第23話 夏祭り 前編

『水渡さんが落ち込んでいたらフォローしてあげて』


 電話口から聞こえる古井河の声は、めずらしく沈んでいた。

 日ごろから明るい彼女にしては、という意味ではない。感情の起伏を隠すことのできる大人の女性にしては、という意味だ。


 取り繕う余裕がなかったのか、それとも、こちらの心配を誘うための大げさな演出だろうか。どちらにしても、異常事態には違いない。


 部屋に戻ると、確かに七海の様子はおかしかった。

 焦り、落ち込み、挙動不審。


 これはいけない。

 不安定なままで部屋にいるくらいなら、外で気分転換をした方がよさそうだ。


 そう考えて、渋る七海を連れ出した。




 アパートを出て、河川敷方面へ向かってしばらく歩いていると、徐々に人出が増えてきた。人混みの中にちらほらと、色鮮やかな浴衣姿の女性が目立つ。白いうなじを求めて視線がさまよう。


 今夜は夏祭りだ。数日間にわたって行われる、近隣では最大規模の祭りであり、今日はその中日なかびだった。


 毎年開かれている催し物なのだが、僕にとってそれは、いつしかカレンダー上の丸印でしかなくなっていた。もともと人混みが苦手であるし、一緒に行く相手もいなくなってしまい、この手のイベントからはすっかり遠ざかっていたのだ。


「――水渡さん?」


 重い腰を上げるきっかけになった同行者を振り返る。

 七海は数歩うしろをカルガモの子のようについてきていた。

 そんな控えめな距離感は、やはりいつもの彼女らしくない。


「……なんですか」


「浴衣を着てみようか」


 ふと呉服店の看板が目について、僕はそう提案していた。この時期は浴衣の着付けをやっていたはずだ。


「え? ……ユカタン半島?」


「違う。浴衣だ」


「あ、やっぱり聞き間違いじゃなかったんですね」


「むしろこの状況でどうしてそっちの単語が出てくるのか」


「聞こえなかったことにして、やり過ごそうとしたんです」


 計算をあっさり明かすいさぎよさに、思わず笑ってしまう。


「……正直だね。浴衣なんて着たくない?」


「余計な出費ですよ」


 七海は遠慮を口にした。

 先ほどと同じだ。


『あたしは、ここに住まわせてもらう代わりに家事をしてるのに――』


 七海がそんな風に考えていたことが、僕にはとても意外で、驚きだった。


 強引に一泊を要求する女子高生という、初日の印象が強かったせいだろう。だから、宿代なんて女子高生を置くための必要経費でしょ? と言わんばかりに図太く現状を受け入れているのだと、勝手に思い込んでしまっていた。


 しかし、七海は思いのほか常識的だった。経済観念もしっかりしていて、料理を作る際のモットーは『家計にも身体にもヘルシー』である。古井河にも見習わせたいくらいだ。


 そんな彼女からしてみれば、浴衣の着付けなど無駄でしかないのだろう。


「せっかくだし夏らしいことをしてもいいんじゃないかな」


「夏祭りに行くだけで十分じゃないですか」


「高三の夏休みはもう二度と訪れないんだよ」


「大人がよく使うセリフですよねそれ」


 こちらの説得はあっさりと跳ね返される。

 ありきたりな言葉は信じないぞという、子供じみた潔癖さが微笑ましい。

 そこで、攻め方を変えてみた。


「どうせ一緒に歩くなら、浴衣の子の方が気分がいいからね」


「……それって、女は飾りってことですか」


 予想外にひねくれた返事だった。

 今までの七海であれば、「それってつまりあたしの浴衣姿が見たいってことですよね」などと(自称)小悪魔的な笑顔で切り返していただろう。


 やはり気分が落ち込んでいるのか。それとも、こちらのネガティブな側面こそが本来の彼女なのか。


「飾りイコール中身がない、と捉えているなら、その発想は捨てた方がいい」


「えっ?」


「本来、飾りというのは工夫でありメッセージだ。サインであり気遣いでもある。水渡さんが考えているようなものは、虚飾というんだ」


 七海はポカンと口を開けていたが、目が合うとすぐに逸らした。


「……そんなガチの反論しないでください。わかりましたよぉ、家主様のご指示に従いますから」


 ふてくされた物言いで、七海は逃げるように呉服店へ入っていく。




「どうですか? 清楚でキュートな浴衣JK爆誕ですよ」


 店から出てきた七海は、一転して機嫌がよくなっていた。衣装を替えて気分が上がったのか、時間をおいて気持ちを切り替える余裕ができたのか。どちらにしてもいい傾向だった。


 両腕を広げてその場でくるりと一回転し、自らの姿をアピールしてみせる。


 白い生地にところどころ紅色の花を散らした、シンプルなデザインの浴衣だ。黒髪の七海にマッチしている。小物入れの巾着袋や、からんころんと鳴る下駄も、清楚でキュートな浴衣JKの演出に一役買っていた。


「これはこれは……」


「我ながら見事な浴衣美人が出来上がってしまったと、鏡の前で見とれちゃったくらいなんですけど。どうですか?」


 七海が距離を詰めてくる。

 ん? どや? 素直になってもええんやで? と言いたげな上目遣いで、口元もニヤニヤとゆるんでいる。


 僕は改めて七海の浴衣姿をじっと見つめた。


 家族にも似た関係にある相手が、浴衣という非日常的な衣装に身を包み、いつもと違う表情を見せてくれる。そこには新鮮な驚きと喜びがあった。


「いやあ、子供に晴れ着を着せたがる親の気持ちがよくわかるよ」


 七海は巾着袋を取り落とした。


「大丈夫かい」


 こちらがしゃがみ込んで巾着袋を取ろうとすると、


「だ、だめです、長谷川さんは触らないでください」


「落としたものを拾うだけじゃないか」


「それでもダメなんです」


 七海は素早く腕を伸ばし、鷹が野ウサギをさらうように一瞬で袋を回収してしまった。


「何かやましいことが」


「ないです何も」


「そう? 本当に?」


「もー、早く行きましょうよ、せっかくの夏祭りなんですから」


 そこからの七海は、大いにはしゃいでいた。


 たこ焼きにいか焼きにたまご焼き。

 わたあめにりんごあめにかき氷。

 射的に型抜きに金魚すくい。

 いろいろな食べ物を口にして、いろいろなゲームに手を出していた。


 次から次へと屋台を渡り歩いていく七海に比べて、僕はというとその後ろ姿を見失わないようにするだけで精いっぱいだった。


「ちょっと歩くの早すぎないかい?」


 追いつくたびに、そう声をかけるのだが、


「長谷川さん、運動不足なんじゃないですか?」


 と七海はケラケラ笑って先へ進んでいく。


 まるで子供だった。


 水渡七海という女子高生を、僕はことあるごとに子供扱いしてきた。

 しかし、実際のところ彼女は、その辺の同年代よりもかなり大人びている。


 アルバイトで給料を稼ぎ、それを遊びではなく生活に費やしている金銭感覚。家事全般への慣れっぷりや、相手に応じて仮面を付け替える人づきあいの器用さ。


 それらはいずれも、僕が高校生の頃には持っていなかった能力だ。当時の僕の幼さを差し引いても、七海はやはり早熟といえた。


 人の在りようを決めるのは意志と環境だといわれている。特に若いころは環境の占めるウエイトが大きいというのが通説だ。


 現実として、七海の環境は少々、一般的とは言いがたい。


 環境のせいで、子供が大人のように振る舞わなければならない状況を、不幸と言い切るほど傲慢ではないつもりだ。しかし、手足を自由に伸ばせない、ある種の窮屈さがあるのも事実だろう。


 では、今の七海はどうか。

 人混みを駆け抜けて、屈託のない笑顔を見せる水渡七海は。

 彼女は自由なのだろうか。


 それすらも仮面である・・・・・・・・・・可能性を否定できない、不確かな関係だが、それでもわかることがある。


 七海は今この時間だけは許したのだ。

 自分が子供のように振る舞うことを。


 暗がりを舞う白い浴衣姿を眺めながら、このお節介にも価値があったなと、僕はおだやかな満足感に浸っていた。



 ――しかし、ままならない。



 大人になるのが悪いことばかりではないように、

 子供であることが良いことばかりではないのだ。


 子供らしい振る舞いが――無邪気さと、注意力の散漫さが仇になった。


 よそ見をしながら歩いていた七海は、前方から流れてきた数名の集団にぶつかってしまった。

 それだけならまだいい。

 問題は、その相手もまた子供だったことだ。

 不寛容で我がままで、そして数の多さによって気が大きくなっている、やっかいなお子様たち。


「ご、ごめんなさい!」


 七海がとっさに謝るが、男の一人がその白い手首をつかんだ。


 トラブルの気配を感じ取って、彼女の元へ急ぐ。

 七海の腕をつかんだ男が、軽薄な口調で言う。


「あれ、ナミちゃんじゃね?」

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