第6話 三人ぐらし初日 家事手伝女子高生と寝起き女教師

 三人ぐらしの始まりの朝は、鼻孔をくすぐる芳ばしい匂いで目が覚めた。


 昨晩は七海が僕のベッドを使い、古井河には物置きとなっていた空き部屋を使ってもらった。消去法で僕の寝床はリビングのソファしかなかった。


 そのせいか、腰に痛みを、背筋に若干の張りを感じる。しかしそれを態度に出してはいけない。七海からのおじさん扱いが加速するだけだ。


 疲れの残る身体をのろのろと起こして窓辺に立つ。

 すでにカーテンは開かれており、窓の外には青空が広がっている。


「あ、副店長。おはようございまーす」


 七海がこちらに気づいてあいさつをしてくる。寝起きでまだ頭がぼんやりしている僕とは違い、朝にふさわしいはつらつとした表情だ。


 テーブルにはすでに料理が並んでいた。トーストとハムエッグ、そして簡単なサラダ。シンプルな洋風の朝食である。


「……おはよう、水渡さん。朝食作ってくれたのか……」


「副店長、髪の毛ぼっさぼさですよ」


「髪質がやわらかいからね……、朝はよくこうなるんだ……」


「あー、ハゲやす……、抜けやすい髪質ですね」


「憐れむような目で見ないでおくれ……」


 あと言い直したせいで最初の許しがたい単語が強調されていたが、それは意図したものではないと信じたい。


「古井河は、まだ?」


「はい、ちっとも起きてきません。昨日は夜遅くまで部屋の明かりがついてましたけど……」


「いろいろあって、身も心も疲れているはずだ。寝かせておいてあげよう」


 顔を洗うべく洗面所へ向かおうとする僕を、


「ダメですよ副店長、ちゃんと起こさないと」


 と七海が呼び止める。


「ちゃんと起こすって……、え? 私がかい?」


「せっかく作った料理が冷めちゃいますし、それにあたしは食事の準備で忙しいし」


 もっともな理由に思えるが、満面のニヤニヤ笑いで言われては、他意があるようにしか聞こえない。


「オンナの寝顔を見るくらいどうってことないですよね?」


「すっぴんの顔を見られたアラサー女性の反応を知らないから、君はそんな恐ろしいことが言えるんだよ……」


 古井河愛佳はアラサー女性。つまり、いい年をした大人である。わざわざ起こす必要はないはずだ。


 とはいえ、昨日のトラブルのせいで今日の予定を忘れるほどに疲れ果てて、起きられずにいる可能性はある。


 それに今日は平日だ。生徒が夏休みであっても教師までそうだとは限らない。一般的な会社勤めの人間なら、そろそろ支度をしないと危ない時間になっている。


 そんな風に頭の中で言い訳を組み立ててから、古井河の寝室をノックした。

 返事はない。

 もう一度ノック。

 やはり返事はない。

 仕方なくドアを開けて中へ入る。


 窓のない部屋のため、中は真っ暗だ。戸口からの明かりでかろうじて中の様子がわかる。布団に寝転ぶシルエットが目に飛び込んでくるが、あまりマジマジ見つめるのも失礼だと我に返り、手探りでスイッチを押して明かりをつける。


 古井河の寝姿は乱れきっていた。

 長い髪が布団の上に扇のように広がって、手にはスマートフォンを握ったまま。寝ているうちに蹴飛ばしてしまったのか、掛布団は足の下だ。薄手のシャツがめくれ上がって、くびれたウエストと、形の良いへそがのぞいている。


 そっと目線を上げて、部屋の様子を見回した。


 この部屋にあった荷物は、古井河の入居にともないすべて移動させた。しかし、それにしてはずいぶんと物が散らばっている。たったひと晩で乱雑になりすぎではないか。


 枕元に空っぽになった缶ビールが転がっていたのも気がかりな点だ。飲酒をとやかく言うつもりはない。飲みたい夜もあるだろう。ただ、一晩で五本というのは飲みすぎだ。その割に腹部の形はきれいに保たれていたが。


 不埒な思考をとがめるように、けたたましい音が鳴り響いた。出どころは古井河のスマートフォンだ。


「……んう」


 古井河は目を閉じたままで画面にベタベタと触れる。何度目かで音が止むと、彼女は再び、すうすうと寝息を立て始めた。


 これはいけない。


「古井河。ちょっと、古井河先生」


 肩を強めに揺すった。

 連動して胸が揺れ、僕の心も揺れた。

 これはいけない。


 頬をかるく叩くやり方に切り替えて、ぺしぺしやっていると、ようやくうっすら目が開いた。


「ん……、あれぇ……? 誰?」


 身体を起こした古井河と、同じ視線の高さで目が合う。


「おはよう古井河」

「ああ……、はせがわくん……」


 焦点がふらついていた瞳が、やがてこちらをはっきり捉えた。


「――はせっ!? ……長谷川君?」

「そうだよ」


 こちらの存在を認識すると、古井河は座ったままとは思えない素早さで後退して、背中を壁にぶつけた。「あ痛」顔を真っ赤にして髪の毛の乱れを整えようとするが、手の動きが雑すぎて逆にボサボサになっていた。


「や、やるじゃない、初日から夜這よばいなんて」

「もう朝だよ。だから強いて言うなら朝いかな」

「朝ばい、って博多弁みたい」

「まだ寝ぼけてるみたいだね」

「あたまいたい……」


 二日酔いでこめかみを押さえる古井河に、頭痛薬を用意するために部屋を出る。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「……これ、水渡さんが作ったの?」


 ジャージを羽織って部屋から出てきた古井河は、テーブルに並んだ朝食を見て目を丸くする。


「なかなか手馴れてるだろう」


「なんで副店長がドヤ顔なんですか。これくらい、フツーですよ、フツー」


「ああ、そういえば、家事の分担も考えないと……」


 古井河は思い出したように難しい顔をして、七海の隣に座った。


「別に家事くらいあたしが全部やるし」


「それはありがたい」


 七海の前向きな言葉を、僕は手放しで喜んだ。


 やる気を出させるのも上司の仕事とよくいわれるが、それはあらゆる仕事のなかでも特に難しいものだ。だからこそ、最初からやる気のある部下はとても貴重である。仕事を任せて責任感を植え付け、経験を積ませて成長を促す――それらの原動力こそが〝やる気〟なのだから。


「そんなの駄目に決まってるでしょ、水渡さんだけに丸投げするなんて。家主の長谷川君はともかく……、わたしもやるわ。あとできちんと分担しましょう」


 古井河は家事の分担を申し出てきた。教え子だけに家事をやらせるのは心苦しいのだろう。部屋を借りている負い目もあるのかもしれない。


 二人から家賃を取る気はなかったので、金銭的な話はしていない。しかし対価もなしに何かをしてもらうことに抵抗を感じるのは、人として正常な感覚だ。そのあたりのことも、いずれ話し合う必要がある。


「別にセンセ無理しなくていいのに」


「無理じゃないわよ。わたしも一人暮らしは長いんだから」


「あたしの料理を見てびっくりしてた」


「してません」


「副店長に起こしてもらってたし」


「いまだかつてないほど疲れていただけ。明日からは大丈夫だから」


 二人の言い合いを傍観していて感じたのは、距離の近さだ。


 古井河と七海のやり取りは、教師と生徒というよりも、年の近い友人のよう。

 七海のぶっきらぼうな態度は年相応だとしても、それに応じる古井河の言動もずいぶんと幼い。まだ寝起きで外面がうまく作れないのか、それとも、学校でもこれくらいの距離感で生徒と接しているのか。どちらにしても、〝いつもの古井河愛佳〟を知らない僕には判断のつかないことだった。


「……副店長、何ニヤニヤしてるんですか」


 七海がジトッとした視線を向けてくる。


「え? そんな顔してたかな」


 口元に触れてみるが、表情の変化はわからない。


「ちょっと長谷川君、女の子同士の会話くらいでニヤけないで。今のご時世、不審者のハードルは低くなってるんだから」


 女の子(※アラサー)に真顔で注意されてしまう。


「古井河は女の子のハードルを下げすぎじゃないかな」

「よく聞こえなかったからもういちど言ってくれないかしら」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る