第十四更 やりたいこと



 数分後、口元を拭いつつ組長室から出てきた高野が、一人の組員を手招きする。

「夏井さん、悪いんだけど、あとで手借りるかも」

「構わへんよ。何? 車?」

眼鏡をかけた男が、高野の傍に寄る。頭の右半分を刈り上げた、藍色のアシンメトリーな髪型が特徴的なその男は、若く見えるが高野にとっては年上の部下だ。特殊な立ち位置ではあったが、組内でも気が置けない人間の一人だった。


「車……も、そうなんですけど。ちょっと派手に動けない用事ができて。迷惑じゃなければ、夏井さんに手伝ってほしいんだ」

「ええ? めずらしなあ。自分でええなら手貸すで」

あまり他人を頼ろうとしない高野に、頼みごとをされたのが嬉しかったのだろう。夏井は少し楽しげな声だった。

「助かります。……夏井さん強いから」

フードを被る高野の表情を見て、夏井は少し目を見開いた。それからすぐににやりと笑う。

「君ほどやないけど、ま、最近暴れてへんからね。久しぶりに、遊べそうやないの」

ひっそりと交わされる剣呑な会話は、他の組員には聞こえていないらしい。


 高野はポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てる。

「……もしもし? マスター起きてる? ……そう、じゃあ、頼みがあるんだけど……」


   *


 通話を切った成海が、磐長のほうを振り向く。雀荘すずめを満たしているのは、暖色の室内灯と、焼いたパンの残り香と、コーヒーの匂いだった。その真ん中で、磐長は成海を見ている。

「……高野から?」

「はい」

成海は携帯電話をポケットに仕舞いながら、ソファの上を見た。そこには丸くなって眠る小森がいる。かけられたブランケットに顔を埋めるようにして、僅かに寝息を立てている。


「……マスター、お願いしたいことが……」

「うん、そうだね」


 カップのコーヒーを飲み干して、磐長は立ち上がった。

「小森ちゃん、どうしようか。このまま寝かせておいてあげたいけど、一人にするのは心配だな」

洗い場にカップを持っていき、蛇口をひねる。成海は後に続いてカウンターの中に入り、食器を洗うのを手伝った。


 三人で朝食をとりながら、ひととおり磐長に話をした。彼は驚くこともなく、ただ穏やかに、成海と小森の言葉を聞いていた。磐長が作った朝食——焼きたてのトーストにバターを塗って蜂蜜をかけたもの、プレーンなオムレツ、湯通ししたブロッコリーと茹で卵を胡麻とマヨネーズで和えたサラダ、温かいカフェオレ——を食べ終えた小森は、さすがに疲れが出たのだろう。ソファに座った途端、すぐに眠ってしまった。


 食器を片付けた後、成海はソファに近づき、少女の顔を見つめた。

「……このまま寝かせておきます。起きてもここで待っておくように、手紙でも置いて」

成海が小声でそう言うと、磐長は頷き、メモパッドとボールペンを手渡す。

「じゃあ、成海。先に下で待ってるね」

片手をあげ、磐長が静かにすずめを出る。それを見送って、成海はメモに書置きをし、もう一度小森を見た。


「……小森、ちゃん」

少女の閉じられた目から、一粒涙が零れたのを見て、成海はしゃがみこんだ。頬にかかった髪を、そっと払う。

 それから成海は、ふと思い出したように立ち上がり、すずめの奥にある自室に入った。引き出しを開け、畳んで袋に入れられた白いハンカチを取り出す。再びソファに戻り、それで優しく涙を拭う。

「……おやすみ」

小さな手にハンカチを握らせ、成海もまたすずめを後にした。


 成海は一階に降りる階段を歩きながら、腕時計を確認した。午前九時過ぎ。電話口で高野は、可能な限り早く情報が欲しいと言っていた。情報。柳組の動向、そのわかる限り全て。少しだけ、歯がゆく思う。成海はあくまでも代打ち師だ。相手を追い詰め、交渉し、卓の前に連れてくるところまでは、高野に頼るほかない。だからこそ、自分にできることは何でもするつもりだった。そうやってこれまでも、二人でやってきた。


 階段を降り、店の前に立つ。汚れた看板の横に、ひっそりと隠されるようについた銀のドアノブを捻る。金属の擦れる音がして、重い扉が開いた。


   *


 話は十年前に遡る。


 成海と高野は、谷松と磐長が時折仕事の話をしているのを、なんとはなしに知っていた。詳しくはわからないけれど、二人は手を組んで何かのビジネスを行っている。それが、頻繁に店舗が入れ変わる、雀荘すずめの一階のテナントオーナーの運営だったと聞かされたのは、谷松が死んでからだった。


 ある時は民族風の服を扱う店、ある時は清潔感あふれる店構えに置くものがそぐわない古本屋、またある時は風俗店——「昇天☆めいどり~む」という、天使のメイド(メイドの天使だったかもしれない)がコンセプトのかなりマニアックなリフレだった——怪しげなお香を売る雑貨屋だったことも、土地柄需要のなさそうな個別指導塾だったことも、薬剤師のいない薬局だったことも、むやみやたらと安い菓子屋だったこともある。その全てのオーナー——否、谷松曰く『プロデューサー』を、二人でしていたのだ。


「おれと神音で、次どんな店入れるか考えてね」

そう語る磐長は、髪を切ったばかりで、どこか別人のようにさえ見えたことを、成海はよく覚えていた。

「どんな業種にするか、流行ってるのが何か、近隣に何ができて何が潰れたか……知り合いに声かけたり、収支の算段立てたり、何も知らない神音の弟分に接客教えたりして。神音はゲームみたいに思ってたみたいだけど、作戦立てる時はおれたち二人とも本気になっちゃって。朝までずっと会議したり……」


 谷松神音が死んでからちょうどひとつき後、磐長は髪を切った。肩より下まであって後ろで一つに束ねていたそれを、うなじが見えるくらいまで短くして、ハーフアップにするようになった。それが何らかの示唆なのか、そうでないのかはわからなかった。けれど数日前に一階のテナントが無くなったことは、谷松の死が関係していたのだと、成海は知った。


「儲かるときは結構儲かったんだよ。組長さんに褒められるくらいには……けど、神音、すぐに別のお店にしたがるから。飽き性っていうか、ギャンブル狂いっていうか。いや……うん。おれも、それが、楽しかったんだけど」

磐長は言葉を切って——痛みを堪えるように、わずかに顔を歪めた。


 谷松の死後、磐長は休むことなく動き続けた。恐らくはそのビジネスの収拾を付けたり、谷松の部屋を片付けたり、彼なりにいろいろしなければならないことがあったのだろう。成海の目には彼がいつも通りに、むしろいつも以上に忙しなく見えていた。けれどその時初めて、彼もまた谷松を喪って悲しんでいると、気付いてしまった。休まず動いていたのはきっと、立ち止まったら、彼の死を実感してしまうからだ。


 ふと、マスターは泣いたのだろうかと、成海は考えた。


「けど、神音がいないのにやっても仕方ないから。もともと神音が持ち掛けてきた話だったし……おれだけじゃあ何も、できないし」

気が付くと、その表情はいつも通りの穏やかなものに変わっていた。組んだ手に目を落としている。

「だから組長さんに話付けて、テナントオーナーはもうやめることにしたんだ。その代わりにやりたいことがあるからって」

「……やりたいこと?」

思わず聞き返すと、磐長は優しく微笑んだ。

「成海、手伝ってくれる?」


 数ヶ月後、その場所は小さな煙草屋になった。二階と比較してあまりにも小さい、窓口だけのその煙草屋の奥には、所狭しと機器が並べられたセキュリティルームが隠されている。


 掠れた『たばこや ラケル』の看板は仮の姿だ。ハッキングで盗み取った、京都中の情報と監視カメラの映像が、そこには集まっている。


 ラケルという名前は、磐長がつけた。彼なりに、谷松との最後の共同事業として、形に残したのかもしれない。そして今やその名を、京都の裏社会で知らぬ者はいない。


 磐長朔弥の、新たな城だった。


   *


「情報屋なんて、結局は覗き趣味——って誰かが言っていたけどね」

そう微笑みながら、磐長はキーボードに指を滑らせる。

「まったくもって同感だな。おれはこうして町の様子とか人の挙動を観察するのが、つまるところ単純に好きなんだよね。もちろん最初は、少しでも君たちの助けになれたらって思って始めたことだけど……」


 左手を伸ばして、一つのモニターの電源を入れる。比較的小さなそれに映し出されたのは、あるキャバクラ店内の映像だった。内装を見て、成海はどこにある店か見当をつける。

「……芙蓉町の北のほうにある、確かジズって名前の……キャバ、ですよね、これ」

成海の問いかけに、磐長は頷いた。

「どうしてわかったの?」

「え、ああ。結構前ですけど、高野が偵察……? に行くとかで、たまたまついて行ったんです」

「へえ……偵察、ね……」


 磐長が映像の再生時間を調節する間、沈黙が流れる。昼も夜もない、薄暗いモニタールームは、何故か成海を安心させた。いつだったかそれを磐長に伝えた時、自分もそうだと微笑みかけられたことを覚えている。


 店に複数人のスーツを着た男たちが入ってきたところで、磐長が手を止めた。成海が思わず小さく声を上げる。

「もしかして」

「たぶん、柳組の人達だね」

男たちは店員と何やら話している。音声のない映像だけでも、その高圧的な態度が見て取れる。

「音のほうは少し時間がかかるかも」

「構いません。直接行って聞いてきます」

男のうちの一人が、スツールを蹴り飛ばしたところで、成海は携帯電話を取り出した。高野へのメッセージを手早く作成する。


「マスター、この映像、ずいぶん早く見つかりましたね」

店名と簡単な情報だけを送り、顔を上げると、数台のモニターに複数の映像が映されていた。磐長の手は止まることなく動き続け、出される映像の数は増える。

「……ここは、いくつかある心当たりのうちの一つ……いや、最有力候補だったからね」

「心当たり……?」

磐長は、椅子を回して体ごと成海のほうを向いた。


「……成海を助けた件があったでしょう。あの後のことだけど。西木組が取り仕切ってたこの近辺の店を、いくつかそのまま残して、鈴鳴組がケツモチやることにしたんだ。ジズってキャバクラは、そのうちの一つ」

「……」

「でもそれだけじゃない。そういう店は他にもある。この店が特別なのは」

身を捻って、キーボードに何かを打ち込む。数秒して、ジズの映像の上に、一枚の画像が現れた。


「……かつて、六原慧子が勤務していたから」


 青い煌びやかなドレスに身を包み、僅かに首を傾げてこちらに微笑みかける、桃色の髪の女性。記憶の中の彼女と変わらない姿が、そこにはあった。


「……あの人が、働いていた店……だったんですね……」

その写真を見て、成海は改めて、六原小森を思う。

「……似てるな」

「似てるね」


 思わず漏らした言葉に、磐長が苦笑しつつ返す。口元がよく似ている。目鼻立ちには僅かに違いを感じるが、その瞳の色は間違いなく血筋だ。


「……これ、マスター。この名前って」

成海が慧子の写真の画像の下のほうを指差した。

「ああ。けろこちゃんの源氏名だよ。意外とありがちな名前使ってたんだね、『アキ』なんて」

成海は目を閉じて、深く息を吐いた。

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