第十一更 運命は雨に似ている
「それから三年経った頃、かな」
「さんねん?」
少女が顔を上げる。
「そう。三年間、僕たちはなんでもない日々を過ごしたんだよ」
成海は手牌を揃え上げ、ぱたりと倒した。
「これが、一気通貫」
少女は物珍しそうに、十四枚の牌を眺めた。
「……時々小さな事件があって、そういう時は、みんなで力を合わせて解決して。いろんなところに遊びに行って、いろんなこと教えてもらって。楽しかったなあ……」
成海はそのひとつひとつを思い返すように、筒子の一からゆっくりと指でなぞる。少女の深い桃色の目もそれを追いかけ、それから成海の顔を見た。
「……あの」
「ん?」
「なんて呼べばいいですか?」
あ、と成海は声を上げた。
「僕のことは、うん、そうだね……成海って呼んでくれるかな」
「……なるみくん」
ぽつりと呟かれた名前に、成海は照れたように笑う。
「うん。それで……」
「俺は高野でいいよ」
押し黙っていた高野が、優しい声で言った。
「……たかの、くん」
呼ばれた高野が、くしゃりと笑う。少し困ったように眉を下げるその笑顔は、昔から変わらない。
「……成海くんと高野くんは、ずっと、《先生》の代わりをやってるんですか」
年の割に落ち着いたその声は、成海に彼女の母親を思い出させた。
「ううん。僕が組の代打ち師として働いたのは、その一回きりで、それからずっとまた先生が打ってたんだ。三年の間もね」
「三年……」
「そう。それから三年後、つまり今から五年前……」
成海は言葉を切って、目を伏せ、手牌を崩した。牌同士がぶつかる、からからという音が鳴る。
「僕は正式に鈴鳴組の代打ち師になった」
成海の目を、少女は見つめた。深い夜の海のような目だった。
窓を濡らす雨は、先ほどより強くなっていた。
*
盆地の梅雨は短い。湿った空気が熱を孕んで、温室のような夏の訪れを感じさせていた。六月三十日、早朝。久しぶりに六人がすずめに揃って、朝まで話したり麻雀をした。夜明けの時間になっても窓の外は薄暗く、梅雨の終わりを名残惜しむように、曇天が広がっている。
ソファではやくさんが横になって携帯電話を触っている。時々あくびをして、微睡みの狭間に落ちかけているようだ。マスターはカウンターでお湯が沸くのを待ちながら、髪を結い直している。もうすぐこの部屋はコーヒーの香りで満たされる。僕はそれがたまらなく好きだった。卓に座っている僕の向かいで、先生が煙草に火を灯す。蛍光灯の下で温かく燃えるそれが、淡い菫色の瞳に映っている。隣の高野はついさっきまで神音さんとゲームの話をしていたのに、突っ伏して寝息を立てていた。手に持ったままの缶チューハイをそっと取り上げる。その神音さんは、ペットボトルの紅茶を飲みながら、窓の外を眺めている。穏やかで心地いい時間だった。
「……そろそろ行くか」
ボトルを置いた神音さんがのっそりと立ち上がる。
「今日、何かあるんですか、神音さん」
「ん? ちょっとお仕事がね」
表情から察するに、あまり気乗りしない様子だ。袖をまくった薄いブルーのシャツは、皺だらけだった。
「僕、手伝いましょうか?」
起きる気配がない高野から視線を外し、神音さんを見上げる。
「うちの大事な未来の雀士様を働かせるほどじゃねーよ。気にすんな」
頷いて、背中を見送る。煙草の匂いに交じって、コーヒーの香りがし始める。
「神音、傘は」
先生が咥え煙草のまま聞いた。心なしか、声のトーンが低い。眠っている高野を気遣ってか、それとも曇天に引き摺られているのか。
「邪魔だからいらねえ」
似たような会話は、この数年でもう何度か聞いていた。毎回神音さんは傘を持って行かない。立場が逆の時もあるが、先生も聞かれたらいつも拒否している。飽きない人たちだ。
「気を付けてね。行ってらっしゃい」
「おう」
マスターの声に片手をあげ、いつものように神音さんは出て行った。
*
コーヒーを飲み終わる頃には、昼前になっていた。少し眠って元気になったらしい高野とやくさんは、モニターの前に二人並んでゲームをしている。声は落ち着いているが、会話に混じる単語はゲームのせいか少し物騒だ。朝からずっと同じところに座っている先生は、しばらくモニターのゲーム画面を見ていたけれど、今はうつらうつらしている。僕の横でコーヒーを飲みながら新聞を見ていたマスターが、空のカップを持って立ち上がった。
「成海、おかわりいる?」
「あ……お願いします」
「全は?」
マスターは軽く先生の肩に触れた。小さな唸り声をあげて、先生が背筋を伸ばす。
「いる」
微笑んで三つのカップを持ったマスターの後を追って、僕も立ち上がった。
「マスター……」
「あ、いいよ。座ってて」
「いえ、洗い物します」
シャツの袖をずり上げながら、カウンターに入る。ありがとう、と言ったマスターの笑顔は、徹夜を感じさせないほど爽やかだ。その肩越しに見えた外は、雨が降り始めていた。
「雨……」
「……降り始めたね」
ふと見ると、先生は立ち上がって窓辺に立っていた。相変わらず何を考えているかわからない顔で、じっと雨を見ている。
「傘、必要だったな」
口元がそう動いた気がした。
*
先生の携帯が鳴ったのは、日没にほど近い時だった。初めて見る表情だった。彼の口から零れ出たのは、神音さんの名前だった。耳から離した液晶画面を見つめる先生に、その目に、僕は怯えた。
*
運命は雨に似ている、と思う。
降る時を知ることも、降るものを止める術もなく、突然に身体を濡らし、頬を濡らし、命を濡らす。烟る視界、頭痛、冷えていく指先も、立ち込める暗雲も。
神音さんはあの日、雨に濡れながら、何を思っただろう。何を感じながら、何を見ながら、あの路地裏に横たわっていたのだろうか。僕にはわからない、それを知ることはできない、何故なら。
谷松神音は死んだのだから。
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