第16話 同窓会 後編
年甲斐もなく駆け足を披露した古井河だったが、百メートルも行かないうちにその代償として右のヒールが折れてしまった。
「おんぶして」
「正気?」
「もう歩けないから」
そっぽを向いて拗ねたような口をきく古井河。
どうやら歩くつもりがないようだ。
僕は仕方なく彼女の前で背を向けてひざまずいた。
古井河の子供みたいな要求だってそうだ。きっとアルコールが言わせたセリフなのだろう。
そんなうっかりアラサー女教師を背負って、僕は夜道を歩いている。ただでさえ蒸し暑い夜だというのに、人ひとりを背負って身体を密着させていると、よりいっそう暑苦しい。
「わたし、重くない?」
「ポストにスポーツクラブのチラシが入っていたのを思い出したよあ
脇腹に突起物が押し当てられている感触がある。
「何かが刺さってるんだけど」
「刺してんのよ」
折れたヒールで脇腹を突かれていた。しかもグリグリと捻りまで加えられる。
「あーあ、とても愉快な夜だわ」
値の張る靴のヒールは折れて、ストッキングは伝線し、転んだ拍子に服も汚れてしまっている――そんな状態を古井河は愉快だという。
聞き間違いかと思い、問い返す。
「不快じゃなくて?」
「だってヒールが折れておんぶしてもらうなんて、全女性憧れのシチュエーションじゃない」
全女性、とはまた大きく出過ぎではないか。
「それは古井河の特殊な性癖ではなく?」
「ハイヒールというのは大人の女性を象徴する記号でしょ? それが折れることは、会社でのストレスで潰れそうな精神を意味しているの。
そこへ颯爽と異性が現れて、俺の背中を貸すよと言う。まともな精神状態だったら乗れるわけがない提案も、ほろ酔いの身体と、めかし込んだ服が台無しになったショック、それに闇夜のヴェールが合わさることで、恥じらいよりも好奇心が勝って、よっしゃ行ったれ、って気持ちになるわけ」
「せめて掛け声にも女性らしさを」
「長谷川君の背中ってこんなにおっきかったんだ……」
古井河が耳元で少女のようなつぶやきをもらし、指先で僕の背筋をなぞった。
「ちょ、あぶないって」
「あはははははは……!」
高笑いが夜空に響く。はた迷惑な酔っ払いである。
「まったく……、ちょっとはしゃぎ過ぎだよ」
「だぁって、楽しかったんだもん」
だもん、という語尾にもあまり痛々しさを感じない。
走ったせいで僕も酔いが回っているのかもしれなかった。
「長谷川君に呼ばれてみんなの輪から遠ざかって、少しは青春を挽回できた気がする」
「それ、前にも言ってたけど、やっぱり信じられないな」
突き放すような言い方になってしまった。
古井河は急に黙り込んでしまう。先ほどまで騒々しかったぶん落差が大きいが、気まずくなるよりも早く、古井河は話を続ける。
「卒業式のあと、クラスメイトみんなでカラオケ行ったの覚えてる?」
急な話題の切り替えだったが、同窓会の直後のせいか、当時の記憶は鮮明だ。
「……ああ、古井河が僕らみたいな日陰者にも声をかけてくれて、本当に全員参加だったっけ」
「じゃあ、その打ち上げで、わたしと話をしたのは?」
「忘れてないよ」
ほんの数分ほどのやり取りだったが、高校生活の中でも指折りの、印象深い時間だった。
「わたしもよ。ずっと覚えてたわ。こんなに話の合う人が同じクラスにいたんだってびっくりした。もっと早く話しかけていたらよかったのにって。長谷川君はどう?」
「みんなと仲良くできるやつは、誰とでも話を合わせられるんだなと感心したよ」
僕のわき腹を再びヒールの先端が襲った。
「わたしはね、もっと話したいって思った。好きなアーティストの曲をデュエットしたり、愛読している作家の話をしたり、気になる異性の話をしたり――すぐ隣に座ってるのに音が大きくて相手の声が聞こえないから、え? 何? って顔を寄せ合って、その近さに戸惑ったりして。……そういうこと、本気で考えてたのよ」
「でも、そうはならなかった」
「友達に呼ばれたわたしは、席を離れてしまって、それ以上、長谷川君と話すことはなかった。高校生活の最後なのに、自分の欲求に正直になれなかった」
12年目の告白に驚いていた。
あのときの彼女が、僕との会話にそこまでの強い感情を抱いていたなんて。
当時の情景を唐突に思い出す。
クラスメイトでいっぱいになった、うす暗いカラオケボックス。テーブルと人のすき間を縫って、古井河が近づいてくる。僕のところまでやってきた彼女は、イタズラっぽく、あるいは照れくさそうに笑って、隣いい? と問いかけてくる。
『なに歌うの?』
『歌わないよ』
『じゃあ普段なに聴いてるの?』
古井河の質問に返事をしているうちに、僕たちの趣味がとても似通っていることに気づく。そうと知らないまま同じ問題の答え合わせをしているみたいに、トントン拍子で話が進んでいくのだ。
大好きなアーティストの、お気に入りの楽曲の、心揺さぶられるフレーズが一致したときなどは、うっかり口調が変わってしまった。
もっと話をしたい。
それは身の程知らずで一方的な願望なのだと、当時の僕は勝手に思い込んでいた。
あのとき、席を立つ古井河の手を取って、抜け出さないかと聞けていたら。
僕たちの関係はもっと違っていただろうか。
そんな思考までが一致したかのように、耳元で古井河がささやく。
「あの日の続きを、やり直したいと思う?」
「子供が待ってるから、今日は帰らないと」
意外なことに、返事に迷いはなかった。
ただ、古井河には意気地なしと罵られるかもしれない。
「――気づいてたのね、水渡さんの様子がおかしいことに」
ところが。
こちらの不安は外れ、古井河はむしろ感心しているようだ。
「ここ数日、妙に口数が多くて騒がしかったからね。精神的に不安定になってるんじゃないかと、少し気になっただけさ」
「そういう細やかさは大切よ。小さな変化が実は大きな異変のサインかもしれないんだから」
芯のとおった教師の声で古井河は言う。
それは、青春を振り返る時間の、終わりの合図だ。
あっさりした終わり方だったが、収穫はあった。
古井河がこの三人ぐらしを認めた理由のなかで、『相手が僕であること』が案外おおきなウエイトを占めているらしいことに気づけたのだから。
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