第14話 渚、推し作家からサインを貰う

仕事が終わり待ち合わせした湊に連れて行かれたところは、湊の職場である栄文社の本社だった。


栄文社の社屋は、さすが老舗大手出版社だけあって大きく立派であり、人の出入りも多く、渚は圧倒されっぱなしだった。


ロビーの受付でゲストだということを証明するストラップカードを受け取ると、渚はそれを首にかけた。


初めての場所で心細い渚の前を、堂々と歩く湊の背中が頼もしい。


エレベーターで4階まで上り案内されたのは、湊が所属する文芸編集部一課のフロアだった。


フロアの隅に簡易な応接セットがあり「ここで待ってろ。」と湊に言われた渚は、その茶色いレザーのソファに座った。


湊は自席らしき机に戻り、引き出しからブルーの紙袋を取り出してから、再び渚の元へ戻ってきた。


渚の前に座った湊は、その紙袋を差し出した。


「え・・・?なに?・・・これ」


「俺からお前へのプレゼントだ。」


まさかのサプライズに渚は何も言えず、その紙袋をみつめた。


「これを渡す為に、私をここへ?」


「お前は小説が好きだから、本が作られるこういう場所も好きだと思った。あとで社内をじっくり見学すればいい。俺が案内する。」


「・・・紙袋の中を見てもいい?」


「もちろん。」


渚がおそるおそる紙袋を開けると、中には一冊の単行本が入っていた。


それを取り出すと、パステル画で描かれた淡い虹色の表紙が目に飛び込んできた。


小説の名前は『紫陽花あじさいと少年』


そして作者名は『木之内惣きのうちそう


「え・・・嘘でしょ・・・これって・・・」


「木之内惣の幻のデビュー作だ。」


「信じられない・・・もう絶版していて、どこを探しても手に入らないことで有名な本なのに・・・。本当にこんな貴重な物を貰ってしまってもいいの?」


「ああ。」


「これ、どこにあったの?」


「つてを使って取り寄せた。古い友人でお前と同じく木之内惣の小説に惚れ込んでいる奴だ。そいつは一作の本を観賞用保存用布教用と3冊持っている。その布教用を頼み込んで譲ってもらった。」


「嬉しい!私、この小説の存在を知ってからずっと読んでみたいと思っていたの。」


「そうか。それは良かった。」


渚は夢見心地の表情でその本を抱きしめた。


今すぐ読みたい!・・・そんな気持ちを抑えるのに精一杯だった渚は、しばらくして目の前の湊にお礼を言っていなかったことにハッと気づいた。


「あの・・・連城さん。」


「なんだ。」


「私、あなたのこと誤解してたみたい。あなたは頭でっかちでデリカシー皆無の俺様オトコだと思ってた。ううん、今もそう思ってる。」


「おい。」


「でも優しいところもあるのね。・・・今日は本当にどうもありがとう。」


渚の言葉に湊はフッと鼻で笑った。


「お前からそんなに心のこもった言葉が聞けるとは思わなかったな。雪が降ったらどうしてくれるんだ。車にタイヤチェーンを巻かないといけないだろ。」


「ちょっと!私からの素直な気持ちを受け取りなさいよ。」


「お前が素直になると天変地異が起きる。」


「はあ?あなたがこんなサプライズするなんてそれこそ天変地異の前触れだわ。」


そう言い争う渚と湊に、透明感あふれる上品な女性が、おっとりとした口調で声を掛けた。


「なあに?天変地異って。もしかしてノストラダムスの大予言的なこと?」


渚と湊は同時に声の主の方を向いた。


渚の目に映ったのは、静かに微笑む美しく儚げな女性だった。


ボブカットのさらさらな黒髪、ほっそりとした身体をエメラルドグリーンのブラウスと白いパンツで包み、女神のようなオーラが輝いている。


さすが大手出版会社・・・こんなに綺麗な社員もいらっしゃるのね・・・と渚は思わず感嘆のため息をついた。


すると次の瞬間、渚は湊の言葉を耳にして、さらにその何十倍も驚愕した。


「木之内先生・・・どうしてここに?今日は打ち合わせの予定なんてなかったはずですが?」


「あら。予定が無くちゃ来てはいけないの?最近湊君冷たいじゃない?連絡もいつもメールばかりで、たまには仕事場に顔を出したらどう?私と湊君の仲じゃない。」


「しかし編集部に来られるときは連絡をすると約束したはずだ。こちらにも予定というものがあるんです。」


この美しい女性が・・・木之内惣先生?


ていうか木之内先生って女性だったの?


てっきり男性だとばかり思っていた。


でも・・・考えてみればあの艶やかな文体は女性にしか描けないものだわ。


ああ、憧れの木之内惣先生にお会いできるなんて・・・これは夢?


そう感動に打ち震える渚を、木之内惣が不思議そうな顔で眺めた。


「湊君、この方は?バイトのお嬢さん?初めてみる顔だけれど。」


木之内惣の問いかけに湊が答えようと口を開いた。


しかしそれより早く、渚は木之内惣の前に立ち、キラキラと瞳を輝かせながら自己紹介を始めた。


「私、岡咲渚と申します!木之内先生の小説が大好きで毎日のように読んでいます!先生の小説は温かくて優しくて美しくてピュアで・・・とにかく全てが最高です!恥ずかしながら木之内先生の小説をたったいまコンプリート致しました!もしご迷惑でなければこの本にサインを頂きたく!」


渚はたったいま湊からプレゼントされた本を、素早く木之内惣の目の前へ差し出した。


「あら・・・『紫陽花と少年』ね。久しぶりにみた。・・・懐かしいわあ。これ私の処女作なのよ?」


「はい。存じあげております。」


「あ、サインね。いいわよ。湊君、サインペン貸して。」


「木之内先生、すまない。俺の知り合いが図々しくて。」


湊はそう言って渚を睨みチッと舌打ちをしたが、渚はそんなことは全く気にしていなかった。


木之内惣は湊からサインペンを受け取ると、『紫陽花と少年』の裏表紙にすらすらとサインを書いた。


そしてその本をまた渚に手渡した。


「いつも読んでくれてありがとう。これからもよろしくね。」


「はい!もちろんです。これからもお身体に気をつけて頑張ってください。応援してます!」


そして渚はサインだけでなく握手も求め、木之内惣の白魚のような手を握りしめることが出来たのだった。




その日の帰りの電車の中。


渚は湊と並んで椅子に座り、心地よい揺れに身体を委ねていた。


上機嫌の渚とは対照的に、湊はなぜかずっと不機嫌な顔を隠しもしなかった。


「ああ、今日は素晴らしい一日だった。私もう一生手を洗わないでおこう!」


「・・・・・・。」


「木之内先生って作品だけでなく、ご本人も思っていた通り素敵な方だった。ね、連城さん。木之内先生の仕事場ってどんな感じ?きっと机にスイートピーなんか飾って、アールグレイティーなんか飲みながら、優雅に執筆なさるんでしょうね。」


「そんなわけないだろ。締め切り間近なんか戦場だ。」


そうムスッと答える湊の顔を渚は不思議そうに覗き込んだ。


「さっきからなに怒ってるの?私、なにか気に障ることした?」


「・・・俺はお前と木之内惣を会わせるつもりなんかさらさらなかったんだ。」


「なんで?どうしてそんな意地悪なこと言うの?私が木之内先生と会ってなにが悪いのよ。ちゃんと理由を聞かせてよ。」


空気を読まない渚に、湊のイライラが爆発した。


「ふざけるな!理由が言えたら苦労しないんだよ!とにかく・・・いろいろ面倒くさいことになる予感しかしない。」


渚は少し考え、そして自らの推理を披露した。


「わかったわ。連城さん、あなた木之内先生とただならぬ関係にあるんでしょ?だっていくら担当編集者だと言ったってあなたと木之内先生との空気感は特別なものを感じるわ?呼び方からして湊君、だし。」


「・・・・・・。」


「私、そんなこと全然気にしないわよ?だってあなたと私は何でもないもの。あなたが誰と付き合おうが私の人生には一切関係ないので、お気になさらず。」


「下世話なこと言うな。何も知らないくせに。」


「知らないから教えてって言ってるのに。」


「うるさい!俺はここで降りる。一人で勝手に帰れ。」


「は?」


湊は駅に着いたと同時に席を立ち、渚を置き去りにして電車から降りて行った。


「なによ。また置き去り?今日はいい奴だって見直したのに・・・あの自己中オトコ!」


渚は頬をふくらませながら、木之内惣のサイン本が入ったバッグを胸に抱きしめた。




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