第5話 同居に至る経緯 その5 契約成立
古井河のアパートに同行して、七海と一緒にエントランスで待機していた。
周囲には数台の乗用車が停まっており、夜だというのに作業服姿の男性が慌ただしく動いている。
水もれのトラブルがあったということだが、対応の規模を見るに、被害は彼女の部屋だけではなさそうだ。
「水漏れって聞いたときは、ちょっと床が濡れたのかなー、くらいに思ってたんですけど」
アパートを見上げながらしゃべる七海の、白い喉が脈打つように動いている。
「この手のトラブルはピンキリだからね。自分の部屋だけじゃなく、上の部屋の配管が原因になったりすることも多い」
僕もつられてアパートを見上げた。古井河の部屋はどの辺りだろうか。オートロック付きで外装も小ぎれいだ。おそらく自分の部屋より家賃が高いな、などといちいち比較してしまう小市民である。
やがて戻ってきた古井河の顔は、今は怒りで赤く染まっていた。
目を合わせるなり、いきなり対応した管理会社の社員への不満が飛んでくる。
「ほんっとにもう、自分の非を認めない男って最低」
「まあまあ、仕事だと会社の利益を守るためにそういう態度になってしまうこともあるよ」
「会社っていうより保身のためでしょ。だいたい、相手の心証を二の次にしている時点で無能だわ。気分を害された顧客のリアクションをまったく考えていないんだから。その場しのぎの対応は下策だって、普通はわかるでしょうに」
「プライベートだといい人かもしれない」
「あれじゃたかが知れてるわね。粋がって突っ張るのを男らしさと勘違いしているクズ男よきっと。自分の嫌なことを受け入れられない器の小ささをアピールしているだけだって気づかないのかしら」
管理会社の対応が腹に据えかねたのか、古井河はしばらく、とても生徒には聞かせられない口の悪さで業者を罵倒し続けた。
僕はそれに「確かに」「わかる」「大変だったね」「君の言うことは正しい」とひたすら同意を返して、彼女の感情が落ち着くのを待った。七海は少し後ろで黙って聞いていた。
やがて、ようやく怒りを全て吐き出せたのか、冷静になった古井河が七海へと向き直った。
「詳しいことは明日になるけど、どのみち部屋は使えそうにないわ。……ごめんなさい、水渡さん。ウチに泊めるという話は、申し訳ないけれど」
「謝らないでよ、別に……、センセが悪いわけじゃないんだし。それに、あたしを泊めてくれるって言ったの、びっくりしたけど、うれしかった」
七海は静かに、ゆっくりと感謝を述べる。それはバイト中の接客とも、僕への取ってつけたような敬語とも違う、不器用だがていねいな態度だった。本音を語るという行為に慣れていないから、そんなたどたどしい語り口になってしまうのかもしれない。
「でも、それじゃあ水渡さんは」
古井河がこちらを見やる。
彼女の部屋が使えなくなってしまった以上、先ほど僕のところで話をしたとおり、職場の同僚を当たってみる、という対応に戻るしかないだろう。
自分の提案ではあるものの、いざ実行されるとなると、心苦しいものがある。
七海を人任せにしてしまうだけではない。
せっかく気持ちが通じ合った教師と教え子を、強引に引き離してしまったような気分になる。もちろん水漏れ事故は僕とは無関係なのだが、それでも。
二人の窮地に何もしない自分に、それでいいのかと問いかける、ひと回り若い自分の声が聞こえた気がして、
「もしよかったら、二人とも、私のところに来るかい?」
そんな言葉が口をついて出た。
「――いいんですか?」
七海はパッと表情を咲かせてこちらを見上げてくる。
「長谷川君……?」
古井河は何を言っているのか理解できない、という顔で目を細める。
対照的な反応だった。
それはそのまま、子供と大人の反応の違いでもある。
降って湧いたイベントにはしゃぐ子供と、非常識な提案に眉をひそめる大人の。
「ああ、部屋ならちゃんと二つある。リビングも合わせたら三つだ。夏休みの間だけなんだろう? それくらいなら大丈夫だよ」
「うわぁ、ありがとうございます」
七海はすでに完全に乗り気になっている。
「ちょっと待って、水渡さん……、長谷川君も」
古井河は右手で額を押さえながら、左の手のひらをこちらに向ける。
「ウチのアパートは元々二世帯用だから、同居人が増えるのは問題ないよ」
「あー、だから無駄に部屋が多かったんですね」
「そういうことを心配してるんじゃなくて」
声を荒げる古井河に、僕は現状を突き付ける。
「古井河も住むところがなくなった」
「泊まる場所くらい管理会社が手配するわよ」
「不便な立地の空き部屋を提示されたってキレかけてたじゃないか」
不人気物件を押し付ける気ね、冗談じゃないわ、と怒り心頭だったのを思い出したのか、古井河は視線を落として顔を赤くした。
「それは……、別の場所を探すから」
「でも、すぐにいい部屋が見つかって即日転居ってわけにもいかないだろう?」
「いいじゃないセンセ、ちょっと何日か世話になるだけなんだし」
と七海も加勢してくる。
財布のひもを固くしている妻に趣味のための小遣いをねだる旦那と、よくわからないけど面白そうだから煽っている子供のような構図だった。
「水渡さんは完全にその気になってるけど、わたしは許しませんからね」
「えー、でもやっぱり、赤の他人のお世話になるのはちょっと気が引けるし」
七海はそこで言葉を切って、ちらりとこちらに目線を向ける。
「その点、副店長ならあんまり気を使わなくてもいいし、そこにセンセがいてくれたら、あたしを襲わないように抑止力になってくれるでしょ」
大国に挟まれた弱小国のような立ち回りで説得をする七海。
元担任は困り果てた顔で女子高生を見つめ、続いてこちらを見た。というかほぼ睨まれていた。
「いや、襲わないよ? ……もし、古井河がどこかの部屋に転がり込む当てがあるなら、もう何も言わないけれど」
「悪かったわね、頼れる彼氏の一人もいなくて」
「そんなつもりで言ったんじゃないんだけどね」
「欲望に満ちた目でセンセを見てる、独身の男性教師どもなら山ほどいますけどね」
七海がニヤニヤ顔で耳打ちしてくるが、今その情報は必要なのだろうか。
「そんな連中、お呼びじゃないわ」
古井河は顔をしかめてそう吐き捨てる。職場で言い寄られたりセクハラすれすれの扱いをされたりしてストレスが溜まっているのかもしれない。知らないが。
ともあれ現在の迷いを見る限り、僕はどうやら〝そんな連中〟よりはマシなカテゴリに入れられているようだ。光栄なことである。
古井河は腕組みをしたまま、僕と七海の周りをぐるぐると周回しはじめる。檻の中のゴリラみたい、という七海のつぶやきも聞こえていない。
やがて六周目で立ち止まると、髪の毛をくしゃりとかきながら難しい顔で、
「……わかったわ。とりあえず、一週間くらい……、新しい部屋を探すから、それまでの間、お願いします」
古井河は諦めたように頭を下げた。
そのくたびれた様子は、おじぎというよりも垂れ下がる稲穂のようで、どうしようもない妥協のすえの結論であるのは明らかだった。
「なんかもういろいろあって考えるのも疲れちゃったわ……」
「ああ、わかるよ。疲労が重なると判断力が鈍るからね」
「それにつけ込んだんじゃないでしょうね……」
僕はノーコメントの苦笑いで応じる。
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