第25話 七海の事情
浴衣を着替えた祭りのあと。
アパートに帰り着くと日常に戻ってきたって感じがして、浮かれ気分も落ち着いてくる。
「あぁ、疲れた……」
長谷川さんはソファに埋まるように座ってぐったりしている。
なんやかんやあってくたびれている、そんなだらしない姿をかわいいと思う。
「水渡さんは大丈夫かい?」
「余裕です。若いので」
本当は古井河先生に向かってドヤりたいところだけど、いないので長谷川さんで我慢しておく。
……ああ、それにしても。
あたしはぐるりと部屋を見回した。
長谷川さんと二人きりだ。
それを改めて意識すると、先生にもらった〝お守り〟のことを考えてしまう。
三人ぐらしの現状を考えたら絶対にできないけど。
でも、仮にもし、あたしが〝そういうこと〟を迫ったら、長谷川さんはどんな反応をするだろう。
「どうしたんだい? 浮かない顔をして」
「いーえ、別に何も」
今までの生活で長谷川さんの人間性は理解していた。あたしごとき小娘が迫ったところで、その理性を崩すことはできず、冷静に拒まれるだろう。そのシーンがありありと想像できてしまう。
考えなしに突っ込んでも、きっと避けられるだけだ。
大切なのは雰囲気づくり。そうネットにも書いてあった。向こうが冷静でいられないくらい盛り上げて、煽って、焚き付けて、そこからが勝負だって。
もう一度、長谷川さんに目をやる。
……ちょっとだけ試してみようか。
膝の上に座ってみる、くらいのスキンシップならセーフかもしれない。無反応だったら、冗談ですよって笑って、すぐに離れたらいいだけだ。それなら気まずくなることもないだろうし。
だけどもし、仮に、万が一。
理性が崩れたような反応があったとしたら。
その先を考えようとして。
でもうまくいかなくて。
湧いてくる感情は不安ばかりだ。
そんなタイミングでスマホが鳴った。
電話の着信だった。
あたしに電話をかけてくる相手なんて数人しか思い浮かばない。
古井河先生と、お母さんと、あとは――
「もしもし……? どうしたの、青葉」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
七海は恐る恐るといった声音で電話に出た。相手が三ツ森青葉なら、おっかなびっくりの対応にもなるのも仕方ない。
「え? うん、夏祭りで絡まれたけど……、いや、パパ活じゃないってば、うん、お察しのとおり長谷川さんだけど……、え? 今?」
七海がこちらを向いて申し訳なさそうな顔をする。
「替わるの? 長谷川さんと?」
そんなやつはここにはいない。
僕は身振り手振りで拒絶の意思を示すが、残念ながら伝わらなかったようだ。七海はこちらへ歩いてきて、スマホを差し出した。
「青葉からです。長谷川さんと替われってしつこくて」
「何を言われるんだろう、恐ろしいなぁ。……もしもし」
『副店長のおっさん?』
三ツ森青葉は出だしから失礼だった。
「長谷川という名前があるから、それを使っておくれ」
「じゃああたし、先にお風呂入ってきますね」
「――ちょ!?」
『は? お風呂? 今のどういうこと?』
電話口の声が低くなる。
「私にはお布団って聞こえたけどね」
『そっちの方が本番に近づいてるし』
「三ツ森さんは、私になんの用かな?」
流れを無視して尋ねた。
彼女に合わせていたら話がこじれてしまう。
疑うような沈黙の後、やがて三ツ森は本題を切り出した。
『あいつら……うちの知り合いが、夏祭りで七海っちを見つけて、しかもパパ活してたって騒いでたから、気になって』
「なるほど」
『で、どうなん?』
「やましいことは何もないよ」
大っぴらに言えるわけでもないが。
『女子高生と一緒に夏祭りに……、ていうか、夜に出歩いてたのに?』
「それでも私と水渡さんは、君が考えているような関係じゃない」
『でも七海っちは――』
三ツ森の言葉が途切れて、
『――七海っちは、すごくがんばってて』
改めて発せられた言葉は、おそらく、本当に言いたかった言葉ではないのだろう。
「高校に入るために必死で勉強をしたというのは聞いているよ」
『そうだよ、なのに、親の都合で勝手に転校させられたりして……』
三ツ森の声は、まるで自分のことを悔しがっているかのようだった。
この子は確かに七海の友達だったのだろう。先日のいざこざは、すれ違いや誤解によるものであって、七海に対する本来の感情ではなかったのだと、そう思える声だった。
「それは気の毒だとは思うけれど、転勤や転居はどうしようもないんじゃ――」
『やっぱり七海っち、言ってなかったか』
「うん?」
『七海っちの母親は、そういうんじゃなくて。……仕事の都合で引っ越したんじゃなくて』
三ツ森の声には明らかな悪感情が込められていた。
七海の母親に対する、嫌悪と軽蔑が。
「何か、知っているのかい?」
恐るおそる問いかける。ここ数日のあいだ七海と接した所感として、彼女の家にはいくらか問題はあっても、事件性はないと思っていた。
しかし、三ツ森の口ぶりは、明らかに――
『あの女は、男を追っかけてったの』
「は……?」
我ながら間の抜けた声が出てしまった。
『なんかSNSでやり取りして意気投合して、お互いフリーだねって話になって、それじゃ一緒に住もうって流れで決まったらしいけど』
「それは、また……、フットワークが軽いことで」
『尻軽って素直に言えば』
「大人はあまり刺激的な言葉を使っちゃいけないんだ。安っぽく見られるからね」
『あそ』
スマホを遠ざけて、ため息をつく。
恋に生きるというのは、その響きだけを切り取れば、素晴らしいことのように聞こえる。純粋で懸命な、曇りのない生き方のように思える。
しかし、そのために周囲に迷惑をかけるのはいただけない。特に、親の恋愛が子供の生活を乱しているのだとしたら、それは醜悪以外のなにものでもないだろう。
『ちょっとおじさん?』
「……長谷川」
『おじさん、七海っちの上司なんでしょ、七海っちのこと助けてあげてよ』
「それは職務の範囲を超えている」
『二人の関係だってショクム? の範囲を超えてるくせに。変なことしてもいいけど、シたならシたで責任取れって言ってんの!』
三ツ森は興奮気味にそう言って、一方的に通話を切ってしまった。
彼女の七海に対する必死さは伝わってきたが、それでこちらの考えが変わるわけでもない。ただ、もたらされた情報については、じっくり考えてみる価値があった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
七海と入れ替わりでシャワーを浴びて、そして出てくる。
冷房の効いたリビングで、七海はソファに座ってスマホをつついていた。その横顔はニヤニヤと笑っている。
こちらに気が向いていないことに安心する。厄介すぎる家庭事情を聞いたあとで、彼女と目を合わせてしまったら、きっと動揺が顔に出ていただろう。
「何か面白い動画でもあった?」
「センセからのメッセージに返信してたんです」
見ていたのはグループライン『さんにんぐらし』らしい。
このタイミングで古井河からのメッセージならば、おそらく『二人きりだからと言っておかしなことをしないように』という類の警告文だろう。
自分のスマホを操作してグループラインを確認する。
そこには確かに、想像していたとおりのメッセージがあった。
ラブリバ:わたしがいないからって
ラブリバ:二人でヘンなことしちゃダメですからね
ラブリバ:(目つきの悪い猫のスタンプ)
しかし、それに対する返信は想像を超えていた。
みなとなみ:大丈夫、ちょっと激しい運動をしただけ
みなとなみ:二人で密着して、息が切れるまで
みなとなみ:蒸せるから離れなさい、って言われたけど
みなとなみ:背中に手を回すと、長谷川さん、ちょっと痛がってた
みなとなみ:跡が残ってるかも
みなとなみ:(目がハートになった犬のスタンプ)
直後、画面が暗転して古井河からの音声着信があった。
「……もしもし」
『長谷川君、説明を』
「子供の冗談を真に受けすぎだ」
ソファの方を見ると、七海は無言で腹を抱えて笑っている。
僕はその脇を通ってベランダへ出た。
『冗談にならなくなるから心配してるの』
「夏祭りに行っただけだよ。君が言ったんじゃないか、フォローしてあげてって」
『それはそうだけど……、水渡さん、やっぱり落ち込んでた?』
「今は問題ないよ」
『激しい運動をして?』
「あの子には誤解を誘う文才がある」
『……本っ当に、おかしなことはしてないのね』
「心配しすぎじゃないかな」
『それは……、ちょっと寝た子を起こすようなことをしてしまったっていうか、わたしも大人げなかったっていうか』
「仲がいいんだね」
『おかげさまで』
古井河の切り返しには皮肉がたっぷりと含まれていた。
彼女は教師として七海を心配しているのは間違いない。が、それ以外の感情――対抗心や嫉妬心も見え隠れしている、ように思える。
同窓会の帰り道の、あの告白は本心なのだろう。
だが、その感情は何年も前のものであって、今の彼女が今の僕に対してどういう思いを
こちらの誠意を確かめるような沈黙は、古井河のため息によって終わる。
『おかしなこと云々は抜きにしても、気をつけてね? わたしたち大人は、水渡さんという子供に対して、責任があるんだから』
「ああ、わかってる。古井河も気をつけて。車の運転とか」
通話を終えると、手すりに腕を置いて、地方都市の貧相な夜景を眺める。
『七海っちを助けてあげて』という三ツ森の言葉と、
『水渡さんに対して責任がある』という古井河の言葉。
どちらも七海を思いやってはいるが、しかしその方向は相反している。
三ツ森はもしかしたら、僕がヒーローのように颯爽と、七海をあの境遇から救ってやれると考えているのかもしれない。
古井河はシンプルに、七海の面倒をしっかり見て、期限が来れば親元へ返す――そういうつもりで話をしている。
三ツ森は良くも悪くも僕に過大な期待をしている節があり、古井河の方は、いくらか特殊な現状ではあるものの、大人として、教師としての責任を果たそうとしている。
――では、僕自身はどうか。
三ツ森や古井河と同じように、僕にもこうしたいという願望はある。
だが、願い望むだけでは何も変わらない。
動かなければならない場面なのは明らかで、
どこへ向かえばいいのかはわかり切っており、
期日も少しずつ近づいてきていた。
夏の終わりはまだ先だが、一般常識として、スケジュールは早めに先方へ伝えなければならない。あらゆる手続きには時間がかかるのだから。
僕はスマホの電話帳を開いて、職場の同僚へ片っ端から電話をかけていく。
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