で抱えてる案件なんだけど・・・。」
渚がスマイル&ピース不動産に来店した
高藤は自宅とは別に、投資用ワンルームマンションの一室を所有していた。
そのマンションの立地は都心へのアクセスも良く、中古だが大規模修繕も定期的に行われており、建物自体は新築といっても見劣りしない外観。
利回りも良く、売りに出すのはいささか時期尚早と思われる物件だ。
しかし窓口で相談を受けた渚に高藤は、そのワンルームマンションをなるべく早く、しかも高値で売りたいと訴えた。
高藤は自宅を購入するさい、借地権付きの新築戸建て住宅を選択した。
借地権付き住宅は借地料を払わなければならないが、その分戸建て物件の購入代金はかなり安く設定されていた。
自分の土地ではないので固定資産税を支払わずに済むという利点もあった。
しかし今年になって土地オーナーが変わり、今までより数倍高い借地料の値上げを提案、いや宣告された。
そして値上げを受け入れるか、もしくは借地権を買ってくれと土地オーナーに迫られているという。
さらにタイミングが悪いことに、今年は借地契約をかわして20年目、土地賃貸契約を新たに結ぶ為の更新料を払う年だった。
高藤は決心した。
更新料と高い借地料を支払い続けるくらいなら、借地を買い取り自分の土地にする為に、投資用マンションを手放そうと・・・。
しかし更新料の支払い期日は今年の秋。
それまでになんとしても借地を購入出来る額で投資用マンションを売却したい。
しかし高藤が望む投資用マンションの売却額は、相場より高いものだった。
相場であればすぐに買い主が決まると思われる物件ではあるけれど、それより高い売値だと同条件で安い売値のマンションへ買い手は流れてしまう。
依頼を受けてからというもの、渚は毎日のように営業をかけているが、なかなか買い手は見つからない。
弱り切った高藤の姿を見るたびに、渚の焦りも強くなっていった。
「そのワンルームマンション、本当に良い物件なの。値段さえ下げればすぐに買い手が付くはずなんだけど・・・。」
「いくらで売りに出してるんだ。そのワンルームマンションは。」
渚はその金額を口にした。
湊は鼻から息を吐き、眉間にしわを寄せた。
「話にならないな。売値を下げさせるしかないだろ。」
「でも・・・高藤さんも借地権を買うのにどうしてもその金額が必要なの。売主さんの要望にはできる限り答えてあげたい。」
「理想だけじゃ仕事は進まないぞ。ときには冷徹になることも商売をやっていくには必要だ。」
「・・・・・・。」
「そのマンション名と場所を教えろよ。」
「S区O町にあるチェリオガーデンマンション。」
湊はスマホからグーグルマップアプリを起動して検索を始めた。
「ああ。あそこか。」
どうやら湊はチェリオガーデンマンションが建っている辺りに土地勘があるようだった。
「ちなみに部屋番号は」
「湊には関係ないでしょ?」
「いいから教えろ。」
「・・・707号室だけど。」
「部屋番号は縁起がいいな。そこを推してみたらどうだ?」
「人ごとだと思ってふざけないでよ。」
「ふっ。お前でもそんなネガティブになることあるんだな。」
そう言って湊はにやりと笑った。
「・・・・・・馬鹿にして。」
しかし仕事の突破口を見いだせない渚は、湊の軽口に言い返す元気もなかった。
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