第22話 心配あるいは牽制
「……あら、水渡さん。帰ってたのね」
通話を終えてスマホを仕舞った古井河先生が、あたしに気づいて振り返る。
「あの、センセ、今の電話は?」
尋ねると、先生はイタズラが見つかった子供みたいな苦笑いで、
「アパートを出たこと、母さんに知られちゃって」
「知られちゃって……って、センセ、今まで親に話してなかったの?」
「だって面倒くさいじゃない。それなら実家へ帰ってきなさいって言われるに決まってるし」
「なんかテストで悪い点取ったのを黙ってる子供みたい」
「それが許されるのが大人なの」
「バレなかったらでしょ」
「そうよ、だからわたしは母さんにとってはまだまだお子様ってこと」
「アラサーでも?」
「歳は関係ないのよ」
先生はサラッとそう返したけど、声が少し低かった。
「帰るって言ってたけど」
「住む場所をどうするのかの報告もあるし、半年くらい帰ってなかったから、いい機会と思うことにするわ」
「実家ってどこなの?」
「車で一時間もかからない、ちょっと田舎の方よ」
「そんな近くなのに」
「いちど出ていくと、帰るのが億劫になるのよ。距離なんて関係なくね」
そのセリフは、先生自身だけじゃなく、あたしにも向けられている気がした。
あたしは正確には、家を出たんじゃなくて、新しい家へ行くのを拒んでいる立場だけど、親から離れているという意味では先生と同じだ。
違うのはやっぱり、経済力だ。
先生は親元に帰らなくても生きていける。
あたしは、一人ではホテルに泊まることもできない。
「それじゃあ、そろそろ行くわね」
「長谷川さんは知ってるの?」
「あとで電話するわ」
「ふーん……」
「戻ってくるのは明日の夜になると思うから」
「行ってらっしゃい」
「ええ」
先生はボストンバッグを持って玄関口へ向かい――その途中で振り返って、無言でじっと見つめてくる。
しばらく待っても何も言ってこないので、あたしは焦れて先に問いかけた。
「どうしたの」
「……二人きりの夜だけど、おかしなことはしないようにね」
あたしと長谷川さんが男女の一線を超えないように。
そんな、教育者の皮を被った上から目線の忠告。
だけどあたしはその口調に違和感を覚える。
いつもだったら冗談めかした言い方をするはずの先生が。
今日はなんだか余裕がなかった。
表情だって、笑おうとして失敗したみたいにぎこちない。
そんな隙を見せるから、あたしもつい、反撃をしてしまった。
「――それって先生としての心配? それとも、女としての牽制?」
古井河先生は反射的に口を開こうとして、でも何も言わずに、いちど自分の部屋へ入った。そしてすぐに戻ってくる。
「仮に、二人の間に特別な感情があるのだとしたら、わたしがとやかく言うようなことではないわね。でも水渡さん、あなたは女性なんだから、きちんと身を守る手立ては用意しておきなさい」
先生は神妙な顔であたしの腕を取って、手のひらに何かを置いた。カラフルな色の小箱だ。
「それじゃあ、明日の夜には戻るわ」
あたしの目は先生を見送るのも忘れて、手の中の小箱――コンドームにくぎ付けになっていた。
え……、何これ。
いや、なんなのかはわかっている。用途も用法も知っている。
実際に使ったことはないけど。
先生がこんなものを持っていることに、ただただ驚いていた。
三人ぐらしを始めたときから、そういうつもりだったってこと?
少なくとも、その可能性はあると思ってたんだろう。
これを持っているってことは、つまり、その。
求められたら受け入れる、そのための用意で。
長谷川さんと、そういうことをしてもいいっていうサインで。
ほんの数日前までは、あの二人がよろしくやることを考えてもなんとも思わなかった。むしろ、二人ともいい大人なんだし、思春期みたいにじれじれしてないで、さっさとくっつけばいいのにと考えていたくらいだ。
だけど、今は。無理だ。
そんな想像をするだけで動悸が激しくなる。
――というか、もうすでに。
あたしの知らないところで行為に及んでいるのだとしたら。
今までの暮らしを思い返してみても、あの二人のあいだに露骨な関係の変化や、距離感の縮まりを感じたことはない。だけど、大人ってそういう痕跡を上手に隠してしまうものだ。
ヒントを探してあたしは手の中のそれをじっと見つめる。
……よかった、未開封だ、これ。
でもちょっと待って。安心するのはまだ早い。
だって、これが一箱目とは限らないし。
わからないことはまだある。
これはそもそも、どれくらいのペースで消費するものなんだろう――?
薄っぺらなゴム製品ごときに、あたしはひどく心を乱されていた。
知り合いに聞けない疑問をスマホで検索しているうちに、おかしなサイトに入り込みそうになって慌ててバックして、でも頭の中で考えごとを続けていたら、またあらぬ方向へと思考が迷走してしまう。
ネットの海と脳内の迷路――その際限ない往復は、アパートの扉の開く音によって、ようやくストップがかかる。
「ただいま」
「――長谷川さん?」
あたしは反射的に小箱をポケットに隠す。
「ああ、水渡さん、帰ってたのか。部屋が暗いから気づかなかったよ」
そう言われて壁掛け時計を見ると、古井河先生が出ていってから数時間が経過していた。あたしはいつの間にかソファに座っていて、窓の外は夕焼けになっている。
「……嘘でしょ」
「ん?」
「あ……、ごめんなさい、まだ夕食の準備してなくて」
「いや、構わないよ」
「駄目ですそんな!」
あたしは慌てて立ち上がる。
自分で自分の声の大きさに驚いた。
長谷川さんも目を丸くしている。
今のやり取りのどこに、そんな大声を出すポイントがあったのか、という顔だ。
「水渡さん?」
「あたしは、ここに住まわせてもらう代わりに家事をしてるのに……、それを忘れたんだから、サラッと流さないでください」
「忘れた? 寝過ごしたんじゃなくて、忘れてたのかい?」
「え? ……あ」
しまった。
忘れていた、という理由はマズい。
外が暗くなっているのに、部屋の明かりをつけていない。それが居眠り中だったというならまだ納得できるだろう。
だけど、忘れていた、は明らかにおかしい。周囲の変化に気づかないくらい動揺していますと言っているようなものだ。
「えっと、あ、アラームをかけるのを忘れてたんです。今から作りますね」
早口でまくしたてながらも、それは無理だとわかっていた。冷蔵庫の中身はしっかり把握している。まともな夕食を作るには食材がぜんぜん足りない。
バタバタと台所に立つあたしに、長谷川さんは優しく笑って首を横に振った。
「今日の家事は休みにして、外へ出よう」
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