第十二更 潮時

 


 神音さんの葬式は静かに、つつがなく執り行われた。真っ白の棺桶に、真っ白の百合が詰められている。献花のためにその中を見る。


 高級そうな黒いスーツ。緋色のシャツ。紫紺色のネクタイ。彼によく似合う、見慣れたような、知らない服。胸元で組まれた手の中に、小さな十字架が納まっている。眠るように瞑られた目を、色のない唇を、その顔を、見ることができない。見たくない。僕は百合を彼の足元にそっと置いて、逃げるように立ち去る。


 彼はもうこの先、僕の中に、言葉でしか存在してくれない。過去は記憶となり、記録となり、谷松神音は二度と僕の手が届かないものとなった。


 その背中は、あまりに遠く、曖昧で。


 悔しくて恐ろしくて、腹の底が煮えくり返って、突然涙が溢れた。谷松神音は死んだ、という声だけが、頭の中で何度も何度も響いている。彼に似たその声が。


   *


 すずめに戻っても泣き続ける僕をソファに座らせ、温かいコーヒーを淹れて、マスターは何も言わず出て行った。横に座ったやくさんは、腕を組んで窓の外を眺めていた。とめどなく涙が零れる目を擦ると、滲む視界にいつもの雀卓が映る。先生が座っている。その隣には、誰もいない。


 成海くん、と彼に呼ばれた気がして、僕は俯いてまた泣いた。


   *


 気がつくと夜だった。泣きすぎて気分が悪い。いつの間にかテーブルに置かれていたコップの水を飲み干す。腫れた目を両手で覆い、深く呼吸をする。手を離し、ゆっくりと顔を上げる。


 窓から射す月明かりに照らされて、高野はひとりそこにいた。


 卓の側に立っている。神音さんがいつも座っていた席を、見ている。闇に溶けて表情は見えない。ただ肩を落として、立ち尽くしていて、空っぽで、怖くなった僕は、しかし目を逸らせなかった。


 高野は僕なんかよりずっと、神音さんから遠いところに居た。高野には、神音さんの背中さえ、見えていない。瞬時に僕は、そう悟った。

 高野、と呼ぶ。声帯が空気を震わすことはなく、息だけが微かに僕の口から出る。静かな夜にその呼吸は消える。高野はそれでも、いつだってそうだったように、僕に気付いて、僕の方を見た。光の無いその目に、何が映っているのか、わからなかった。何も映してなどいなかった。僕でさえも、その瞳には映らない。今も過去も未来も見ていない、何も見えていない。真っ暗闇の真ん中が、僕を飲み込んで、泣きたくないのに勝手に涙が溢れた。


 高野。ごめんね。僕はお前より少しだけ光に近いところにいるんだ。だから眩しくて涙が止まらない。


 声を上げてみっともなく僕は泣いた。夜が明けて喉が潰れるまでずっと、そうしていた。


   *


「神音さんは、路地裏で倒れているのを発見された」

成海の声は冷たく、無機質で、その目は遠くただ一点を見つめている。


「見つかったときにはもう死んでいた。失血死だった。頭を鈍器で殴られた跡が、複数あったらしい」

少女は俯いてじっとそれを聞いていた。手の中の写真を見ながら。


「……僕は何度も、神音さんがいた路地裏に行ったよ。薄暗い狭い、室外機とゴミしかないところ。見上げると、ビルの隙間から少しだけ空が見えるんだ。だからきっと神音さんも、倒れたままずっと、雨に濡れて」

 成海はもう数えきれないほど、血溜まりの中に横たわる男の幻覚を見てきた。


「……」

訪れた沈黙に、少女は顔を上げ、高野を見た。表情はごっそりと抜け落ち、そこに感情はない。五年の間、彼らは一歩も進んでいなかった。幼い彼女にさえ、そう感じさせてしまうほどに。


「それから何日かして、僕たちは先生に呼び出された」

成海が左隣の席を見た。無意識だった。窓に一番近いその席は、安田全の定位置だった。蛍光灯が無残に照らす空席を、僅かに顔を歪めて見つめる。

「先生は……僕達をおやっさんのところに連れて行った。喪服を着たおやっさんの前で、先生は、次の代打ちで引退する、って言ったんだ」

少女は『先生』を、手の中の写真でしか見たことがない。銀髪の、片目がない男。褪せた写真でかろうじて、その右目の紫苑色が確認できる。見るほどに不安になる色だった。

「おやっさんは止めなかった。最後の代打ちだけは、頼む、って……あんなふうに頭を下げる姿を見たのは、後にも先にも、あれきりだった……」

高野もまた、どこか懐かしむように、対面の椅子を見ていた。


「先生の、最後の代打ち。対戦相手は、その頃芙蓉町を荒らしていた、柳組というところだった。その組が……」

ふと言葉を切って、成海は少女を見た。微かに彼女の纏う空気が変わった気がしたからだ。しかし彼女は先ほどまでと同じ、心の内の見えない無表情のままだった。

「……あきちゃん……?」

暗く澱んだ血のような目が、成海に誰かを思い出させようとする。けれどそれは、少女の声に遮られた。

「先生は勝ったの?」

心なしか、語気が強い。

「……もちろん。……とても美しい勝ち方だった。先生らしい麻雀で……圧倒的な豪運と、繊細な牌筋……場を全部、自分のものにしてしまうような……」


 成海は目を閉じて、その様子を思いえがいた。雷雨の夜だった。開始早々、目を覚ますように立ち現れた清老頭。続いて宣戦布告のように並べられた小三元と対々和の跳満。成海は彼がこの勝負に一切の手加減をしないことを——それどころではない、彼がかつてないほどに本気であることを、その牌姿から悟る。それから相手の怯みを確かな恐怖に変えるために、二、三度成海を上がらせる。その上がり役に、成海の意思が付け入る余地はない。既に卓は安田の独壇場だった。とどめのように、彼は緑一色を上がった。生い茂る蔦は捕食者のように、獲物をとらえて離さない。相手をしていた壮年の男性は、その瞬間完全に戦意を失った。彼だって決して弱い雀士ではなかった。危険牌を嗅ぎ分け、安田の魔の手を掻い潜ろうとしていることに、成海は気付いていた。それでも、逃げるだけでは安田全には勝てない。


 虎に背を向ければ、命は無い。


 成海は男の目を見て、もうこの勝負が決したことを悟った。

「……僕でさえ、恐ろしくてたまらないような、そんな対局だったよ。先生は……安田全はその夜、ひとつの伝説を創りあげて、そして代打ち師を引退したんだ」

成海は瞼を開けて、窓の外に目を向けた。雨垂れとそこに映る空席に、記憶が蘇る。


 あの夜、すべてが終わった後。革手袋を脱いだ手で、煙草を取り出し、——いつもと違う、赤いウィンストンは、神音さんの好きだったもので——慣れた手つきでそれに火を点けて。


 潮時だ、と言って、先生は笑った。

 憑物が落ちたような、優しい微笑みだった。


「……そして僕は鈴鳴組の代打ち師になった」

少女はじっと、成海を見つめる。

「……そうか。もう五年も経つのか……」

ぽつり、と、それまで黙っていた高野が呟いた。重く深い、それでいてどこか上の空のような声色だった。

「……これが、俺達のこれまでの話だ、あきちゃん」

向けられた瞳に、少女が僅かにたじろいだ。黄金色に光るその目が、彼女を揺さぶる。

「……違うんです。あきじゃない」

少女は少しだけ泣きそうな声で、そう零した。


「あきは、嘘の名前。私の名前は、六原小森。……小さい森で、こもり」

高野は、驚かなかった。微笑み、彼女の頭を撫でる。

「……教えてくれてありがとう。小森ちゃん。……もう一つ聞いてもいいかな」

真っ直ぐに目を合わせ、優しく、それでいてきっぱりと、高野が尋ねた。


「君は自分のお父さんを知ってる?」

血溜まりのような濡れた目に、一筋の光が宿った。


「……」

頷いた少女の頭から、高野が手を離す。だれ、と囁くように聞く。


「……柳、春日」

その名を、高野と成海は知っていた。


 西木組内直系団体、剣崎会三次組織、《柳組》組長、柳春日。

 谷松神音を殺した組織の頭である。

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