第7話 三人ぐらし初日 合鍵について

 朝食を食べ終えて身支度を整えると、古井河は慌ただしく出かけていった。普段の仕事に加えてアパートの片づけ、新しい部屋探しなど、やることがてんこ盛りで忙しそうだ。


「絶対に、過ちを、犯さないように。一線を、超えないように。いいわね」


 出がけにとても強く念押しをされてしまった。


「……ちょっと警戒しすぎじゃないかな」


 閉じたドアに向けて、つい愚痴をこぼしてしまう。


「センセにはセンセの事情があるんですよ」


 洗い物をしていた七海が流し台シンクごしに顔を出す。


「古井河の事情?」


伯鳴高校ウチってそこそこ進学校じゃないですか」


「ん? ああ、県下じゃ2・3位を争うレベルだったね」


「だから生徒もだいたいフツーっていうかマトモっていうか、あんまりヤンチャする生徒はいない校風なんですよ」


「そうだね。バイトの面接に来てくれた子も、伯鳴の生徒っていうだけで採用率が上がるよ」


「でも、あたしが入る前の話なんですけど、在学中にいろいろヤンチャした生徒会長がいたらしくて、それ以来、風紀の乱れについて妙にうるさくなったんですよ。っていっても、夏休み前の生活指導の小言が長くなった、くらいのレベルですけど」


「だから古井河も気にしてるわけか。ところで、ヤンチャというのは具体的には?」


「それは……その、いろいろ、ですよ。人は見かけとか肩書きじゃ判断できないっていうか、頭がよくて真面目な人でも、そういうことにハマっちゃうんですかねぇ」


 七海のトーンは批判的だった。その口ぶりからして、色恋沙汰には慣れっこというわけではないらしい。


 男の部屋には平気で宿泊するくせに、意外とお堅い貞操観念を持っているようだ。……なんて、セクハラに相当する発言なので口には出さなかったが。




 ネクタイを締めて出かける準備を整えると、洗い物を終えた七海に声をかける。


「そろそろ仕事に行くけど、水渡さんは、今日の予定は?」


「あたしは休みです。午後から出かけようと思ってました」


「そうか、じゃあ鍵を渡しておくよ」


「――ええ? そ、そんなの受け取れませんよ!」


 合鍵を差し出すと、七海は両手のひらを突き出してぶんぶんと首を振った。全力で拒否のポーズである。


「でもそれだと君の予定が狂うだろう」


「狂うだろう、じゃなくて……、副店長はどこの馬の骨とも知れない小娘が部屋を自由に出入りできるようになっても構わないんですか?」


「いや、水渡さんの身元はちゃんとわかっているじゃないか」


「それはそうですけど……」


 はあ、と七海はあきれ顔でため息をつく。


「こらこら、あまり露骨に表情を変えない。おじさんでも傷つくんだよ」


 むしろおじさんの方が傷つきやすい可能性もある。経年劣化で脆くなっている部分もあるのだ。


「……あたしがものを盗むとか考えないんですか?」


 七海は質問を変えてきた。

 カギの悪用を考えないのか、という問いだ。


「水渡さんの身元は分かっている。すぐに連絡がついて、居場所が特定できる。部屋のものが無くなれば、真っ先に疑われるのは水渡さんだ。これだけ材料がそろっていても盗みをするほど、君は愚かじゃないだろう」


「……副店長って大人ですね」


 彼女の口にした〝大人〟という言葉には、憧れではなく嘲りの響きがあった。


「あたしがこの街とか学校とか人生とかが全部どうでもよくなって、どこか遠くへ行っちゃいたいって思ってたら?」


 いつもの笑顔とは違う、透き通った無表情で首をかしげる。


「副店長みたいな人は、格好のエサになっちゃいますよ」


「……それは」


 とっさに反論ができなかった。


 追い詰められて形振なりふりかまわなくなった――七海が言うところの全部どうでもよくなった人間に対して、理性や常識、法律は無力だ。自爆テロがなくならない理由のひとつでもある。


 ただ、僕はその手の危機を身近に感じたことがなかったせいか、警戒心というものが欠如していた。少なくとも、見知ったバイト先の女子高生を相手に、そこまで身構えたりしていない。


「……なんて、冗談です」


 七海は明るい声と笑顔でもって、一瞬だけ垣間見せた異質さをなかったことにする。


「大人をからかうものじゃない」


「はーい。じゃあ借りておきますね。あ・い・か・ぎ」


 七海は合鍵のキーホルダを指先でくるりと回し、ハートマークでもつきそうな声音で言う。


「スペアを作らないようにね」


「はーい」


 間延びした幼い返事もわざとなのだろう。

 それを指摘する気にはなれなかった。


「それじゃあ、行ってきます」


「いってら~」


 気の抜けるあいさつを背に部屋を出る。

 子供の皮をかぶった水渡七海に対して、長谷川誠治は最後まで大人ぶることしかできなかった。


 ――副店長って大人ですね。


 七海の言葉を心の中で繰り返す。


 自分を大人だと思ったことは一度もない。ただ、大人の皮をかぶって大人らしい演技をするのが上手になっただけだ。そして、この歳になると〝大人の対応〟を外れることの方が難しい。恐ろしい、とも言える。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「長谷川」


 店内を巡回中、レジ主任の榊原さかきはら桐子きりこが声をかけてきた。男性従業員に対する当たりの強さから、特に異性から恐れられているが、仕事面では非常に優秀だ。見事な営業スマイルとテキパキした応対のため、お客様からの評判もいい。


「どうしたの、榊原主任」


「水渡のことなんだけど。あの子、どう。ちょっと最近、仕事にムラがあるなと思ってたんだけど」


「そう? 私は気が付かなかったが……、主任が言うならそうなんだろうね」


「あの美人教師は何か言ってなかった?」


 そう問われて大切な話を思い出した。

 昨日までは僕も知らなった情報を、榊原に伝える。


「そういえば、水渡さんは1学期末で転校なので、ここのバイトも夏休み中ごろで終了だから」


「はぁ? ……ったく、だからか。まあ、そういう理由ならいいか。いや良くはないな、もっと早く言ってくれないとシフト調整がめんどくなるのに」


「ところで、どういう理由で水渡さんの仕事にムラがあると思ってたの」


 気になって尋ねると、榊原は嫌なことを思い出したみたいに小さく舌打ちをした。


「そんなもん色恋沙汰に決まってんだろ。彼氏に振られたショックで飯ものどを通らないから休みます、とか平気で言えるんだよ今どきの女子高生は」


「それはすごい」


「急用で休みますっつって彼氏とデートしたりするし……、ともかく連中の世界は恋愛を中心にして回ってるんだ」


「なるほど」


 決めつけのような物言いには少しばかり疑問を感じるが、機嫌のよろしくない彼女に反論したところで睨まれるだけだ。ここはおとなしく相槌を打っておく。


 もちろん、違和感は残る。


 容姿こそ整っているものの洒落っ気のない七海と、榊原の言う〝恋愛中心の女子高生〟が、イコールでつながらないのだ。


 それでも、七海が夏休みの間だけでもこちらに残りたがっている理由――そのひとつの可能性として、色恋沙汰というのは頭に入れておくべきか。


「水渡さんからその手の話を聞いたことは?」


「いや? ないけど」


「上司に相談とかは」


「恋愛の? しないだろ普通」


「それはそうだけどね……」


「なんだ気になるの長谷川。……ああ、美人教師との話のタネにするつもりか」


「そういうんじゃないけどね」


「アンタも三十路だもんなあ、そろそろ親がうるさいころだもんなあ」


「お互い様だよあ痛」


 アラサーとは思えない、キレの良いローキックを見舞われる。

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