第十更 星が滲んで
アジトは、芙蓉町の北のはずれにある、主に風俗店が入った雑居ビルの三階だった。暗い階段を上がり、なんの表札もない灰色の扉の前に立つ。神音さんが何度かノックしたが、返答はない。すると高野が自然な動作で神音さんの前に入り、音を立ててドアノブを捻った。
「かけてますね、鍵」
「いける?」
「はい」
神音さんが一歩下がり、僕の胸の前に手を翳した。それを見て僕も慌てて後退る。次の瞬間、高野がドアを思い切り蹴破った。
轟音と共に、アルミフレームごと扉が吹っ飛ぶ。唖然とする僕を置いて、神音さんはさっさと中に入ってしまった。
「お邪魔します~」
関西特有のイントネーションで、神音さんが声を上げる。一見すると、部屋には誰もいない。
「どなたか居てはりますか~?」
その後ろに続いた高野が、僕を軽く手で制した。不思議に思い、玄関前で立ち止まる。刹那、物陰に光るものが見えた。
「神音さんッ!」
飛び出してきた男を、高野が掴み上げ投げ捨てる。間髪入れず数人のチンピラが現れ、二人を囲んだ。
「ちょっと……勘弁しろよ。俺ぁ武闘派じゃねーんだよ」
中国語で何事か叫びながら襲い掛かる男たちを、高野は殴り、神音さんは……よく見えないが、いなしつつその辺の物を使って応戦しているようだ。乱闘を眺めていると、その中の一人が僕に目を付ける。
「うわ……」
慌ててポケットに手を入れる。常に忍ばせている護身用のナイフを取り出し、男が振りかぶった金属バットを頭を下げて避け、突進するように潜り込んだ懐を切り裂いた。耳元で絶叫がうるさい。
「成海!」
気付いた高野が僕を庇うように前に立った。相変わらず心配性だ。敵の数はもう随分減っている。
「えらい歓迎してくれはりますねえ」
声のほうを見ると、神音さんが花瓶を振りおろすところだった。鈍い音と悲鳴が聞こえる。
「神音さん、先に」
高野が男の首に腕を回し、絞めながら顎で部屋の奥を指した。ふらりとこちらを振り向いた神音さんの顔は、完全に疲れ切っている。この一年で僕たちは、彼がヤクザにしてはかなりフィジカルが弱いことを、重々承知していた。グレーのスーツは既に血塗れだ。返り血であることを願う。
「了解」
片手をあげ、彼はよろよろと数歩進み、事務所奥の扉に思い切り体当たりした。衝撃音と共に姿は消え、見えなくなる。
「あ、くそ、俺が開けとけば良かった……」
高野の呟きは人間が床に叩きつけられる音に掻き消され、かろうじて僕にだけ届いた。僕は脇をするりと抜け、高野を振り返る。
「高野。神音さんの方、見てくる」
「え、成海! 大丈夫?」
「もう、ほんと過保護。任せてよ」
ナイフを見せびらかしてから、僕は歩みを進めた。奥の部屋は薄暗く、神音さんの背中がぼんやりと見える。道すがら拾ったもう一本のナイフを後ろ手に隠し、静かに入る。
「……穏便に済ませましょうやぁ」
神音さんの半笑いの声は、息切れしかかっている。
「こっちも三人ぽっちなんでさぁ。そろそろ疲れましたわ。そちらさんもこれ以上タマぁ失いとうないでしょ?」
彼のビジネス用の独特な京都弁(?)を聞きながら、部屋の入り口に身を潜める。
「……三人、なのか?」
少しぎこちない日本語で、相手の男は言った。
「……あんま変なこと考えない方がいいぜ。そちらさんの親元もわかってんだ。こっちだって舐められりゃ上は黙っちゃいねえ。事をデカくしすぎるのは得策じゃねーぞ」
低い声で、きちんとやりましょうや、と言いつつ、神音さんは懐から短刀を出した。気だるげな手つきで、鞘から抜く。
「聞きましたよ? 腕の良い雀士を抱えとるそうやないですか。おかげさまでここいらの雀荘も悲鳴上げとりますよ。せっかくやから、お見せ願いたいわ。……うちもええのん、連れて来ましてん」
抜いたドスの先で、振り向きもせず、僕を示す。ふたりのどちらにも、僕の姿は見えない位置に居るはずだ。ぞわりと背筋が粟立ったが、動かず、表情を変えないよう努めた。神音さんの肩越しに、唇を噛む中年の男性が見える。相手の顔には、僅かな迷いが浮かんでいる。銃でも取り出して来たら、躊躇わずナイフを投げるつもりだった。ふと背後に気配を感じ、身構える。現れたのは高野で、返り血に汚れた頬をスーツの袖で拭っている。逆の手で一人の男の襟首を掴んで引き摺り、部屋の中に投げ入れた。
「……神音さん、こっち終わりましたよ」
「おー高野くん。お疲れ」
高野はまるで疲れていなさそうだし、疲れているのはどう見ても神音さんの方だった。気怠げにくるくるとドスを回しながら、相手に向き直る。
「やってくれますよね?」
悔しそうに、相手は頷いた。
*
十二月三十一日。夕方だというのに、京都の空は真夜中のように暗い。僕は無人のビルの二階で、卓について、指を組んだ。
左隣には神音さんが座っている。慣れた煙草の匂いに、安心する。相手は中国人らしき男性二人だったが、言葉は交わさなかった。
高野はいない。恐らく、このビルの前で僕を待っている。寒いから、すずめに戻っていていいと言ったのに。
高野が凍えてしまう前に、終わらせようと思った。
*
剥き出しのコンクリートに手をついて、僕は階段を上がりきった。ドアノブを捻って重い金属製の扉を押し開ける。肌を刺すような冷たい風を浴びて、目を細めた。ビルの屋上に出る。微かに雪が降っている。京都の冬は涙が出るほど寒いが、雪が降るのは珍しい。柵に触れると冷たさで痛いほどだったので、手を引っ込めて、首を伸ばして下を覗き込んだ。
「……高野!」
ビルの前に停まった車——黒いアルファロメオの窓に顔を突っ込んでいる背中が見えたので、僕は叫んだ。見上げたその顔は、遠くからでも驚いているのがわかる。
黙って見下ろしていると、高野はまた車の持ち主に何事か話して、下がって一礼した。車が走り去っていく。そのまま高野は、ビルの中に入っていった。
僕は下を見るのを止め、手すりに背を預ける。腕時計を確認すると、二十一時を回ったところだった。少し、時間がかかってしまった。
金属の軋む音がする。ドアを開け、高野が白い息を吐きながら僕の横に立った。
「お疲れ様」
「あ。ありがとう」
ポケットから出した缶コーヒーを手渡される。まだほんのりと温かい。
「寒い中待っててくれたんだね」
「いやあ、やることなかったから。にしても、早かったね」
僕は首を振った。
「どうだった? 麻雀」
並んで二人、コーヒーを飲みながら、ちらつく雪を眺める。
「……結構、強かったよ」
相手は堅実な麻雀を打つ人だった。こちらの打牌を読んで、正しい一手を打とうとする人。正しい手は、それだけ、読みやすい。会話は一つもなかったけれど、僕は相手の思考が手に取るように分かった。先生と打っているときとは、真逆だった。
「自分のペースで麻雀できたから勝てた、って感じ。思い通りに打てた」
高野は黒いスーツの上からモッズコートを着ていた。上まで閉めたそれを見るたびに、僕は高野の背中を思い出さずにはいられない。
「成海は、思い通りに打つっていうか——……」
高野の不動明王には、もう色が入っている。黄色い炎を背負った青黒い仏は、いつ見ても恐ろしくて、美しい。
「……え?」
刺青に思いを馳せていたせいで、高野の言葉を聞き漏らしてしまった。
「なんでもないよ」
こちらを見て、高野が微笑む。
「今年も終わりかあ」
吐き出した白い息が、夜空に溶けて消える。京都の冬は、存外星が綺麗だ。背中の柵に凭れるようにして空を見ていると、危ないよ、と高野が僕のコートの襟を引っ張った。
「……そういえば、やくさんから連絡来てた」
「え? 本当?」
「うん。おせちのこと。期待してて、って」
「ふふ……」
高野に引っ張られたまま、僕は重力に任せて首を反らす。目を閉じて、すずめを想像する。年越しの瞬間は、さぞかし騒がしくなるだろう。ああ……今日のこと、先生になんて話そうかな。
褒めてくれるかな。
目を開けると、星が滲んで、いつもより光って見えた。
「帰ろうか」
「うん」
僕たちはすっかり冷たくなった缶コーヒーを片手に、芙蓉町を歩いた。あの場所に、帰るため。
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