第24話 夏祭り 後編
男たちは七海の知り合いのようだった。
あまりガラのよくない出で立ちの輩たちだったので、中学時代の知人なのかもしれない。
「ちょっと、離して」
七海は腕を振り払おうとするが、掴まれた手首はなかなか外れない。
「まーまー、こんなところで会ったのも何かの縁ってことでさ、一緒に回ろうぜ」
「嫌よ、離してって言ってるでしょ……!」
七海が語気を強くするが、周囲の人間はことなかれだ。何事かと視線を向けつつも、揉め事とわかるとすぐに目を逸らしてしまう。
そして、この混雑の中でも、人の流れは七海たちの周りをよけていく。
ガラの悪い男子たちが女の子に絡んでいて、女の子は明らかに嫌がっている。そんな状況でさえ止めに入る者はいなかった。
仕方のないことではある。
人を助けるには理由がいるのだ。〝正しさ〟以外の大義名分がないと、人間はなかなか動けない。アメコミのヒーローですら理由がないと安直だと言われてしまう、煩わしい時代である。
例えば僕の場合は彼女の同居人であり上司でもあるので、それを自分への言い訳にして、彼らに割り込んだ。
「まあまあ、嫌がる女の子を無理に誘うのは良くないよ」
「あ? なんだおっさん」
男たちの一人が威嚇するような声を上げる。
「私のことはどうでもいいじゃないか」
こちらはおだやかに声をかける。それにしても最近の若い子は背が高い。近づくと、目を合わせるために見上げなければならなかった。
「長谷川さん……」
七海のか細い声に、若者たちが反応する。
「なに? ナミちゃん知り合い?」
「パパ活じゃね?」
「マジかよおっさんクズじゃね?」
「俺らに説教くれてる場合じゃなくね?」
などと面白おかしく囃し立てる若者たち。
早くも場を収めるのは難しくなりつつあった。
こうなったら、火に油を注いで目立つように仕向けた方がよさそうだ。
「まあまあ、私のことはどうでもいいから」
七海とその腕をつかんでいる男の方へ近づいていく。
「その子を離しなさい」
「うっせえよオッサン」
「まあまあ、私のことはいいから」
「おい」
「まあまあ、私のことは」
「――うっせえつってるだろオッサン!」
そこで男はあっさり我慢の限界を迎えた。
七海を掴んでいた手を離し、その手をそのままこちらに向けて振るってくる。
左肩の辺りを強く押された僕は、よろめいて派手に後ろへ倒れ込んだ。
周囲の野次馬どもが一気にざわつく。
「なになに、ケンカ?」などと面白がる声もちらほら。
よく響く悲鳴を上げた茶髪の子に、心の中で親指を立てる。ナイス。
「――長谷川さんっ!」
七海が泣きそうな顔をしながら、倒れた僕に駆け寄ってくる。
その肩越しに、僕を突き飛ばした男を盗み見る。彼は自分の手のひらを見ながら首をかしげていた。
「大丈夫ですか」
「ん、ああ、大したことは――」
「コラぁ! お前たち、何をしている!」
若者たちの背後から、居丈高な怒鳴り声が聞こえてきた。正義は我にあり、と言わんばかりの堂々たる大声は、巡回している警備係のものだ。
「ヤバッ」「クソ面倒くせえ」「逃げろ」と若者たちは散り散りになっていく。
「僕たちも行くよ」
「えっ?」
「事情を話すのが面倒だ」
「で、でも長谷川さん怪我は……」
「今はいいから、ほら」
戸惑う七海の手を取って、その場から走り去る。縁日の人混みを素直に駆け抜けるのではなく、屋台のすき間に飛び込んで、業者用の裏道から脱出した。
まったく、この夏の夜は走ってばかりだ。
先日の同窓会を思い出しておかしくなる。
いい歳をして夜道を走っていると、青春を挽回している感は確かにある。しかし、身体は悲鳴を上げていた。これは本当にジム通いを検討しなければならない。
「はあ……、はあ……」
立ち止まって息を整えている僕に比べて、七海は浴衣に下駄履きという格好にもかかわらず、あまり呼吸が乱れていない。年齢差を痛感する瞬間であった。
「あの、長谷川さん」
「はあ、はあ……、うん?」
ようやく息が整って顔を上げると、七海は眉をぎゅっと寄せて神妙な顔をしていた。てっきり「もう歳ですね」などとからかわれるものと思っていたら、無言のまま近づいてきて、背中を
「服が汚れてます」
「派手に倒されたからねぇ。年を取ると踏ん張りがきかなくて――」
「さっきのあれ、わざとですよね」
「なんのことかな」
「冷静に考えると、いろいろ上手く行きすぎだったなと思ったので」
七海は確信しているようだったので、こちらも素直に種を明かす。
「警備の巡回にはある程度の間隔があるみたいだったからね、いいタイミングで騒がしくなるように、派手なリアクションを取ってみたんだけど、うん、確かに我ながら上手くいったね。とても気分がいい――ちょっと水渡さん? もう叩かなくても」
やり取りのあいだ、七海はずっと僕の背中を叩き続けていた。しかも徐々に強くなっている。壊れてしまった肩たたき機みたいに。
「汚れが取れてません」
「ここまでやって取れないなら、叩いて落ちる汚れじゃないんじゃないかな」
「まだわからないです」
バシン、バシン、と七海の平手は服ではなく明らかに人体を攻撃していた。
「もしかして、怒っているのかな?」
「……すごく、びっくりしました」
「だろうね」
「心配しました、本当に」
ぱしん、ぱしん、と叩く力が弱まっていく。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
「あたしのせいで、怪我させたらって思うと、本当に、怖くて……」
「君のせいじゃない」
「でも、」
「この騒動は百パーセント連中が悪い。私に申し訳ないと思うなら、自分を悪く言わないように。いい歳をして張り切った甲斐がないじゃないか」
最後には、手のひらはそっと触れるだけになる。
「……ありがとう、ございました」
こちらの回りくどい説教を正しく理解して、七海はその言葉をつぶやく。
「どういたしまして」
「格好よかったです」
「それは嘘だ」
「本心なのに」
「この歳になるとね、自分に都合のいい話は、まず疑ってかかるようになるのさ」
「そう……、なんですか」
七海は黙ってうつむいてしまう。
「水渡さん?」
数秒ほどして顔を上げた七海は、申し訳なさそうな苦笑いで足元を指さした。
「実は、下駄の鼻緒が切れちゃったんですけど……」
「なるほど、タクシーを呼ぼうか」
「それは余計な出費です」
真顔で歩いて行こうとする七海を押しとどめる。
そして、彼女に背を向けてしゃがんだ。
「仕方ないな……、ほら」
「え、いいんですか?」
「重い荷物を運べなければスーパーの従業員は務まらない」
「そ、それじゃ、お邪魔します……」
人目が気になるおんぶではあるが、二度目ともなると抵抗感は少なかった。
むしろ七海があっさり受け入れたことが意外だ。
軽口もスルーされてしまったし、やはりまだ動揺があるのだろうか。
「あたし、重くないですか?」
「まあ、こんなものじゃないかな」
「軽いですか?」
「楽々というほどではないけど……、あまり背中に密着しないように」
「あー、もしかして感触が気になってます?」
「いや、単に蒸せるだろう。感触なんて布のゴワゴワ感しかないゴワ」
喉を押さえられて妙な語尾になってしまう。
「のどぼとけ、ごつごつしてて、男の人って感じですね」
「意味深なセリフで誤魔化さない」
「あたしをどこへ連れていくつもりですか?」
「まず呉服店へ寄らないとね、浴衣を返さないと」
先ほどの騒ぎによる動揺と、夏の夜の雰囲気に当てられたせいか、七海は終始おかしなテンションだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
好きな人の背中の上という夢のような時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
浴衣を借りた呉服店へ入るとき、長谷川さんは下駄の修理費について何度も言ってきた。
「あとでいくらかかったか教えるように」
「いいですよ、それくらいあたしが払いますから」
あたしはそれを何度も拒んで、一人、店の中へ。
浴衣を脱いで返すとき、お店の人に鼻緒が切れたことを伝える。
上品な和服のおばあちゃん店主は、ニコリと笑った。
「いえ、すぐに直せますから、構いませんよ」
「えっ、でも……」
「鼻緒が切れたのはこちらの落ち度かもしれませんからねぇ。転んで怪我などしませんでしたか?」
そんな風に逆にやさしく気遣われると、あたしはやっぱり、この下駄をただで返すわけにはいかないと、かたくなになってしまう。
「それは大丈夫です。……ていうか、切れたんじゃないんです」
「え? でも」
「あたしが切ったんです、自分で」
おばあちゃん店主もさすがにきょとんと眼を丸くする、
「それはどうしてまた」
「……鼻緒が切れて、歩けなかったら、おんぶしてもらえるじゃないですか」
――思い返すのは同窓会の夜。
あの夜、長谷川さんと古井河先生の帰りは遅くなかった。一次会が終わってそのまま帰ってきたんだろうな、っていうくらいの時間で、二人で何かしていたわけではなかったと思う。
でも、何もなかったわけじゃないはずだ。
だって、先生のハイヒールが折れていて、長谷川さんの服の背中あたりからは、先生のつけていた香水が強く匂っていたのだから。
そのときは別になんとも感じなかった。
いい大人が可愛らしいことをするものだなぁ、って微笑ましくて、からかってやろうかと思ったけど、なんとなく言いそびれてしまって。
それがもう、次に思い出したときには、ずるいと思うようになっていた。
あたしも長谷川さんにおんぶされたい。
でも、どうやって?
そのチャンスは思いのほか、早くやってきたのだった。
長谷川さんの態度はまるで手ごたえがなかったけど、そこそこは満足していた。不満があるとすれば、あたしの嘘をあっさり信じてしまったことくらいだ。
店の外にちらと目を向ける。
視線の先にいる人に、おばあちゃん店主も気づいたらしい。
「おやまあ、それはそれは……」
なんて口元に手を当てて笑っている。
「そういうことなら、お代をいただいておきましょうか」
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