第十三更 記憶の中
一度事務所に戻る、という高野を見送り、成海と小森はすずめの奥にあるカウンターに座った。
「随分長く話しちゃったね。眠くない?」
時計は六時前を示している。ほとんど夜は明け、外からは鳥の声が聞こえていた。成海は窓に寄って、カーテンを閉める。
「……車でたくさん寝たから、大丈夫です」
そう答えたものの、小森の顔には疲労が浮かんでいる。
「そういえば、長いこと車に乗ってきたって言ってたね。……ん、車って誰の運転で……」
「……タクシーです」
「あ、タクシーか」
夜半にこんな幼い子一人を乗せるタクシーがあるのだろうか、と一瞬成海は考えたが、あまり深く追求しないことにする。
「何時間くらい乗ってきたの?」
「……家を出たのが、確か、十一時くらいだったと思います」
壁の時計を見つめて、思い出すように小森が呟く。
「寝てたら、ママから電話がかかってきて。起きて、着替えて、お家の前の車に乗ってって。すごく急いでる声だったから、言うとおりにしました」
カウンターに置かれた両手は小さい。落ち着いた物腰や大人びた発言に惑わされるが、まだ年端もいかない少女であるということを改めて感じさせた。
「……お腹空かない?」
「え」
小森から僅かな不安を感じ取った成海が、明るい声で言う。
「僕、夕方から何も食べてなくて。ちょっと変だけど、寝る前に朝ご飯食べない? 良かったら一緒に食べてほしいな」
返事も聞かずに、成海はスーツのジャケットを脱ぎ始める。
「六時には、マスターが起きてくるはずだから。パンとご飯、どっちがいい?」
「……パン……」
「あ、僕もね、朝はパンのほうが好き」
ネクタイとジャケットを椅子の背にかけた成海が、立ち上がって背を伸ばす。
「ちょっとだけ待ってて。一階からマスター呼んでくる」
成海が小走りで出ていく。小森はその後ろ姿を見送って、ぼんやりと視線をさまよわせた。
カーテンの隙間から覗く窓の外に、目を留める。束の間止んだ雨、雲の隙間から光が見える。金色の朝日が一筋差し込み、彼女の紅い目をオレンジ色に変えていた。ポケットから写真を取り出し、視線を落とす。
母からたった一つ、持っていくように言われたもの。
ずっと昔から知っている、彼ら。
彼女には、確かめなければならないことがあった。
*
事務所に戻った高野を、数人の舎弟が出迎える。かつてはただの下っ端だった高野も、谷松が死んでからその仕事を一身に引き受け、気が付けば舎弟頭にまで地位を上げていた。
「兄貴、組長がお呼びです」
「……おやっさんが?」
被っていたフードを脱ぎながら、高野が部屋の奥の扉を見る。
「奥にいる?」
「はい」
ジャケットのボタンを留め、ネクタイを締め直しながら、高野は扉に向かって歩く。最後に軽く耳のピアスに触れ、ドアをノックした。
「おやっさん、俺です。高野です」
おう、と中から低い声が聞こえたので、ノブを回す。重い扉を肩で開け、部屋に入る。
「おやっさ……」
呼びかけた高野が途中で固まる。大きな机の上に、ホールのケーキが乗っていたからだ。
無言のままそっと、後ろ手でドアを閉める。
「……え、今日、誕生日っすか? 誰か」
「ん? いや、知らん。まあ、こんだけ組員おるから、誰かはそうかもしれんが。なんでや?」
「……おやっさんが朝っぱらからホールのケーキなんか食ってるからですよ」
鈴鳴組組長、竜嶽は、眉間に深い皺を寄せながら、デスクに乗った大きなケーキにフォークを刺している。苺が乗った生クリームたっぷりのそれは、すでに四分の一ほど無くなっていた。
「俺がこれまで誰かの誕生日に、一人でケーキ食っとったことあるかいな」
「ないっすけど……」
「せやったら関係あらへんやろ。お前、最近ちょっとは頭切れるようなったと思うとったんやが、まだまだやな」
まあいい歳してまだそない髪色しとるしなあ、などと言いつつ竜嶽は大きく口を開けてケーキを頬張る。
「……じゃあ、なんで朝七時から一人でホールのケーキを丸ごと食べてるんですか? おやっさんは」
拗ねたような口調で聞きながら、高野は革張りのソファにどっかりと腰を下ろす。
「食いたいから食うとるに決まっとるやろ」
「あ、……え? ……ああ」
高野は首を傾げながら頷いた。絶対服従を誓っている、高野が誰よりも畏敬する男。そして同時に、いつまでも理解の及ばない男だった。
「それで、話って何です?」
「せや」
竜嶽は銀色に光るフォークの先を、高野に向けた。
「お前、あの橋土井とかいうのと、なんやまた揉めとるんか?」
「え?」
橋土井というのは、西木組の構成員、橋土井風雅のことである。かつて高野や谷松らと対立したことがあるが、事は丸く収まり、近頃は大きな問題も無い。むしろ関係は良好だ。
「いや……全然。何もないですけど……なんでですか?」
「西木組んとこの下っ端かなんかが、変な動きしとる」
「……と、いうと」
高野はさっと目の色を変えて、前のめりになった。
「詳細は分からんが、うちのシマで暴れとる連中がおる。人捜しとか言うて、手あたり次第店回っとるようや。どこの組のモンか聞いても、本人らは答えんらしいが。ツテによると、西木におった奴に似た人間も混じっとる言うんでな。お前、心当たりは?」
「大アリだな」
溜息をついて、高野はソファに背を沈めた。
「風雅じゃない。……柳組ですよ、おやっさん」
「あ?」
手の甲で瞼を覆いながら、高野が呟く。
「あの……柳組が。探してるんですよ……人を」
「……柳組の残党や、ちゅうことか?」
「残党どころじゃない、大本が残ってんですよ。クソ、やっぱりあの時探し出して殺すべきだった……」
高野が苛立ったような声でぼやきながら、起き上がり頭を掻く。口の端についた苺の汁を拭い、竜嶽はじっと高野を見た。
「……柳組の大本言うたら、西木の組長のせがれやないか」
「そうです。西木組現組長、柳御堂の一人息子。後継ぎどころか、実質親子の縁切られて、拠点の奈良から追放までされた、とんでもないボンクラですよ」
竜嶽の目つきが険しくなる。
「……せやけど、あの時……潰したはずやろ。全が打って、お前らで片付けた……もう五年も前の話や。今更なんやっちゅうねん、その柳組が」
「……」
竜嶽の口からさらりと出た五年という言葉に、高野は気付いてしまった。柳組の名を聞いて、真っ先に思い出される事象はただ一つだ。つまりこの男は、谷松神音の死から経過した年数を、即座に口にできる。
鈴鳴組の虎の子。彼の存在は、やはり竜嶽にとって、特別だったのだろう。
しかし、そう。五年前。谷松神音を殺した柳組の男は、安田全の勝利によって、多額の『迷惑料』と共に身柄を引き渡され。
高野の目の前で、自殺した。
……思い出すだけで、やるせない怒りが沸き上がって、高野はそれを振り払うように目を閉じた。
「……六原小森」
澱んだ血のような色。谷松の目に重ねるようにして、彼女の目を脳裏に描きながら、高野は目を開き呟いた。
「……何?」
「六原慧子と柳春日の間に娘がいたでしょ」
六原、と竜嶽が繰り返した。フォークを持つ手は止まっている。
「十年前、俺が先生に代打ちを依頼した、一連の取引の渦中にいた女ですよ。六原慧子。その娘が、俺らを訪ねてきたんです」
「訪ねてって」
フォークを置き、顎に手を当てる。しばし考えた後、竜嶽は立ち上がり、高野の向かいのソファに座った。
「お前を探しに来たんか、あの娘が」
「はい。一人で」
「一人……」
両膝の間で手を組み、頭を垂れた竜嶽のつむじを、高野はじっと見つめた。多くを語る必要はない、と感じた。きっと自分が思い至ったいくつかの可能性は、同じように竜嶽も考えているだろう、と。
「助けてくれって言うんです」
「……」
「誰かに命を狙われていると。母親に逃げろって、俺らに助けを求めろって、そう言われたんだって。九歳の女の子が、たった一人で」
高野は静かに、瞳に朝日を映して、言う。
「……助けてやろうと思うんです」
「……簡単に言うてくれるわ」
竜嶽の声には、微かに嘲笑が含まれていた。
「その、子供追っとるんが柳組やっちゅう確証はあるんか」
「まだ、ありません」
「……柳組やったとして、どないするんや」
「柳春日を殺します」
今度こそ、と、低く呟く。
「……縁切った言うても、西木組の直系、いや、直系どころやない。せがれや。お前、それがどないいうことか」
「わかっています」
ぐ、と高野が身体を乗り出し、竜嶽の耳元に顔を近づける。
「だから、こうしておやっさんに話しています」
「……」
顔を上げないまま、竜嶽は、肩を揺らす。
「ふ、はは。お前はほんまに……」
彼はその先の言葉を飲み込んだ。高野はそれを長い付き合いゆえに察した。
「……俺が止めてもどうせ勝手にやる癖にのう」
高野は黙って微笑む。
「好きにせえ。どうせ野放しにはしてられん。この件、お前に一任したる」
諦めたように竜嶽は天を仰いだ。高野は深く頭を下げる。
「承知いたしました。ありがとうございます、おやっさん」
「……楽しそうにしよって」
「……まさか。全然楽しくなんてないですよ」
「やりすぎるんやないぞ、お前……」
「はは、いや、むしろ成海のほうが心配ですよ、その点は」
腕を組んだ高野がだらしなくソファに背を預ける。それから、ふ、と小さな笑い声を漏らす。竜嶽が訝しげな目を向けた。
「いや、……その、娘。六原小森って子、お母さんそっくりでね」
高野は視線を窓の外にやりながら、独り言のように言う。
「……神音さんが見たら、なんて言うかな、って思って」
記憶の中の彼女によく似た少女を思い、高野は苦笑した。自分たちが救った女の、生き写しのような子供が、今再び助けを求めて現れる。晩冬の、雨の夜に。そこに彼の歪な信仰心は、何を見るだろうか、と。
「……神音なら」
竜嶽は、遠くを見つめ少し眉を顰めた。
「まあ、実は、たぶんその娘には、会うたことがあるやろうけどな」
「……え?」
体を起こした高野を見て、竜嶽はバツが悪そうに目を逸らす。
「……女の後の世話、あいつに任せとったんや。ガキ産む手筈だの住む場所だの、全部神音にやらせたんや、せやからな……生まれてからいっぺんくらい、顔見てるやろうと思うわ」
——瞬間、高野の脳内にフラッシュのようなイメージが浮かんだ。幼子を抱く、光の中の彼は、相変わらず何を考えているのかわからない無表情で。その目は、鮮血のように赤い。
子供と同じように。
ぞっとした。
身震いを掻き消すように、高野は立ち上がる。
「……そろそろ出ますね、俺」
声には僅かほども動揺は滲んでいない。いつも通りの、当たり障りのない好青年の表情で、高野は竜嶽を見下ろした。
「……ちょい、待て、高野」
躊躇うような彼の声が珍しくて、高野は思わず目を丸くした。
「どうしたんですか、おやっさん」
「ちょっと……」
腰を上げた竜嶽が、机の上のケーキを指差す。
「あれ、食うの手伝うてくれんか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます